ガザの国境付近は、どうにか出国しようという人たちでごった返していた。
3人の日本人スタッフを含む22人の「国境なき医師団(MSF)」の外国人スタッフは現地の言葉もわからず、混乱のさなか出国手続きができる検問所に自力でたどり着くことさえ難しかった。
“逃がして”くれたのは、現地のスタッフだった。「この人たちは、通らなきゃいけない人なんだ!」と声を張り上げ、群衆の波をかき分けてくれた。最後の一人が渡り切るまで、見届けてくれた。
自分たちの明日さえわからない状況なのに、なぜそこまでしてくれるのか。
MSFで人事を担当する白根麻衣子さんの問いかけに現地スタッフから返ってきたのは、「あなたたちは家族だから」という言葉だった。
「開戦前から、ガザでは紛争が続き、自由を制約され、危険と隣り合わせの場所だった。そんな私たちの国を支援しに来てくれている人たちのためだったら何でもする。あなたたちは私たちの家族、単に仕事上の関係じゃない」
2023年10月7日に、イスラエルとガザを実行支配する武装勢力ハマスの武力衝突が始まってから4カ月以上経ち、ガザでは2万8000人以上が犠牲になっている。
そして今もなお、一つでも多くの命を救おうと汗する、MSFのスタッフがいる。開戦時に現地にいた2人の日本人が見た、紛争の現実を聞いた。
日本人が体験した「開戦」
白根さんは2023年5月から、MSFの人事担当スタッフとしてガザで働いていた。
ガザは2018〜19年以来2度目だったが、10月7日までは前回と違ってイスラエルからのミサイル攻撃はほとんどなく、状況はだいぶ落ち着いていると感じた。
地中海に面した長さ約40キロ、幅11キロの細長い地形に200万人以上のパレスチナ人が暮らすガザは、周りを壁やフェンスで囲まれ、イスラエル軍に包囲されている。
インフラは十分に整っておらず、電気が通るのは1日4〜5時間で、水道水には塩分が含まれており、開戦前も医療物資は潤沢ではなかったという。
それでも、ガザでは子どもたちが学校に通い、貧しいながらも平穏な人々の生活があった。
白根さんも、勤務後に同僚と夕陽を見ながらレストランで食事を楽しむこともあり「私たちが過ごす日常と変わらない、特別ではないし、裕福ではないけれど日常がありました」と振り返る。
その日常が一変したのが10月7日だ。この日の朝、武装勢力ハマスに襲撃されたイスラエルは、報復のために大量のミサイルをガザに向け発射。双方からの攻撃が止まらなくなった。
白根さんらがいた北部ガザ市は激しい戦場となり、MSFの外国人スタッフ全員が、宿泊していた建物から外に出られなくなった。
前回のガザ勤務でもイスラエルとの武力衝突が発生したが、その時は開始から数日で一時停戦になり、ガザ地区にいた外国人スタッフはイスラエル側に避難できた。
しかし、今回まったく停戦の気配はなく、日を増すごとに状況は悪化した。
「2日、3日目になると止まることのないような空爆が起きて、住んでいた建物のガラスが全部割れ、地下にいても爆風を感じるぐらいでした。これは私が知っている紛争とは、比べ物にならないと思いました」
空爆下での野宿。助けてくれたのは…
武力衝突が始まってから1週間後、イスラエル軍が北部の住民に対し、南部へ避難するよう通告した。
白根さんら22人のMSF外国人スタッフは、着のみ着のまま最低限の荷物だけを持って車で南部に避難し、国連の施設に身を寄せた。
その施設にも次から次へと避難民が押し寄せてきており、一度建物から出た後は中に戻れなくなってしまったため、白根さんらは外に停めた車での寝泊まりを余儀なくされた。
施設の中にも外にも、あふれる避難民。水や食料はまったく足りず、普段は助け合って生きているガザの人たちの間でも、毛布の奪い合いや喧嘩が起きていた。
国境なき医師団の車を見て、 薬や治療を求める人たちもいたが、必要最低限の持ち物だけで避難したため、提供できる医療物資はほとんどなかった。「普段は簡単に用意ができる薬も渡すことができず、無力感を覚えました」と白根さんは当時を振り返り肩を落とす。
その後、白根さんらは別の国連施設の駐車場に移動し、そこから車中泊と野宿の生活が始まった。
国境が閉鎖されていたため物資の搬入はなく、カロリー計算をしながら食事量を調整し、体を洗った水は洗濯やトイレで再利用して節約しながら1日1日を過ごした。
それでも、先が見えない中で手元にある水や食料が目の前でどんどん減っていく状況に、「このままどうなるんだろう、ここで死んでしまうのではないか」と死への不安も浮かんだ。
そこでも助けてくれたのは、現地のパレスチナ人スタッフたちだった。
セキュリティ上の理由で避難所から出られない外国人スタッフのために、自らも避難しているにも関わらず町中を歩き回り、水や食料を確保してくれた。
白根さんは「空爆の中で色々なものを買ってきてくれて、彼らがいなかったら生きられていなかった」と話す。
一緒に働いた医師の死
感染症専門医の鵜川竜也さんは、白根さんより1カ月早い2023年4月にガザに来て、北部のアル・アウダ病院で手足の外傷や感染症を専門に扱うチームで働いていた。
ガザでは2018年から、イスラエルの封鎖解除と故郷を追われたパレスチナ難民の帰還を求めるデモ「帰還の行進」が行われている。
MSFには、このデモに参加して重症を負った患者をメインに治療するためのプロジェクトがあり、鵜川さんはこのプロジェクトの内科チームの一員として、抗生物質を使った傷口の感染治療や感染症の予防などにあたった。
このチームの中心となって働いていたのが、パレスチナ人のマフムード・アブ・ヌジャイラ医師とアフマド・アル・サハール医師だ。彼らはオフィスが同じで、鵜川さんをいつも気にかけてくれた。
アラビア語が話せず、患者や看護師とのコミュニケーションに不安を感じている時には、間に入って通訳したり、代わりに診察を申し出たりしてくれた。
新人のサハール医師は、鵜川さんが病棟に来るとすぐに「大丈夫か」と声をかけ、ベテランのヌジャイラ医師は「俺がいるから大丈夫だよ」と安心させてくれたという。
鵜川さんは「支援にきた海外派遣スタッフの自分の方が頼っているような感じでした」と振り返る。
病棟のオフィスには、患者数や手術の予定を書き込むホワイトボードがあった。
ヌジャイラ医師らが書き込んだ手術の予定や術式を見て、鵜川さんらのチームが必要な抗生物質を書き加える。ホワイトボードは、医師たちのコミュニケーションの場でもあった。
一人一人の患者に真摯に向き合い、具合が悪い時には夜まで残って治療するパレスチナの医師たちに、鵜川さんは「自分たちの患者は、自分たちが診る」という強い意志と責任感の強さを感じた。
閉ざされていたエジプトとガザの国境ラファの検問所が開いたのは、10月7日から26日経った11月1日だった。
白根さんや鵜川さんは「ようやく出国できる」と安堵した一方で、現地スタッフを残していくことへの強い後ろめたさを感じた。
白根さんは「日本にいる家族や友人に心配をかけたので、もちろん帰りたいという気持ちはありました。でも自分たちの命を顧みずにMSFの活動を続け、私たち外国人の命を守ってくれた現地スタッフは爆弾が落ちるところに残らなきゃいけない。それを考えると、純粋に嬉しいという気持ちにはなれなかったです」と振り返る。
現地スタッフの尽力でどうにか日本へ戻った白根さんと鵜川さんらの元に、アル・アウダ病院が攻撃を受けて3人の医師が亡くなったという知らせが届いたのは、ガザを出てから3週間後だった。
そのうち2人は、鵜川さんとともに働いたヌジャイラ医師とサハール医師だった。
ヌジャイラ医師が残したメッセージとは
鵜川さんは一緒に働いたスタッフが亡くなったことがすぐには信じられず、言葉を失った。
銃弾で破壊されたホワイトボードには、ヌジャイラ医師の手書きのメッセージが残されていたという。
「最後まで残った人、伝えてください。私たちは自分ができることをした。私たちを忘れないで」
メッセージの日付は10月20日で、ヌジャイラ医師らが死を覚悟しながら治療を続けていたことが感じ取れた。
私たちがガザの人のためにできること
「何があったかを伝えて。私たちを忘れないで」という言葉は、他のパレスチナ人スタッフからも伝えられたメッセージだ。
鵜川さんは、今回ガザで紛争が勃発した後、医師としてパレスチナの人たちを助けられなかったことに責任を感じ、ガザを出る時に「自分は役に立てなかった」と現地スタッフに伝えた。すると、「現地の状況を他の場所に伝えるだけで、ガザに住んでいる人としてはありがたいんだ、帰国しても伝えてほしい」と託されたという。
「(ヌジャイラ医師によって)ホワイトボードに書かれた『現地で起きていることを伝えて』というメッセージを忘れてはいけないと思っています。そのためにも、戦争をやめようという声を出し続けられるようにしたいと思います」
白根さんも、叫びにも似た思いを口にする。
「ずっと長い紛争に苦しめられてきたガザの人は、世界中の人がガザのことを忘れるのを、一番恐れていました。子どもや女性、病人、弱い立場の人が殺されていても、誰も知らなければ止めることができません。ガザで何が起きているのかを、一度でも考えてもらいたいです」
現地では今も、パレスチナ人スタッフと、11月以降に派遣が再開された外国人スタッフが支援を続けている。
激しい戦闘と爆撃が続く中でかろうじて運営を続けている病院でも物資がまったく足りておらず、一度使ったガーゼを洗浄・滅菌して再使用している手術室もあるほか、運び込まれた患者を救えないこともある。
周辺への攻撃で、病院自体も安全な場所ではなくなっており、1晩中爆弾の音を聞いて眠れなくなるなど医療スタッフにも大きな心理的負担がかかっている。
死を覚悟して働く同僚や現地スタッフにメッセージを送るとき、白根さんはこんな言葉を選ぶ。
「生きてる?」
「頑張って」という言葉は送れない。ガザの人たちが、限界を通り越すほど頑張り続けていることを知っているからだ。大丈夫ではないこともわかっているから「大丈夫?」とも聞けない。
「生きてる?」という一言には「どうか生きていて欲しい」という願いが込められている。
そしてまたいつか、会いに行くからねと。