7月5日から数十年に一度といわれる大雨が福岡県、大分県で発生し甚大な被害となっている。電気や通信網などのライフランも途絶え、一部では連絡すら取れない状況だという。
土砂崩れによって流木が押し寄せ、死者と行方不明者も発生しているが、九州北部では8日にかけて大雨が続くと予想されている。
こういった大災害が発生し、悲惨な状況が各種メディアで報じられるたびに、現地へボランティアに行こう、支援物資を送ろう、と考える人がいる。そして無秩序なボランティアや支援物資の輸送はかえって混乱するからやめるべき、という冷静な対応を求める人も現れる。
ボランティアに行きたい人や支援物資を送りたい人からすれば善意を否定されたようで不愉快になるだろう。役に立てなくても非常時に理屈を言ってる場合じゃない、とにかく何かをするべきだ、と考える人もいるかもしれない。しかし、自治体等が正式に呼びかけるまでボランティアも支援物資も不要という意見が正しい。
これはビジネス的な発想で考えるとわかりやすい。
■「無駄な支援」が「必要な支援」を圧迫する。
経済学の考え方に「機会費用(きかいひよう)」というものがある。何かを選ぶことは別の選択肢(とそこから得られるメリット)を捨てること、という意味だ。
辞書等よりもウィキペディアでわかりやすい説明があったので、引用したい。
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機会費用は、希少性(使いたい量に対して使える量が少ないこと)によって迫られる選択に際して生じる。「そのことをすると、他のことがどれだけ犠牲になるか」計算するものを機会費用(機会コストとも言い)と呼ぶ。つまり、一つのことをすると、もう一つのことするチャンスがなくなることである。
出典:ウィキペディア・機会費用のページより
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希少性とあるように、災害支援ならば現地への限られた貴重な輸送インフラをいかに効率的に使うか?という視点が必要になる。
無駄になってもいいからとにかく必要そうなものを送ればいい、という考えが間違っている理由は明確だ。災害によって極めて細くなっている現地までの輸送インフラを、必要かどうか分からないものを送ったり、役に立つか分からないボランティア希望者が占有すべきではない、ということだ。
つまり、仮に役に立たなくても良いから困っている人がいるなら支援をしたい、という考えで物資を送りボランティアに行こうとする人が多数いると、結果的に役に立つはずの支援を邪魔してしまう可能性がある。
これは災害発生時に現地へ電話をしないように、という話と同じだ。被災しているかもしれない家族や友人への電話が殺到することで災害支援に必要な連絡の邪魔をしてしまう。
災害からの復興には、善意による募金、ボランティア、支援物資は無くてはならないものだが、やり方を間違えると役に立たないどころかかえって復旧の邪魔をしてしまう。これは機会費用の事例として普段から使えば浸透するのではないかというくらい、復興支援で重要な考え方となる。
メディアは軽々しく「必要な物資」を公表すべきではない。
7月6日の報道ステーションでは被災している現地に飛んだリポーターが手書きのフリップに現在足りていないものを書いて、テレビを通じて視聴者に伝えていた。どういった意図によるものかわからないが、これも報道機関として絶対にやめるべきだ。
昨日の報道を見て、現地に支援物資を送ろうと考える人もいたかもしれない。ランダムに送られた物資が復旧支援の邪魔になってしまう可能性があることはすでに書いた通りだが、現地で必要とされる物資は刻一刻と変わる。
必要性・緊急性の高いものであればすぐに調達される可能性も高い。するとテレビで報じられた「一番必要なもの」はすぐに満たされ、「二番目に必要なもの」に使われるべき輸送インフラを、すでに不要となった物資の輸送で埋め尽くしてしまう。
メディアが現地で必要な物資、足りていない物資を伝えることは慎重に行うべきだ。これはSNS等で拡散される「○○市で紙オムツが足りていない」といった情報も同様だ。大量にリツイート・シェアされることで、過剰な物資が現地に届く可能性がある。それは結果的に他の物資が届くことを邪魔してしまう。
機会費用の説明にあるように、被災時に物資を送るインフラは極めて貴重なリソース(資源)であることを理解すべきだ。
■被災地で支援物資が使われないまま山積みになる理由。
以前は自分も、せっかく送られたオニギリ等の支援物資が被災者に届けられないまま腐っている、物資が山積みのまま放置されている、といった話が報じられるたびに一体どうなっているんだ?!と腹を立てていた。しかし現実にはモノを適切に届けることは極めて難しい。これはロジスティクス、日本語では兵站(へいたん)といって、元々は軍事用語で戦争の勝敗を左右するほど重要で難しいとされている。
トヨタ自動車はジャストインタイム生産方式と呼ばれる手法で、必要なモノを必要な分だけ必要なタイミングで生産し、無理・無駄・ムラを無くして経営効率を高めている。そのようなことを非常時に、しかも専門知識も経験もない自治体職員が出来るはずもなく、少なくとも現状では混乱が起きるのはある意味当然の状況だといえる。
自衛隊が災害支援で力を発揮するのは隊員だけで移動、救助から自身の食事まで完結するだけの設備があり、訓練も受けているからだ。訓練を受けず、統率も取れていない、指揮をする人もいない人がボランティア希望者として殺到すれば、被災者を助けるどころか自らが被災者になってしまったり、被災者にわたるべき食料等が消費されて迷惑になってしまう可能性がある。
結局素人によるボランティアや支援物資の輸送をやめろという話は、手短に説明すれば「役に立たないだけならまだしも、被災地で迷惑をかけるくらいなら何もしないで大人しくしていることが最大の復興支援ですよ」ということになる。
■足りないものは物資ではない......?
昨年の熊本地震発生時に「なぜ避難所に食料が届かないのか?」でも書いたが、工場の生産で使われるボトルネックとリードタイムという考え方を理解すれば、中途半端な支援がかえって邪魔になることが分かる。
ボトルネックとは言葉通り、ビンの口で細くなっている部分を指す。ビンをひっくり返しても一瞬で全ての中身が出ていくことは無い。口が小さければ中に入った水が出ていくスピードは口の細さに「制約」を受ける。
全国から大量の支援物資を九州まで送ることは簡単だが、それを被災者の手元まで届けるには膨大な手間が発生する。必要なものを必要な分だけ仕分けしてそれぞれの地域に割り振り、配送しなければいけないからだ。自然災害の発生時には道路が通れる状態かどうかも分からず、今回の大雨でも車で行き来できない状況があちこちで発生している。
そして支援物資の輸送ではたいていの場合こういった仕分け作業や現地までの輸送が制約=ボトルネックとなる。足りないのはモノだけではない。
県庁や市庁が支援物資であふれかえる一方で、物資が足りないと嘆く被災者がいる理由は上記のとおり仕分けがボトルネックとなるからだ。
昨年の熊本地震では支援物資を運んできたトラック運転手が荷物を下ろすために何時間も待たされた、という話があった。これはその時点で必要なものがすでに物資ではなく、荷物を下ろす、整理する、被災者のもとに運ぶ、といった人手や輸送のためのトラックへと変わっていたことを意味する。空っぽのトラックで駆け付けた方がよっぽど役に立つ可能性があったということだ。
熊本地震の時もそうだが、多少混乱しても良いからとにかく支援物資を送れ、という指示は現場を混乱させてかえって被害を拡大させる可能性が高い。災害発生時に必要なものは支援物資だけではない。
■何かをやるには終わるまで時間がかかる、という当たり前の話。
リードタイムは作業に着手して終わるまでにかかる時間を指す。復旧支援でいえば必要な物資の要請を受けて、それを被災者に届けるまで、ということになるだろう。
これもリードタイムがどれくらいなのか理解されないまま「今紙オムツが足りません!」という数日前の情報に基づいて支援をしようとすると、紙オムツだらけになった状況にさらに紙オムツを送ってしまい、他の支援物資の輸送の邪魔をしてしまう、という状況を生む。
この記事を書いている時点では、一般人からのボランティアや支援物資の受け入れが出来る状況ではないようだ。善意で何かをしたいという人には不快な話かもしれないが、善意が迷惑になってしまっては不本意だろう。それでも何かをしたい、というのは迷惑を顧みない自己満足に過ぎない。
自衛隊並みに自力で完結するだけの支援能力を持っていないのであれば、節約をしながら募金の開始を待つ、くらいの対応で十分だ。
■防災省が間に合わなかったのはなぜか?
昨年4月に熊本地震が発生した際には、元防衛相の石破茂氏が災害支援のために常設の防災省(ぼうさいしょう)を作るべきでは?というコメントを出した。自然災害が頻発する日本であれば、そういった組織があってもなんら不思議ではない。あれから1年以上の時間が経ったが今回の大雨には間に合わなかった。
個人がランダムにボランティアに行ったり物資を送るべきではないという話は、当然のことながら自治体や国が被災地支援で機能している事が前提となる。
ここ数カ月、国会という希少なリソースを消費して話し合われたことは国民のためになっていたのか。もし、防災省はどう作ればいいのか? 次の災害が起きる前に早く作るべきでは? という建設的な議論がなされていたら、被害の規模はもっと抑えられたのではないか。
おそらく機会費用の考え方を最も理解すべきは国会でスキャンダルを追及し、追及されていた政治家だろう。
最後になりました が、被災された方の一日も早い復興をお祈り申し上げます。
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