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調剤薬局に問い合わせたいことがあって電話をかけた。若い男性が出て、カルテを調べるから生年月日を教えてほしいと言う。「西暦ですか、和暦ですか」と尋ねると、「平成でお願いします」ときた。平成では答えられないので、申し訳ないが「昭和45年云々」と答えた。
平成元年に生まれた人でもまだ27~28歳であり、その薬局を訪れる人のほとんどは昭和生まれではないだろうか? いずれにしても、元号といえば平成だと思っている層がジワジワと広がっているんだな、と実感した。
昨年7月の今上天皇生前退位ご意向報道の際も、若者たちは「まじっすか? 平成終わるんすか?」と素直な驚きを隠さなかった。そんな彼らを改元経験済み人間として眺めている自分は、当然「昭和の人間」のつもりでいたのだが、昭和から平成になったのは18歳のときなので、優に人生の半分以上は平成なのだった。
今さらながらそのことに気が付いたわたしは、いつの間にか29年目に突入していた「平成時代」にいきなりの愛着を感じ、平成を1年ごとに振り返ることにした。
まずは平成元年(1989年)。
昭和が終わり、平成が始まるというだけでも特別な年であったが、11月にベルリンの壁が崩壊、12月には米ソ首脳が冷戦終結を宣言するなど、世界史的にもなかなかに濃い1年だった。そういえば、消費税も平成とともに始まったのである。
この年、「本当にあったいい話」として日本全国を席捲したのが、K氏による童話『一杯のかけそば』である。
父親を亡くした貧しい母子3人が大晦日に蕎麦屋を訪れ、150円のかけそばを1杯だけ注文する。主人はこっそり1.5人前の麺を茹で、母子は仲良く分け合って食べた。それから毎年母子は大晦日にやってきて1杯のかけそばを注文。主人も彼女たちの来店を心待ちにするようになるが、あるときからふっつりと来なくなる。そして最初に来店してから14年後の大晦日、久しぶりに母子が現れたとき、子どもたちは立派に成長し、かけそばを3杯注文した。主人は涙を流しながら「あいよっ!かけ3丁!」と応えたという話。
当初口コミで広がったこの話を新聞が取り上げ、「編集部員も思わず泣いた」という触れ込みで『文藝春秋』が全文を掲載。1週間日替わりで有名人に朗読させるというテレビ番組もあった。
衆議院予算委員会で、当時の首相竹下登に対するリクルート問題についての質問の中でも引用され、聞いていた「政界のドン」金丸信が涙を流したという逸話もある。(平成生まれの若者のために補足しておくと、竹下登はDAIGOのおじいちゃんで、金丸信は中曽根政権時代に自民党幹事長、副総裁をやっていた人。ちなみにDAIGOは金丸信とも親戚で、さらには卓球の石川佳純とも親戚らしい)
日本中を感動の渦に巻き込んだ(映画の宣伝っぽいが、実際映画化された。 母親役は泉ピン子で蕎麦屋の主人は渡瀬恒彦)『一杯のかけそば』はしかし、有名人たちの「主人は3人前の麺を出すべきだった」「当時は150円でインスタント麺が3つ買えたはず」といった突っ込みにさらされ、実話ではなく作り話だという指摘も相次ぎ、K氏の詐欺疑惑なども報じられるに至り、あっという間に「いい話」から「あざとい作り話」へと堕ちてしまった。
とはいえ、実話か作り話かという点がそれほど重要だろうか。全文を読めば、純然たる実話ではないことは明らかだ(例えば、蕎麦屋で母子が自分たちについて詳細に説明してしまっている点など)。「実話」だという触れ込みだったのに「作り話」だったという点がけしからんというのはわかるが、同じ話なのに実話なら感動し、作り話なら感動しないのか。
ついでに有名人たちの突っ込みについて言えば、彼らは忙しくて全文を読まなかったのだろうが、主人は母子が気を遣うと考えて、あえて3人前ではなく1.5人前の麺を出したのであり、インスタント麺ではなく、あえてこの店のかけそばを食べに来たのは、亡き父との思い出の店だからなのだ。
さて、『一杯のかけそば』が大ブームとなった背景には、バブル景気があった。豊かな生活を享受している人々にとって、自分とは別世界の「いい話」だったに違いない。今、この話が世に出たとして、どうだろう? 辛気臭い話として見向きもされないだろうか。わたし自身は、これを書くにあたって全文を読み直し、身につまされて変な感動を覚えた。
田中ひかるのウェブサイトより転載