「ひまわり」で知られる後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホ。その若かりし頃だと考えられてきた写真が、実は彼をずっと支え続けていた弟のテオ(テオドルス・ファン・ゴッホ)であることが分かった。
オランダ・アムステルダムにあるゴッホ美術館が11月29日、発表した。
今回判明したのは、「13歳のゴッホ(フィンセント)」だと長年言われてきたもの。実際には15歳の弟テオだという。32歳のテオの写真と見比べると、面差しがよく似ている。
ゴッホの展覧会に携わっていたイヴ・ヴァシュール氏とゴッホ美術館の研究で分かった。
テオの子孫「謎が解けてうれしい」
気難しい性格で知られるゴッホ。
ゴッホ美術館によると、肖像写真を撮られるのが嫌いだったと言われており、現在ゴッホの写真と言われるのは13歳と19歳の時に撮ったとされる2枚のみだった。「13歳のゴッホ」は、ベルギーのゴッホ研究員、マーク・エド・トラルボート氏(1902-1976)が主催した1957年の展覧会で初めて公開されたものだった。
ゴッホ美術館の上級研究員は「いままでこの写真が他の誰かなんじゃないかという疑問は湧いてこなかった。この写真に写っている少年は、19歳のゴッホ(フィンセント)にとても良く似ていた。だから疑いの余地がなかった」という。
テオの子孫ウィレム・ファン・ゴッホさんは「謎が解けてうれしく思います。この写真が、私の曾祖父テオとなる可能性が非常に高いと聞いて驚きました」と話している。
疑惑が浮かび上がったのは2014年。オランダのテレビ番組で「ゴッホのものだといわれている2枚の写真は、同じ人物ではないのではないか」という特集が組まれた。
これを受け、ゴッホ美術館はアムステルダム大学に法医学調査を依頼し、この結論につながったという。
一方、ゴッホ展覧会に関わり、独自でこの疑問に当たっていたイヴ・ヴァシュール氏は「私は、偶然気が付いたんです。この疑惑の写真を撮ったとされる写真家バルドゥイン・シュヴァルツが、ブリュッセルにスタジオを構えたのは1870年。この時ゴッホはすでに13歳よりずっと年上だった。そこから研究を重ね、ゴッホ美術館と疑問を共有することになったんです」と語る。
決定的な要因はテオの瞳
なぜテオだと分かったのか。決定的な要因はいくつかあったという。
たとえば、1873年に、テオはブリュッセルに住んでいた。これは問題の写真を撮影した写真家シュヴァルツが働いた町だ。また、研究チームはテオがその年の2月に撮影した自分の写真を手紙から入手。テオはこの時15歳だったという。
ゴッホもテオも、どちらも赤みを帯びた金髪だったか、テオのほうはややスリムで繊細な特徴が見られた。額は高くまっすぐな印象で、瞳は明るい青色。
この印象的な瞳の明るい色が、ほかのテオの写真と疑惑の写真で一致していたことが、高解像度のコピーを用いた法医学調査で明らかになっている。
テオとゴッホをめぐっては、有名なゴッホの自画像が実はテオを描いたものだったことが、2011年に発覚している。
テオってどんな人?
巨匠フィンセント・ファン・ゴッホの人生を語るうえで、画商の弟テオドルス・ファン・ゴッホの存在を欠かすことはできない。
ゴッホは1853年、オランダに生まれる。6人きょうだいの事実上の長男(初子は死産)で、テオは4つ下の次男。
転職や熱烈な片思いと失恋を繰り返し、情緒不安定だったゴッホは、生前才能が全く評価されず「赤い葡萄畑」という絵画1枚のみしか売れなかったことで知られている。
定職にもつかず、画業に専念していた約10年間は、深夜営業のカフェに寝泊まりして絵を描いたり、ゴーギャンと暮らし始めたと思えば耳を切り落としたり、破天荒な生活を送った。
その生活費や絵画の制作にかかるお金は、ほとんどがテオからの援助だった。生前に彼の才能を認め、彼の唯一の理解者でもあった。
テオはゴッホを生涯支え続け、1880年代には画壇から落ちこぼれた前衛画家たちを育てる活動もしていた。絵描きのたまり場だったパリのモンマルトルで、ゴーギャンとゴッホを引き合わせたのも彼だった。
1890年、拳銃自殺を図ったゴッホの死を見届けたテオ。
ゴッホが死の直前に書いた最後の手紙には「君はただの画商ではなく、絵を共に作り上げてきた」と書かれていた。
熱烈なブラザーコンプレックスだったことも影響し、テオはゴッホの死を受け精神的に錯乱したまま、半年後に33歳で衰弱死を遂げた。