「僕は、日本が保守的であるとも、他国と比べて非寛容的であるとも思っていません。固定観念でこのように語られがちですが、これまでの日本は危機に直面した際、柔軟に変化や異文化を受け入れてきました」
インドの国籍を持ち、大阪の私立高校で日本史を長年教えてきたシャミ・ダッタ先生はこのように語ります。現在は、東京の大学院で教員養成に携わりながら、国際バカロレア教育の教育実践に取り組まれています。
——ダッタ先生、お忙しいところありがとうございます。本日はよろしくお願い致します。早速ですが、来日されたきっかけ、そして日本人に日本語で日本史を教えるようになった経緯などをお話しいただけますか?
「僕は13歳までニューデリーで育ちました。母語はヒンディー語とパンジャブ語ですが、教育は英語で受けました。その後、日本に引っ越してきてからは、東京の高校に通いながら日本語の勉強を始めました。もともと物理が得意だったのですが、日本史の魅力に惹かれ、日本の大学で日本史を専攻することにしたのです。学部を卒業後、恩師に背中を押され、カナダの大学院で日本史の研究をすることになりました。ちょうど大学院での研究が終わる頃、新しく設立されるというユニークな学校から日本史の教員としてのオファーをいただき、教師として日本で働くようになりました」
——日本に住み続けたい、日本で働きたい、という気持ちがあったのですか?
「移民の多いカナダはとても居心地がよかったので、正直少し迷いました。ですが、日本が好きだったことと、勤めることになる学校が非常にユニークで面白そうだったことが、僕にとって日本に戻ることを決めた理由になりました。日本にいれば、日常的にその文化に触れながら日本の歴史を感じることができるのです。里山の裏にある神社や田舎の祠に足を運ぶのが好きで。人が好きなので、よく散歩にきている年配の方とお喋りを楽しみます。人生の先輩から学べることはたくさんあるんです」
——なるほど。カナダで"居心地がよかった"と感じられたのは、どのような要素があったからなのでしょうか?
「カナダでは『どちらの人?(Where are you from?)』 という質問に対して、『バンクーバーだ』という答えは自然なことで、当たり前のように納得してもらえました。このように答えていたのは、その時点で僕自身が所属していると感じていた場所です。アイデンティティーは、答えている本人が納得していれば、それが答えなんだと思います。カナダでは国籍や人種、ルーツに関わらず、市民として内側まで受け入れられている感覚がありました。日本で『どこの人?』と質問してきた床屋の人に『箕面市ですよ』と答えてみたことがあるんです。でも納得はされていない様子で。『いやいや、本当は?』と聞かれるので、『インド出身です』と伝えると、初めて納得してもらえるんですね。この違いは面白いなあと思います」
——日本語や日本史に関しては、もしかすると日本で生まれ育った人以上に多くの知識をお持ちのことと思います。「日本人だと感じることはありますか?」という質問を受けることはありますか?
「よく聞かれます。でも、僕の場合は一度も自分が日本人であると感じたことはないですね。僕はニューデリー出身のインド人です。とはいえ、北インドの地域に行くと自分が浮いてるような感覚はあります。若い頃、両親とは異なる文化圏で育った人のことを"Third Culture Kids"と呼ぶのですが、まさに私がこれに当てはまります。このような境遇の人たちと一緒にいるときは一番居心地がいいですね。"日本人"にも実に様々な人がいます」
——そういえば、別のインタビュー記事ではプロフィールに「地球人」と記載されているのを拝見したことがあるのですが...。
「ははは、そうなんです(笑)。でも、冗談でもなくて、僕はどこの国に行ってもそれなりにやっていけると思うんです。人とコミュニケーションをとるのに国境は関係ないですし、僕のように複数の国で育った"Third Culture Kids"に共通するアイデンティティーを見つけるとしたら、"地球人"かなと。でも、日本人に『日本人ですね』と言われることもよくありますよ」
——そうなんですね。「日本人ですね」というのは、褒め言葉ですか?
「最高の褒め言葉として伝えてくれている人が多いと思います。外国人である僕を"日本人"として認めてもいい、という気持ちではないでしょうか。もちろん、本心ではないでしょうし、僕が本気で受け止めていないことを彼らもわかっています。そこで僕が『いやいや、まだまだですよ』と返すと相手はほっとしますし、『日本語が上手ですね』に対して『いやいや、まだ勉強不足です』と返しても、やっぱりほっとしてるんです。日本語の先生である僕の友人は、僕が間違えて覚えている日本語を見つけては、とっても嬉しそうに指摘をしてくれます(笑)」
——"ほっとする"という感覚は、「"外国人"が、自分たちよりも"日本人"らしいわけがない」というアイデンティティーへのプライドなのでしょうか?
「そう感じる人もいると思います。そもそも、"日本人"という感覚は江戸時代に生まれたものなんですね。それ以前に"日本人"という感覚を持っていたのは、貴族や上級武士の一部の人だけでした。多くの人は、日本という島があることは知っていたものの、アイデンティティーや所属意識は地域に根付いていたんです。例えば摂津国から阿波国にいくというのは、言語も通じない外国に行くような感覚だったわけです。よそ者扱いもされます。農民なども含めて、大多数が"日本人"というアイデンティティーを持つようになったのは、いわゆる鎖国があったからとする学説が有力です。なので、今の"島国根性"と言われる感覚も、長く見て江戸時代以降という、最近のものなんです。"日本人特殊論"が出てきたのも明治から戦前のことで『日本語は、外国人には習得できない特殊な言語だ』とか『日本人の腸は特別長い』なんて話が拡がり始めました。現在の人間文化や社会は、全て過去のストーリー、つまり歴史から成り立っています。今も"日本人特殊論"のプライドが残ってるのかもしれませんね」
——なるほど。マイノリティーとして日本に長年暮らした経験、多様な言語や文化の飛び交うニューデリーや移民の多いカナダでの生活を経て、多様な人種やアイデンティティーへの"寛容性"という意味では、日本社会をどのように評価されていますか?
「幸せなことに僕の周りには寛容な人たちがたくさんいます。日本全体を評価するとき、単純にインドやカナダと比較して不寛容だ、と言うこともできないんです。インドでは日本人やヨーロッパ人に対しては寛容だけど、アフリカ人に対しては厳しい態度を示すことも多いんですね。バンクーバーでも、多様性に不寛容な人は少なからずいます。世界中どこに行っても、差別意識を持っている人はいるんです。ポイントになるのは、その寛容な人の割合がどれくらいか、と言うことですよね。日本の場合は、『寛容か不寛容か』以前の話で、これまでは接点や出会う場が圧倒的に少なかったんです。慣れの問題ですね。これまでは外国人は"お客さん"として親切に扱ってきた、という意味では寛容。でも、完全に仲間として内側まで受け入れるかというと、寛容ではない部分の方が強いかもしれません。まだまだ"外人"や"お客さん"という感覚が残っているのだと思います。
——接点が増えつつあると思うのですが、これからその感覚も変化してくるのでしょうか?
「これからが本当に問われる時代だと思います。日本の政権も積極的に外国人の数を増やしています。これに反対する人もいると思いますが、その人たちも、将来の日本が7000万人程度の人口の経済力に落ちていくことも避けたいわけですよね。そういう意味で、観光業にも力を入れていくことに多くの人が賛同していますが、それに伴ってくる異文化との摩擦が表に出てきたとき、多様な国籍やアイデンティティーを受け入れる社会として、"本当の寛容さ"が求められるようになると思います」
——"本当の寛容さ"のある社会に、日本は変化できるのでしょうか?
「これまでの日本は危機に直面した際、柔軟に変化や異文化を受け入れてきました。中国の唐の文化の影響を大きく受けてきた時代もあれば、欧米の文化を積極的に取り入れている時代もあります。明治時代には日本語廃止論も出たくらいです。鎖国をして国を閉じて、また開いて——という変化にも対応してきたわけです。伝統や文化にもこだわっているように見えて、変わるときは変わるのだと思います。将来、日本に西葛西周辺のようなリトルインディアが増える時代も来るんじゃないですかね。資本主義ですから。すでに積極的に移民を受け入れている、極めて柔軟で寛容な自治体もありますね」
——変化していく社会の中で、今の私たちがより寛容なコミュニケーションを取るために必要なことは何だと思いますか?
「物事の答えは一つではない、という感覚を持つことです。その感覚を持って柔軟に人と接すること、それが全てだと思います。言うのは簡単ですが、実行に移すのは難しいことです。ある人にとってはマナーが良いとされることが、別の人にとっては失礼なことかもしれません。人の文化や心は複雑で、文化や地域でカテゴライズして答えを出すこともできません。個人個人と向き合い、その多様な価値観に意識を向けることが大切だと思います」
——おっしゃる通りですね。歴史を通して考える"日本の寛容性"、とても興味深いお話でした。お忙しい中、本当にありがとうございました。