戦争の記憶が生々しく残る戦後20年目(1965年)の夏、ある女性が中心になって一冊の本が世に送り出された。
作家・山代巴(2004年に死去)が編者となり、あの日からの広島を生きる人々の声を集めたルポルタージュ『この世界の片隅で』(岩波新書)だ。
有名とは言えない山代の本が、いま話題のこうの史代さん『この世界の片隅に』を連想させるタイトルになっている。えっと驚く読者も多いだろう。
同書は2017年に異例の復刊が決まる。こうの作品との関連で注目されたからだ。山代は「この世界の片隅」からどんな言葉を拾い上げ、後世に残そうとしたのか。
こんな言葉が書かれている。「たいていのものは話半分だが、あれだけはかならず話のほうが小さい」。きょうは73回目の広島・原爆の日――。
いま注目される山代巴とはどんな人物なのか?
そもそも、山代巴とはどんな人なのか。評伝や論文をもとに彼女の経歴をざっとさらっておこう。
山代巴は1912年広島県府中市の旧家に生まれた。画家を目指して上京し、東京女子美術専門学校で絵画を学ぶも、家庭の事情で中退を余儀なくされる。
その後も東京に残り、一人でレタリングデザイナーの仕事などで生計を立てていたという。
プロレタリア文化運動に傾倒するようになり、そこで知り合った夫と結婚する。
山代は横浜のガラス工場に勤めるも、仲間と一緒にやっていたサークル活動が当局の目に留まり、1940年に治安維持法で夫とともに逮捕された。
1945年8月、つまり戦争が終わる月に釈放されるのだが、彼女は獄中で流産を経験し、夫は獄死したことを知る。
しなやかな記録者
戦後は映画化もされた『荷車の歌』など小説で名をあげる一方、広島で被爆者の手記を集める活動にも取り組んだ。今風に言えば、生活史にいち早く着目していたと言えるだろう。
広島の地元紙・中国新聞は彼女の訃報を伝える記事(2004年11月9日付)のなかでこんな一文を入れている。
《「農村民主化」「原水爆禁止」と硬い言葉で語られる戦後の運動も、山代さんのそれは説教色がなく、しなやかだった。「『現代の民話』をつむごう」と農村女性に生活記録を勧め、被爆手記の収集に尽力》
「しなやか」――。この言葉が山代の表現の特徴を端的に表現している。『この世界の片隅で』もまたしなやかな一冊だ。
乳房がない母親の胸に小さな子供は「乳!」と叫び飛びついた
この本は山代が関わっていた「広島研究の会」によるルポルタージュである。
会には作家、記者、劇作家ら多様な職業のメンバーが集まった。
彼らはまだアメリカの占領下だった沖縄に住む被爆者、当時30歳前後(=原爆を10歳前後で経験)の若い被爆者らをたずね歩き、その声を聞く。
山代も一章分を担当している。確かに社会運動家的な視点を持って記述を進めているところはある。しかし、彼女の文章で最も鮮やかなのは、その情景描写にある。
作品の世界を紹介しよう。
ある被爆者の家を訪ねた山代はこんな光景を目撃する。小屋に住む、男の子と女の子は母親の帰りを待っていた。木枯らしが吹き、人々はオーバーコートを着て街を歩いている。しかし、彼らが着ているのはボロボロのシャツとズボンだった。
「お母ちゃん」と泣き叫ぶ小さな妹をなんとか笑顔にしようとする兄の動きをみて、「抱きつきたいような衝動」を覚えた山代は兄に30円を渡した。そんななかで、妹は急に立ち上がる。
ひよこがはばたくように車を飛び降りて道の方へ走って出た。見るとたそがれの小道を這うようにこの家に近づいて来る人がいて、小さい子は「乳!(ちっち)」とその人に飛びつき、くろずんだ人影はかがんだまま胸を開いた。
(中略)
私の眼にはこの一瞬の母子像が焼きつくように残った。
この母親、立田松枝の乳房はない。原爆に乳腺が焼かれてしまったからだ。小さな子供は乳房のない胸に口を当てているだけだった。
「上から」ものを言わずに敬意を払う
彼女はこの時から12年後に松枝と再会する。「乳!」と叫んだ妹は中学3年生になり、兄は建設会社で働きながら夜間の工業高校に通っている。
松枝は自分の歴史を振り返り、権力者だったKにひどい仕打ちを受けていたこと、被爆者であることを利用された経験などをつぶさに語り始めた。
それでも生きることを諦めず、子供達を育て、Kと戦うという松枝の姿勢に受けた感動を山代は素直に記す。
ルポの中で広島の現状や時の政治に怒りをぶつけているのだが、運動家特有の「上から」もの言う態度は一切なく、一貫して松枝への敬意が感じられる。
山代はこの本の冒頭にこう記している。
今では「原爆を売りものにする」とさえいわれている広島の被爆者たちの訴えも、地表に出るまでには、無視され抑圧された長い努力の時期を経過しています。
あまりにも生々しい声
彼女たちが集めたのは、広島のなかでも無視され続け「片隅」に生きる人たちの声だった。
それは決して「美談」で塗り固められているわけではない。描かれるのは、あまりにも生々しい人間の現実だ。
広島市の被差別部落に住む人たちは「被爆者のふきだまり」と言われる相生通りを指して、「本人がふんぱつしてひと儲けすれば、そこから抜け出せるわけでしょう。ここではだいいち、ふんぱつしようがないですよ」とただただ嘆く。
広島でヤクザになってしまった山本宏之は、たまたま、あの日の学校をずる休みして生き残った。旧友たちは建物疎開の作業で街中にいき「ほとんどが死んだ」という。
彼には「あれが許されるなら、この世にはもはや許されないものはない」という思いがある。ゆすり、たかり、荷物を奪って逃走するーー。いろんな犯罪に手を染め、やがて入院する。
あの日以来、絶えず腰の痛みに悩まされていたのだ。ヤクザ稼業からは足を洗う。
「山本宏之 当時高等科一年生 爆心地より二キロの地点で被爆 現在無職 原爆病院通院中」
これが彼のプロフィールである。
個々人の生き方に着目する
山本宏之を取材した作家・小久保均はこの本のスタンスを象徴するような一文を残している。それはこう言い換えてもいい。レッテルをはられがちな「被爆者」の声ではなく、個々の生の情熱、「個人」の生き方を記録する、と。
あれ(※原爆体験のこと)が各人ほぼ共通なのに対して、あの日以後の生のかたちはまさしく各人各様なのだった。そして彼らはその個人的な生の軌跡を語ることにおいて情熱的だった。
彼らは原爆から死を免れたことを誇らしくは語らない。あの日の死者を思えば、うしろめたさが先にくるからだ。
小久保が見抜くように「彼らが誇るのはそれからを生き抜いてきたこと」。当然、誇りのあり方は個々人で違う。
あの日からの広島を生き抜いてきたこと。ただそれだけを誇る個人を記述する小久保の筆致もまた敬意に満ちている。
こうのさんは読んでいない?
『この世界の片隅で』をこうの史代さんはどう読んでいたのだろうか。実は、こうのさん自身の発言は若干変化している。
『この世界の片隅に』を描き終えてから1年後、2010年にファンサイトの掲示板で「(『この世界の片隅で』を)読んでいない」と答えている。
実は「この世界の片隅で」は、機会が無くて、わたしはまだ読んでいないのです! ただその存在と、「原爆に生きて」の内容と被っているらしいという事を知っていた程度なのでした。というわけで、「この世界の片隅に」とは無関係なのでした。ごめんなさい!
勿論山代巴には大変な敬意を抱いていて、この人のおかげで原爆文学は大きな広がりと奥行きを持った事は疑いようがない事実ですが、わたしに許されるやり方とはちょっと違う気もしています。
ところが、である。2012年9月5日付中国新聞のインタビューにはこう答えている。
山代巴の「ひとつの母子像」は、被爆者の母親が仕事から戻ると、子どもたちがわあっと駆け寄ってくる描写が印象に残った。「片隅で」だと広島に根を張るたくましさが表現されるが、私は広島から呉に移り、居場所を見つける物語の軽やかさを表すため、「片隅に」とした。
先ほど引用した山代の描写を印象的だったと評し、タイトルへの影響も語っている。2年の変化が気になるが、これはいずれ本人へのインタビューが実現したときに聞いてみようと思う。
残された言葉をどう受け止めるか?
いずれにせよここで大事なのは、こうのさんがインタビューの中で、戦争体験のない世代が戦争や原爆をテーマにした作品を描くことを「いろんな人に届けるためには、いろんな人が描けばいい。私は決して『原爆作家』ではない。『この人に任せておけばいい』という風潮は、他の人が出にくくなり、原爆漫画の衰退につながると思う」と肯定していることだ。
こうのさんの作風と山代のそれは確かに色合いは違う。だが、広島と原爆を亡くなった人の数だけで語ろうとせず、しなやかに「この世界の片隅」に生きている人たちを見つめ、敬意をもって作品を世に送り出すという姿勢は共通しているように思えるのだ。
山代は「書き残すことなしには忘却の底へ埋まってしまうのだ」と人々の言葉を集める意味を書いていた。彼女が集めた小さな声は、歴史を超えて別の誰かへと確かに届いている。
人は直接知らないことであっても、誰かから体験を聞いたり、あるいは残された言葉に触れたりすることで、ある出来事を理解しよう思う。
当事者でなければ語ってはいけないとなれば、あの日を体験した当事者がひとり残らず亡くなったとき、広島を語る人は誰もいなくなる。それでいいのだろうか?
無論、そんなことはない。山代が敬意をもって集め、残した記録はこれからの時代により大きな意味を持つだろう。
「この世界の片隅」から、次の時代を生きる人たちへ。言葉は受け継がれていく。
参考文献
牧原憲夫『『山代巴 模索の軌跡』(而立書房)
竹内栄美子「 山代巴の文学/運動」(原爆文学研究会)