震災後、本吉病院で当直して

今は宮城県気仙沼本吉から車で30分程度の登米市佐沼で診療所を開業しているが、震災後本吉病院にも少し関わった。当直に行った際のメモと共に改めて。

今は宮城県気仙沼本吉から車で30分程度の登米市佐沼で診療所を開業しているが、震災後本吉病院にも少し関わった。当直に行った際のメモと共に改めて。

2011年9月10、11日、宮城県気仙沼本吉町、気仙沼市立病院にて医療支援病院日当直をやってきました。

本吉病院は、気仙沼で津波に飲み込まれ、その後、院長先生が突然辞職した病院で有名だと思いますが、それからの半年を踏まえここに記録を残します。今はすでに掃除されある程度キレイになりましたが震災前、2階建の病院は、1階は外来で、2階は寝たきりの慢性患者が入院していました。

3月11日地震とともに、病院全体が大きく揺れ40分後に、津波が来ました。"ここまで来ないと思っていた"病院に所属する看護師は全部で16人、それぞれが地震後、家族の安否を確認しすぐに病院に向おうとしたそうです。道路は崩れ、車は流され歩いて辿りついた方もいます。私が看護師さんに当時を振り返ってもらい"なぜ、そのような状況で家族から離れ病院に行ったの?"と聞くと"その時の勤務の同僚が帰れないだろうと心配になり、入院患者が気になった、震災時には病院に集まることになっている"と当たり前のように話されました。病院に行けない看護師たちの中には献身的に避難所で医療活動をした人もいます。病院にたどり着いた所で、当日勤務の未だ自宅に帰っていない看護師さんと交代。1階は津波が押し寄せ、カルテから全てが水に浸かり、ライフラインは休止、ナースコールもないため入院患者のベットの下で看護師達は寒い中、ダウンに包まり床の上で夜を過ごす。点滴も経管栄養も残り僅か、先行きの見えない状況で患者には半量にして投与"少しの間、我慢してね"看護師さん達の食事さえもほとんど無かったそうです。"もう限界だ"と思った震災3日後、物資を持って医療支援チームが病院に到着しました。"田舎の小さな病院で全てに見放されたと思っていたが、本当に感謝した"。幸い一人も亡くならずに10日後に全ての入院患者が内陸の病院に転院していきました。院長先生がいなくなったのも患者が転院し終わったころでした。ネット、ニュースでは院長先生が病院を見捨てていったと散々書かれていましたが、実際は話を聞くと心苦しくなります。

院長先生は10年以上本吉病院に勤めていました。出身は関西の方で、不幸なことに阪神大震災、その後北海道に赴任してそこでも震災を経験され、今回になったそうです。地震後に自宅に荷物を取りに帰った奥さんを止めに戻った所で、津波に飲まれ、首まで水に漬り命からがら病院の2階に避難。その後も不眠、不休にて病院を守り入院患者がいなくなった所で、心配した家族から『もう関西に戻って来てほしい』と言われ、ある朝辞表だけ残していなくなったとのことでした。院長先生は、居なくなる意味を理解して、誰にも何も言えず居なくなったのではないかと思います、挨拶くらいしていけばいいとは言えますが、それは誰にも責められないのではないでしょうか。

その後、急性期医療支援が全国から集まり、地元の病院として、被災された患者達の医療を支えてきました。半年経つと医療支援の数も減ってきたそうです。日直していた9月11日14時46分、町全体にサイレンの音がなり、黙祷。私たちは、医師として被災地、東北の病院で自分ができる支援をしていこうと思っています。

登米市で在宅診療所を始め、地域との関わりもますます深くなった。復興、震災後すぐに集まってきた時以上にこれからは、地方地域を支える医師や様々な仲間が必要だ。関わり方は各々でいい。今の時代だからこそITを使ってアイディアを残してくれてもいい。短期間でも長期的に関わりを持っていくことが、これからの地方には必要だ。

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