エイズは、発症の原因となるウイルス(HIV)を薬で抑え込むことができる時代になった。
適切な治療によって長生きもでき、ほかの人に感染することもない。セックスや妊娠、出産も可能だ。
東京都在住のある男性は、悩みながらも感染の事実を周囲に伝え、ブログやTwitterで実体験を伝える活動をしている。
その一方で、まだ「怖い」と感じるものがあるという。
■東京都に住む40代の会社員男性
HIVを持っていることがわかったのは2016年の夏でした。胸に発疹ができて皮膚科の医院を受診したら、帯状疱疹だと診断されたんです。
数年前にも帯状疱疹になったことがあって、そんなに時間がたっていないのに再発したことが先生は気になったらしく、念のためにHIVの簡易検査を勧められました。
検査の結果は陽性だったと伝えられて、数秒は頭の中が真っ白。ようやく事態を理解した後は血の気がすーっと引けるような感じでした。
今思えば、そのときのHIVに対する僕の認識は、誤解と偏見に満ちたかなり古いものでした。「HIVは『死の病』だ、人生詰んだ」、本気でそう信じていました。
知っていることなんて何ひとつなかったくせに、イメージだけを根拠に勝手にそう思っていました。
HIV陽性であることを最初に伝えたのは歯医者さんでした。感染がわかる前から通院していて、退院後の初めての治療のとき、あらかじめ書いておいた手紙を受付で渡したんです。
予約時間を過ぎてもなかなか呼ばれず、ドキドキしたんですが、「このまま治療します」と言ってもらって。でもいざ治療室に入ると、器具を載せる台やポールなんかにラップが巻かれていて。
事前にそういうことがあるとは聞いていたので、そこまでショックではなかったものの、気持ちのいいものではなかったです。
でも、自分で感染のことを伝え切ったこと、自分が希望する場所で治療が続けられるようになったことは、何よりうれしかったです。
伝えるのに半年かかった
次に伝えたのは元パートナーです。私はゲイで、そのころ直近でお付き合いしていた彼に言いました。
でも、いざ伝えるのに半年かかりました。1秒でも早く言いたかったんですが、言えませんでした。怖かったんです。
自分自身、言い訳も考えてしまったんですよね。HIVの感染力は弱いから、めったに移らないと。だから彼にも移ってないと。しきりにそう思い込むことで、いっそう彼に伝えるのが遅れたんです。苦しかったです。
彼に実際に会って伝えると、びっくりしていましたが、逆に僕のことをいたわってくれて。
たまたまなんですが、彼も当時、検査を受けていて、ネガティブ(未感染)だったことがわかっていたようで。安心しました。
母に伝えた時は不思議な状況でした。2018年の冬だったんですが、意を決して言ったのに「うんうん」とあまりにも冷静で。なんで驚かないのか聞いたら、「だってあなた、昔エイズの話してたじゃない」って言うんです。
僕はすっかり忘れていたんですが、ゲイだということを母親に泣きながらカミングアウトしたことが以前あって、そのときにHIVのことについても話していたらしいんですね。
それから母は自分なりにHIVについて調べて、今では死なずにすむ病気だということもちゃんと知っていて。なんだか母の方が先輩のように思えました。
最後の「こり」は恋愛
職場では人事の担当者と産業医、保健師に伝えました。もう単純に隠していたくなかったんですよね。
それまでに母に言ったり、友達に言ったり。プライベートで接する人たちには皆知らせて、心の「こり」が相当ほぐれていたんですが、まだここが「こってる」な、というのが会社だったんです。
会社の中と外とで大きな境界線があって、自分でもひっかかっていたところだったんです。伝えたのは一部の人たちですが、伝えたことですごく楽になりました。
まだ「こり」が残っているところがあります。それは恋愛です。誰かを好きになった時、果たして言えるんだろうかと。
HIVを持っていると知って以降、恋愛もセックスもずっと怖かったです。心も体もこわばってしまって、踏み出せなかった。
今はようやく変わってきて、最近ネガティブの人と、お互いいいなと思える関係になったんです。
付き合うことにはならなかったんですけど、僕がHIVに感染していることを知った上で好意を持ってくれて。
多少の性的な接触もありましたが、彼は僕がHIVを持っているからといって特別な態度を取ることもなかったです。色んなことが少しずつ変わってきている気がします。
感染が分かってから自分の病気についてブログを書こうと思いました。最初はすぐにでも書こうと思ったんですが、ほかの感染者から「それはあとでもいいよ」ってやんわり止められて。
実はHIVに感染した人のブログって割とたくさんあるんですね。「人生終わりだ」「つらい」みたいな内容が書き殴られていたかと思うと、数カ月で更新が止まっていて。
おそらく、そのあとは苦しむことなく、それまで通りの日常が戻っているからなんでしょうけど、とにかくネットにはそういう絶望めいた情報しか残らないことになってしまっていて。
おそらく、それをみなさん懸念してアドバイスしてくれたんだと思います。
結局、ブログを書き始めたのは告知から1年後です。伝えたかったのは、HIVに対して僕が抱いていたイメージが、告知前といまとでいかに変わったかということでした。
病気のことを隠さず、心の負担がない状態で生きていきたいと思ったことも動機ですね。
陽性者の中には、必死に隠そうとする人もいます。でも自分はどこかで共感しきれなかったんです。情熱を注ぐべきことはそこじゃないだろうと。
あとはやっぱり、自分の足跡というか、自分が少しずつ生きやすいように行動を起こしてきた記録を残しておきたいという思いもありました。
ほかの陽性者の人たちにも励みにもなると思ったんです。今は「奥井裕斗」という仮名でTwitterもやっています。
ゲイという存在に「あぐら」
自分がHIVを持つことになるまでは、エイズやHIVについて「個人」をイメージすることができませんでした。単なるコンセプトでした。
あえて人のイメージを持とうとすると外国人、ぐらいでした。今考えれば、どんだけ考えてなかったんだと。
で、思えばほかのことも同じだったんですね。例えば薬物の依存者、前科を持っている人、トランスジェンダーの人……。自分から見えにくい個人についてイメージしようとしていなかった。そして、その理由は自分がゲイだったからだと思うんです。
自分は社会のマイノリティーだから、ほかのマイノリティーの人たちに対しても十分理解があるんだと思い込んでいたんです。つまりゲイという存在に「あぐら」をかいていたんですね。
札幌の男性が病院の採用面接でHIVに感染していることを告げず、内定が取り消しになったことをめぐる裁判を札幌まで傍聴しにいきました。法廷という公の場で堂々と主張しようとしている原告を応援したいと思いました。
それから、司法がどういう向き合い方をするのか知りたいという気持ちもありました。自分が感じる病院の対応のおかしさは、日本の法的にどう解釈されるのだろうかと。
裁判を傍聴するのは初めてでしたが、被告側の代理人弁護士が原告に厳しく質問する様子はまるでテレビドラマのようでした。
自分にとっても日常である心の動きや状況が法廷という場で事務的に扱われているのが非日常的に感じられました。
たくさんの人がいる前で話したくないことをなぜ話さなければならないのか、なんでここまでしなきゃいけないのか、僕らが悪いのか。色んな思いがよぎりました。
法廷を傍聴して思ったことがあります。社会の偏見や差別に対してただじっとしていても、争いに巻き込まれないよう黙っていても何も変わらないけれど、社会を変える努力を一個人が背負うのは大変すぎるということです。
誰かがつらい時は共感する人たちが支え合ったり、応援したり、つながったりすることがとても大切だと思いました。
取材を受けるたびに顔を出すかどうか悩みます。マスメディアに顔を出すことで「社会」は変わっていくのかもしれない。
でもそれは、自分の暮らしを変えられない不甲斐なさから目を背けたくて、世の中の心配をする。そんな側面だってあるかもしれない。
まずは僕自身の生活や周りの人との関係をより良いものに、よりオープンなものにしていきたい。結局はそれこそが、僕にとっては社会を変えることなんじゃないかと思っています。
「HIV/エイズについて知っておきたい9のこと」はこちら。