タレントのりゅうちぇるさん、元プロ野球巨人の桑田真澄投手の息子でモデルのMattさんが登場するほか、是枝裕和監督に「家族論」をテーマにインタビューを掲載。
ギャップジャパン代表取締役社長でゲイを公表するスティーブン・セアさんの家族や、トランスジェンダーの杉山文野さんとゲイの松中権さんが「3人で親になる」物語など、LGBTQファミリーも紹介している。
ハフポスト日本版が特集「家族のかたち」を立ち上げて2年が経つ。里親、養子縁組、LGBTQファミリー、選択的夫婦別姓など、多様な現代の家族のストーリーを伝え、可視化してきた。
憲法改正をめぐる議論が始まろうとしているなか、家族について記した24条についても議論を呼んでいる。
『GQ』の鈴木正文編集長は、最新号の「エディターズ・レター」で、自民党の憲法改正草案の家族法について、「僕は受け入れることができない」と意見を表明。ライフスタイル誌の編集長による“踏み込んだ”言葉は、SNSでも話題を呼んでいる。
なぜ男性誌の『GQ』は、いま家族を特集したのか。鈴木編集長は何を思うのか。特集を担当した高田景太さんをふくめ二人に話を聞いた。
男性誌『GQ』は「自由な家族」を掲げた
「自由な家族」の特集について『GQ』の鈴木編集長は「去年の終わりごろから話していた」と語る。その根底には、メディアや広告が再生産する “普通の家族”像によって疎外されている人の存在があったという。
「テレビで映るコマーシャルでは、家族はお父さんとお母さんがいて、みたいな何らかの“標準型”があって、僕たちは常にそういう標準化の圧力を受けているわけですね。でも、そんな“標準型”の家族を持たない疎外された子どもたちは、いっぱいいるわけじゃないですか」
「お母さんが洗濯物を干してたりするじゃない? 消臭剤でも、だいたいお母さんがシューとやっている。男は汗臭いものをバーッと放ったりして。料理もつくるのは女性でしょう? 子どもがいてもいなくても。ときどき親父もつくるけど、だいたい食べるだけ」
「くだらないステレオタイプ」と鈴木編集長。刷り込みによる性別役割分業は「僕が子どもの頃から、もう60年前ほどになるけれど、以来、全然変わらずに続いている」と話す。
「幼い子どもにとってはダメージです。もしかしたら自分は間違っている、とか考える。子どもの想像力の範囲内では、“標準型”から外れているのは自分がいけないからだ、と思ってしまう。“標準型”であるべき、と教育されてきたこともあるだろうし、学校も含めてそういう標準化圧力を強化する装置になっている」
そんなステレオタイプに疑問を投げかけたのが、今回の「自由な家族」特集だ。
“普通の家族”は取り上げなかった
『親とは、子とは、そしてファミリーとは? 「自由な家族」』と掲げた特集では、「拡張家族」を掲げるCiftやLGBTQファミリーなどが登場。いわゆる“普通の家族”は取り上げていない。
ぺこさんと結婚し、子育てするタレント・りゅうちぇるさんだけがいわゆる“標準型“の家族構成といえる。もちろん彼自身は、父や夫の役割像にはとらわれない自由な家族を自分の手で築いている。
一体、どんな基準で企画を考えたのか。編集部の高田さんは、「自分にとっても、すごく発見がありました」と特集をふり返る。
「ここに登場した家族は、新しい生き方をしている家族がすごく多かった。僕が子どものとき、大きくなる過程で、こういう家族の前例があれば、もっと幸せになっただろうし、こういう生き方もあるんだ、というヒントになった家族です」
「取材では、そんな彼らの歩む先にはまだその道はできていないから、大変なこともあったといっぱい語ってもらえました。彼らの体験を僕たちが伝えることによって、『こうやって生きてもいいんだ』『こういう家族のあり方があっていいんだ』ということを知るきっかけになればいいなと思いました」
是枝裕和監督が語った「家族論」
本誌では、様々な家族を描いてきた映画監督の是枝裕和さんも「家族」について語っている。
家族を家族たらしめるものはなにか。最後に直球で問うと、是枝監督からは「場所を共有すること、記憶を共有すること。またはそのどちらか」という言葉が返ってきた。
「『万引き家族』でいうと、場所を共有していた彼らが、バラバラになってからむしろ家族になっていく。バラバラにされた後、信代(安藤サクラ)は、自分がママと呼ばれなかったことにはたと気づいて涙を流す。父の治(リリー・フランキー)は父親になることを諦めた後に、父親になっていく構造にしたのです。家族って、そういうもんだと思ってる」
(『GQ JAPAN』9月号 「是枝裕和の“家族”論」より)
このインタビューで語られたことに、鈴木編集長は非常に感銘を受けたという。
「バラバラになったところで家族が成り立っていく。家族というのは、本当に人間的な繋がり。それは血縁にもよらなければ、何にもよらない。お互いに人間を人間として認め合った過去の経験。認められた、認め合ったという記憶や意識によって繋がっている」
是枝監督が語った家族は、「人間的な共感関係という言葉の別名だったんじゃないか」と、鈴木編集長は読み解いた。
「だったら、世界は一家、人類皆兄弟でもいいかもしれないけれど、でも実は、世界は一家、人類皆兄弟じゃない。だからこそ、僕たちは人間的な繋がりを、既成の家族イデオロギーとは別に打ち出していくことを問われているんじゃないかと思うんです」
編集長が明かした自分の家族
「僕の家族は、“普通”にありふれた家族のひとつだと思います」
鈴木編集長は、そう語る。最新号の「エディターズ・レター」では、自身の家族についてオープンに綴っている。
「両親が離婚して父親に引き取られた僕にとってのあたらしい家族は、最初は『おばちゃん』だった『お母さん』がいて、それから産みの母親である会うことのない『ママ』がいて、という“家族”でした」
「そのため、別々に育ったきょうだいがいましたし、『ママ』の顔は、4歳のときに別れてから15、16年後に、まるで初対面のような感じでふたたび見ることになりました。ずいぶん年の離れた姉や兄もそうでしたけれど」
「でも、そういうことって結構あるんじゃないでしょうか? 蒸発したお父さんとか、男とどこかに行っちゃったお母さんとか。ありふれてはいないかもしれないけれど、すごくめずらしいわけでもない。確実にある話です。もちろん離婚のケースも、僕のまわりにもけっこうありますし、僕自身も離婚しています」
「そういうことが“普通”なのかどうかはともかく、それほど例外的なことではない、と考えていますし、そう考えたほうがいいと思っています。そうでないと、“標準型”にあてはまらない家族のなかの子どもには救いがありません」
誰の身にも同じようなことはある。ある意味、ありふれた現実。だからこそ鈴木編集長は、一番弱い存在に目を向ける。
「子どもは、親が喧嘩すると、『仲良くして』って言うでしょう? 仲良くしてほしいって思うわけじゃないですか。じゃないと、自分が悪いと思う。子どもは一番弱い、依存しなきゃ生きていけない存在です。自分のサバイバルは、親や大人にかかっている」
「実際、ひどい親もたくさんいます。僕が昔住んでいた隣の家にも、DV親父がいました。そういう家庭の子どもであったら、その子は家族と敵対できる、敵対する権利がある、ということを知ってほしい。その子には家族から離れる自由がある。むしろ、離れないといけない。必ず“家族”にとどまらなければいけない、と考えてはいけない」
自民党の憲法改正草案への違和感
「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」
(自民党の憲法改正草案 第二十四条)
鈴木編集長は、自民党が2012年に発表した憲法改正草案の第24条を「受け入れることはできない」と「エディターズ・レター」で表明した。
その真意を、近代社会における家族の歴史をもとに紐解いていく。
「極端な時代の例を持ち出せば、日本が戦争国家だったときは、子どもが兵隊に行って、場合によっては特攻隊員になったりとかしていたわけです。前線に送られて戦死することがわかっていても、父親も母親も笑って送り出すとかしなければならなかった。心の中はともかくとして。そういう場合、“家族”イデオロギーは、戦争のために国民を戦争の道具として動員する国家システムにとっての安全弁になっていた、といわざるをえません」
「これは、人権の立場に立てば、すごくおかしなことです。こういう場合の家族は、“社会の自然かつ基礎的な単位”なんかではなくて、戦争国家システムの部品でしかないわけですから。なんのために“互いに助け合わなければならない”のでしょうか? 子どもを戦死させるためにですか?」
「けれど、近代国家というのは本当は、国民のための“道具”でなければいけない。国家は目的ではない。個人としての国民の幸福のために機能すべきもので、その逆ではないのです」
そもそも、家族とはどんな存在なのだろう。「共同幻想」と「対(つい)幻想」というふたつの概念を用いて、鈴木編集長は説明する。
鈴木編集長は、一冊の本を挙げた。1968年に発表された思想家・吉本隆明の『共同幻想論』だ。吉本は本著で、国家とは「共同幻想」のひとつの様態とした。
「もちろん、国家は幻想的な共同体であるだけじゃなくて、実質的な共同体でもあります。武装共同体ですね。軍隊や警察力に代表される武装力が、国家装置の実体のひとつとして、しかも重要なそれとしてあります。そして、国家暴力は、敵対的な国の暴力=実力部隊に対して、たとえば戦争のときに発動されますが、内乱のときには国民に対しても向けられるのが歴史的な通例です」
「警察も、他の役所や政府機関と同じく行政権力ですが、身柄拘束をなし得る武装した警察の持つ強制力が、あらゆる行政の円滑な遂行を最終的に担保しているのですね。法に違反した国民に対して発動される強制力として警察があるわけです」
吉本が、「共同幻想」に対抗し得る唯一の共同体として挙げたのが、ペアによって紡ぎ出される「対幻想」にもとづく共同体だという。
「『対幻想』とは何かというと、つまり男と女がつくる幻想的でもあり実体的でもある共同体が抱くイリュージョン(幻想)です。現代的にいえば、“対”は男同士でも女同士でも構成できることを付言しておくべきですが、要するに、対としてひとつになった幻想です。“対なるもの”から生まれるのが子であるわけです。もちろん、子を生まないピュアな対幻想でも十分なのですけれど」
「吉本は、『対幻想』を、国家よりも重く強いと希望した。あるいは信じた、と思います。彼のなかでは、国家幻想に対峙することのできる共同体の拠点は、2つにしてひとつの『対幻想』がつくる家族だった」
「しかし、いま僕たちが目にしている実際の“家族”には、むしろ国家幻想の、それこそ“基礎的な単位”になりかねないものすらあって、自民党の憲法改正草案などは、“家族”をそのようなものとして、国家システムに組み込んでいくことを国是にしよう、としているのではないでしょうか」
鈴木編集長は、いまの社会を冷静に見つめる。
「国家幻想に最も鋭く対立するものとして、“家族”があるべきだ、と僕は思っています。たとえば、自分のパートナーが国家的な目的のために存在まるごと動員されることに抵抗することのできる存在は、“家族”のメンバーにしかいません」
「国家の目的じゃなくても、たとえばなんらかの社会、卑近なところでいえば会社共同体とか、学校の運動部とか、そういう“共同体”のために存在をかっさらわれることに抵抗し、そうした“共同体”に対立することのできる共同体が、“家族”なのだ、と思うのです」
「ある大手広告代理店で働いていて過労死した女性のお母さんは、やっぱり会社共同体に鋭く対立するわけですよね。それが正常なかたちだと思うんです。でも、実際は(家族が)対抗の拠点になっていないことがあまりにも多いように思います。ひどいときには、むしろ(システムの安定化を)促進していくような役割を果たしているのでは、とも思いたくなります」
「自民党の改憲草案が思い描いている家族は、古色蒼然たるイデオロギーに基づいていると思います」と鈴木編集長は語る。
「すなわち、ブラッド(血)とソイル(地)による結合ですね。それは近代国家が否定してきた人間の結合形態そのものです」
「むしろ、血と地による結合を解体して、自由な結合関係をつくろうというのが、近代的な国家なり社会なりの、基本的な概念や人権の基礎にある考え方です。その考え方が、もちろん家族にも適用されていかないといけない」
家族は、小さなサバイバルユニットでもある。だからこそ、弱き者も守られる、ともに分かち合える個人間の結合であるべきだという。
「個人として生きるんだけど、個人としてサバイブするには厳しすぎる条件があったりします。心理的・精神的にであれ、物理的にであれ、家族というかたちで共同生活をすることが、サバイブするうえで役に立つわけです」
「家賃をシェアして、というように功利的に役に立つだけじゃなくて、苦しみや喜びや悲しみを、それこそシェアすることができる。もろもろ分かち合うことを含めて、人間としてサバイバルすることに、家族は役立ち得る」
「人間は社会的な動物です。ひとりでは生きることができません。ですから、他人と意識的に結合したいし、しなければなりません。だからといって、その結合の軸は、血と地じゃない。そうでなければ、結婚すら成り立ちません。どんな家族であっても、その基礎には個人間の自由な結合がなくてはならない、と思います」
「家族は安定化装置」に反対する
血と地によらない個人の結合による「自由な家族」。鈴木編集長がそれを希求するのには、きっと自身の生い立ちも関わっているのだろう。
インタビューの途中で、「僕は、祖母がドイツの女性なんです」と明かしてくれた。
「一緒には育っていなくて、明治時代に親父の親父がドイツで勉強していて、そこで出会って結婚し、祖母は明治の日本にやってきました。そのせいで、僕も外見がちょっと“ガイジン”ぽいので、子どもの頃はよくからかわれました」
「アメリカ人とはやしたてられたんですね。アメリカ人じゃないんですけれどね。見た目がほかの子と同じじゃなかったから、異物として攻撃対象にされたんですね」
一人ひとりが、与えられた意に染まない境遇から脱するヒントを探すのなら、アルベール・カミュの『反抗的人間』が参考になる、と鈴木編集長は述べた。
「カミュは『反抗的人間』(1956)という薄い本で、主人と奴隷の話をしています。奴隷は奴隷だから、主人の言うことをきくのは当たり前です。で、奴隷は主人が発するもっとも理不尽な、もっとも意味のない、反人間的な命令に従うことで、日々、より奴隷になっていくわけです」
「命令を聞く奴隷がいる限り、主人は自分に権力があることを確証できるわけです。いま、政府機関が公的文書を捏造しても、責任が問われないなどということが起きていますが、そういう理不尽な事態を是認する人々が、政府機関のなかで支配的な地位を占めているのでしょうか。そうであるとすれば、カミュいうところの主人の命令に従う奴隷のような存在が政府機関に数多いる、ということなのかもしれません」
鈴木編集長は、「奴隷は、奴隷の名においてではなくて、人間の名において立つ」ことに着目する。
「カミュは、どこかの時点で奴隷が『私は人間だ』と言ったとき、奴隷の身分から脱する、と言っているんですね。奴隷は反抗するときに、人間の名によって自らを語り、自分が人間であることを反抗の根拠とするんです。そうしないと、奴隷の境遇からは脱出できない。そのとき主人は、人間として立ち上がってくる存在と対峙することになります」
鈴木編集長は、ここで現代に話を戻した。
「あらゆる疎外された人は、どこかで、自分も自分を疎外する人間と同じ権利のある人間であるということに気づいたときに、人間としての自分を回復するための行動に移っていくのではないでしょうか」
「僕たちの存在のありかたには、いろんなレイヤーがあります。たとえば、会社の社員、妻に対しての夫、子どもに対しての親、親に対しての子、草野球チームのピッチャーなどなど、いくつもあります」
「けれど、そうしたいろいろな役割やあり方、存在の様態をこえて、僕たち一人ひとりが人間なんです。普遍的な、人間として認められるべき権利を付与された存在なのです。個々の人間にそういう権利が与えられている、とみなすところから、近代社会は出発したはずですよね」
疎外されたと感じる人たちが、権利を求める声を上げて繋がること。それが現代において「反抗」することなのかもしれない。
公権力とメディアの関係
雑誌メディアの『GQ』が、ここまでスタンスを持って発信できるのはなぜなのか。
「GQは、娯楽雑誌です。娯楽雑誌ではあるのですが、娯楽雑誌であるからこそ、人間の心にじかにかかわる雑誌なのです。そして、娯楽は人権あってのことです。基本的な人権があやうくなるようなときには、娯楽を守るために声を挙げる必要があるのではないでしょうか」
「GQはライフスタイル誌ではありますが、すべてのジャーナリズムの基本にあるモットーは、ニューヨーク・タイムズ紙の有名なフレーズを引けば、『Without Fear or Favor』(恐れず、へつらわず)でなければならないと思います」
「そんな普通の感覚が、もしかしたら日本だけで失われつつあるのでなければいいのですが。僕が雑誌の世界に入ったころは、もっと自由な空気があったと思います」
「家族」の「和」をこいねがう本当の意味
鈴木編集長は、自身の経験をもとに「『家族』の『和』をどれほどこいねがっただろうか。どれほどそこから遠かったことだろうか」と「エディターズ・レター」の結びに書いていた。
その真意を訊ねる。
「和って、自民党の改正草案にもあります。こう書いてあります。“日本国民は、国と郷土と誇りを気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する“と」
「けれど、“和”というのは、何かの原型=プロトタイプがあって、その原型と同型的である個々がつくる集合状態のことではない、と思うんです」
「“和“は、平和の和、つまり、ピースですが、平和だからといって、みなが同じ考えや思想に染まっているということではありません。それでは独裁システムのもとでの“和”のようなものにしかなりません」
「みなが違っていて、全部バラバラで、みなが異見を持っていて、なおかつ抗争が起きない、というのが本当の“和”であり、ハーモニーなのです。個々の“音”は全部違うけれども、それぞれが同時に鳴ると“和”になる。お互いが個性を失うことなく、それぞれに自由に存在できている状態、それこそが“和”であると思うんです」
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