声優・桑島法子は挑み続ける、自分にしかできない表現を。きっかけは「アイドル声優」への疑問だった

「一生この仕事を続けるために、1本の柱が欲しかった」
桑島法子さん
桑島法子さん
ERIKO KAJI

「一生この仕事を続けるために、1本の柱が欲しかった」

声優、桑島法子さん。デビュー間もなく『機動戦艦ナデシコ』(1996年)のミスマル・ユリカ役に抜擢され一躍トップ声優に。以来、『神風怪盗ジャンヌ』『彩雲国物語』『CLANNAD』など、数々の名作に出演する実力派声優だ。

そんな桑島さんだが、デビュー当時は雑誌のグラビアやユニット活動などを経験。声優の枠を超えたアイドルのような売り出し方に、疑問を感じることもあったという。

日々の仕事と葛藤の中で見出したのが、故郷の詩人・宮沢賢治の作品の朗読だった。デビューから23年。「自分にしかできない表現」を追求し続ける桑島さんに、話を聞いた。

ERIKO KAJI

——桑島さんが「演じること」に興味を持ったきっかけは。

子どものころって、逆上がりとか、跳び箱とか、タイヤ跳びとか、みんなが経験していくものってあるじゃないですか。

私はそういうものが、とても苦手な子どもだったんです。すごく引っ込み思案で、大勢の前で発言したりするのも苦手。例えば、ディズニーの「ピーターパン」のような、自分とは真逆の存在に変身したかった。そういう変身願望が人一倍強い子どもでした。

空想の世界で遊んでいたこともありました(笑)。最初は近所の子たちを集めて「ピーターパンごっこ」とか、劇団の真似みたいな「ごっこ遊び」をやったり。

そのうち、テレビドラマや劇団四季さんのミュージカルなどを見て、「こういう職業もあるんだ」と知った。自分じゃないものになれる、そんな世界に憧れました。

——舞台やアニメーションのような、芝居の世界に触発されていったんですね。

小学校4年ぐらいだったかな。うちは岩手県の田舎のほうなので、映画館がなかった。映画といえば、公民館とかで開かれる「親子で良い映画を見る会」のような、上映会ぐらいでした。

いま思えば、タイトルが「良い映画を見る会」って、なんなんでしょうね(笑)。それほど娯楽がないような環境の中、上映会で『風の谷のナウシカ』を見たんです。

衝撃を受けました。「私はなぜ、この世界の住人じゃないんだろう」って。もはや現実逃避ですよ。思えば普段の「ごっこ遊び」も、現実の自分があまりに何もできないなと思っていたからでした。

アニメーションならではの自由さに惹かれました。「こんな世界があるんだったら、そっち側の世界の人になりたい」と思って。小学6年生の卒業文集には「宮崎駿アニメの主人公の男の子の声をやりたい」って書きました。自分と正反対の、真逆のものになりたかったから、男の子を演じたかったんです。

中学校にあがると、演劇部がなかったので、自分たちで立ち上げて学園祭で公演をやったり。

――かなり早くから「声優になりたい」と意識されていたんですね。

高校に入ると「とにかく早く東京に出たい」「東京に行って声優になるんだ」という思いが強くなりました。

当時のアニメ雑誌で、岩手県では放送されていなかった『超音戦士ボーグマン』のキャラクターデザイン、菊池通隆(麻宮騎亜)先生が隣町出身だったと知って感激したりしてました。

ちょうどそのころ、声優を養成する通信講座があると知ったんです。何もしないよりは、何か一歩踏み出してみようと思って、申し込みました。

ERIKO KAJI

——声優の通信講座があったんですか。

当時、勝田声優学院の院長先生(勝田久氏)がやっていらっしゃる通信講座が唯一あったんです。演技の台本を自分で読んで、カセットテープに声を吹き込んで録音して、それを東京に送るんです。

すると、先生が添削してくれるのですが、添削も先生の声で返ってくるんです。もう、その添削が返ってくることだけが本当に楽しみで。ちょっと褒められると、それだけで1カ月くらい幸せでした(笑)。

そういう思い込みと、焦燥感と、中央で活躍している子役の人達に対するなんともいえない嫉妬心みたいなものも抱えながら...。

「金曜ロードショー」とかで、同じくらいの年の子が吹き替えをやっていたりするテロップを見ると、もう心がメラメラしました。「ずるい!私だって!」「早く東京に行きたい!」って(笑)。

――高校卒業後の1994年に青二プロダクションの養成所「青二塾」に入塾されました。青二塾ではどんな生徒でしたか。

とくに目立った生徒ではありませんでした。でも、塾長先生が宮沢賢治好きで。

ある日の授業で「桑島は岩手出身なんだから、地元の言葉を使って読んでみなさい。(宮沢賢治作の童話)『なめとこ山の熊』を、なまって読んでみろ」と言われました。

ちょっと特殊な励ましだったのでしょう。読み終わったら「これはお前にしかできないことだよな」と。その時に「ああ、そうだ」と感じた。自分の良さを認めてもらえて、勇気づけられた思いでした。

――単身で上京し、声優を目指して養成所に通っていた。不安もあったのでは。

このあいだ帰省した時、当時の私が家族に書いた手紙が出てきたんですよ。全く覚えてなかったんですが、あの頃のすごく真面目な自分がそこにはいました(笑)。

上京して1〜2カ月、東京で初めてひとり暮らし。ホームシックもあったんでしょうね。

「一世一代のことで、自分の人生をかけて出てきた」という決意とともに、全国から集まった声優志望の人たちと比べて、自分の出来の悪さに打ちのめされていたことが綴られていて...。

それでも「自信はないけど、塾長先生が励ましてくれたから頑張ります」と書いてありました。

——塾長先生は、桑島さんの中に何か光るものを見ていたのでしょうね。

どうなんでしょうね...。青二塾に1年通いましたが、本当に授業の中では目立っていなかったんです。

でも、卒業公演後に青二プロへの所属をかけた最後のオーディションがあるのですが、なぜかマネージャーさんたちには評判がよかった。その一発勝負で受かってしまったんです。

塾の先生たちがみんな驚いていました。「え?あの子が受かったの?」って(笑)。同期が71人ほどいて、受かったのは20人ほどでした。

ERIKO KAJI

——厳しい世界ですね...。

デビュー1年目はお試しで、先輩方と一緒にオーディションを受けさせてもらったり。コツコツとお仕事をして。

そんな中で2年目の夏、『機動戦艦ナデシコ』(1996年)のオーディションがありました。テープに吹き込んでデモを送るのではなく、初めて経験したスタジオでのオーディションでした。

マイクの前に立って、セリフを何個かしゃべるのですが、先輩もたくさん受けていらっしゃって。あっという間で。

終わった後、マネージャーさんから「桑坊、受かったよ。エンディングテーマも歌うからね」と電話があって。まさか受かると思っていなかったので、「えっ!?」と戸惑いましたが...。

――『機動戦艦ナデシコ』のミスマル・ユリカ役にデビュー2年目で抜擢され、一躍トップ声優となられました。

ただ、当時は「アイドル声優」というかたちでの露出が多かったんです。写真を撮影されて、雑誌の表紙に...とか、ユニットを組んだりとか。そういう活動がけっこう多かった。

でも、自分ではちょっと方向性が違うような気がしていました。この仕事を一生続けていくためには、しっかりとした「1本の柱」が欲しいなと思っていたんです。

——「柱」ですか。

アニメーションは、中には長寿番組もありますが、1つオーディションに受かっても、演じるのは長くて半年。今では1年続く作品は少なくなりました。

オーディションを受けて、落ちて、合格して...の繰り返し。やっと合格しても、すぐに作品が終わってしまう。そういう目まぐるしい仕事生活の中で、「1本の柱」になるような活動がしたかった。一生続けられる"何か"が欲しいなと思ったんです。

そんなとき、ふるさとの言葉の中に「私にしか表現できないものがあるんじゃないかな」と、ふと思うようになって。

宮沢賢治
宮沢賢治
Wikimedia/Kamakura Museum of Literature archives

――それが、今ではライフワークとなった宮沢賢治作品の朗読だった。

きっかけは『機動戦艦ナデシコ』と同じ2年目、1996年の夏。宮沢賢治の生誕100周年でした。

岩手出身で先輩声優の平野正人さんに声をかけて頂きました。賢治生誕100年を記念した朗読ステージに一日だけ平野さんの代わりに出てみないか、と。そこで石川啄木と宮沢賢治を朗読しました。

一日だけのピンチヒッターでしたが、駅を行き交う色々な人が通るところで、生で朗読するというお仕事を初めてやらせていただいたのが印象的でした。

青森出身の事務所のマネージャーさんも聞いてくださっていて、青二塾の塾長先生と同じように「これは大事にしたほうがいいよ」と励ましの言葉をいただきました。

――宮沢賢治への思い入れは、デビュー当初の頃からあったんですね。

宮沢賢治を朗読しているのは、亡き父の影響もあるんです。ちょっと変わった人で、結婚式の余興や、人が集まる場所などで賢治の作品をよく朗読していました。「永訣の朝」と「原体剣舞連」が父の十八番でした。

完全に素人なんですけどね。素人とは思えない表現力で(笑)。それを聞いて育ってきた。子どものころから、宮沢賢治の要素が身体に入っていたのでしょう。

せっかく声優になれたので「いつか父のような朗読ができたらいいな。あんな表現ができる場所があったらいいな」って、漠然と思っていたんです。

でも、宮沢賢治は本当に難しい。自分でも、何を読んでるかわからないような作品もたくさんあります。歯が立たない部分も感じた。

それでも自分なりに一生懸命に咀嚼して、「これならば表現できる」っていうものを探して、探して、集めて...。そうやって宮沢賢治しか朗読しない「朗読夜」という公演を、26歳からやっています。

ERIKO KAJI

——アニメーションと朗読のお仕事では、演じる上でどんな違いがありますか。

アニメーションのアフレコでは、いただいた役を演じるので、他の役者さんやスタッフさんたちとの共同作業なんです。いろいろな方とのキャッチボールで作品が成り立っています。ひとりの演技では成り立ちません。

他の役者さんがどんなボールを投げてくるか、こちらが想像しているものとは違うボールを投げてくるかもしれない。現場に行ってやってみないと、どうなるかわからないというところがあります。その場の芝居のキャッチボールでどんどん変化していくものだったりするんです。

一方で、朗読は全部ひとりで読むんですよね。ひとり作業なので、全てをひたすら自分で構築しなければいけない。

主人公のセリフだけじゃない。他の登場人物も、会話の部分も、地の文もある。それをたったひとりの世界観でつくりあげる。とても孤独な作業なんです。

よくマラソンに例えるんですが、やっぱり「ゴールが遠いな」「孤独だな」「しんどいな」と思うこともあります。アニメーションのアフレコも朗読も、声で演じるお仕事ですが、その違いはすごく大きいです。

――なるほど。アニメーションは共同作業、朗読はひとりの作業。

あとは、お客さんの前で演技するかどうかで違う部分があると思います。

私の場合、宮沢賢治の朗読公演は、お客さまを前に生でやらせていただいている。そうすると、お客さまとの一体感というか、舞台上の空気感と私の発する言葉と、聞いてくださるお客さまの受け方が合わさって、なんともいえない空気が作り上げられるんです。

私もお客様もそうなんですけど、ハマると病みつきになるんです。一度でも生で聴くと「こういうのがあるんだ」って。演劇でもないし、音楽でもないし、耳で朗読を聴くということにハマってくださる方たちがついてきてくださっています。

アニメーションでは、やっぱり反応が、声とかも、なかなか届きにくかったりします。もちろん、お手紙とかを頂いたり。最近はSNSがあるので、放送からすぐに反応がわかったりもしますが、やっぱり生とは違う感覚ですよね。作品のほんの一部をお手伝いさせていただいているような。

アニメーションは、本当に大勢の方たちの力でつくりあげられている。それゆえの魅力があります。アニメーションも朗読も、どちらも好きですね。

ERIKO KAJI

——東北から東京への憧れが募って上京し、今は宮沢賢治作品や東北弁と向き合っている。若竹千佐子さんの小説『おらおらでひとりいぐも』の主人公・桃子さんと重なる部分があります。

そうなんです。私も上京してから20年以上が経ちましたが、以前は故郷に対する思いって、なんとなくフタをしていたんですね。

それこそ20代のころは、ほとんど故郷に帰らなかった。恥ずかしいような、どこか煙たいような部分というか。心のどこかに「私はもう出てきた人間だから...」みたいな思いがあって、お正月にちょっと帰省するくらいでした。

2010年に岩手県の「希望郷いわて文化大使」に任命いただきました。願ってもないお話でした。「岩手県ならではの良さ」を伝えるお仕事ではあるのですが、"観光"大使と違って、"文化"大使という象徴的な部分がある。そこは、私のライフワークともつながるなあという思いです。

宮沢賢治作品の朗読活動を評価していただく機会もあり、岩手県花巻市からは2009年に「イーハトーブ奨励賞」をいただきました。

40代前半になったいま、ここまできてやっと、故郷に向き合えて、恩返しができるようになれたかなと思います。

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自分にしか表現できないものを追い求めたい――。そんな桑島さんの姿は、『銀河鉄道の夜』を幾度も改稿し続けた宮沢賢治と重なる気がする。

宮沢賢治はこんな言葉を残している。「永久の未完成これ完成である」と。

※インタビュー後編はこちら↓↓

桑島法子(くわしま・ほうこ)声優。岩手県出身。「機動戦艦ナデシコ」のミスマル・ユリカ役、「宇宙戦艦ヤマト2199」の森雪役、「機動戦士ガンダムSEED」のフレイ・アルスター役、ナタル・バジルール役など、数多くの人気アニメに出演。2010年より岩手県の希望郷いわて文化大使に就任。

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