前回は3月15日に広野町が、町の機能を移転したところまでのお話をさせていただきました。それ以降は町の山側に100人くらいの人が残っているという噂を聞きましたが、野良犬や野良牛に遭遇することはあっても、町中で人に会うことはありませんでした。
人のいなくなった町は、夜になると暗闇に包まれ、朝になっても生活のにおいや音がせず、生命の活動というものが全く感じられない、まるで時間がずっと止まったままの、まるで映画のセットの中にいるようでした。だれも立ち入ってこない、地球上でここには、患者さんと私達しかいない錯覚。それがいったいいつまで続くのかわからない状況の中で、「患者さんがいるから」と、残ったスタッフ達の肉体的、精神的疲労は計り知れないものでした。
今年で開設35年の病院は、当時は全館に自家発電が配備されておらず、主要なところのみでした。そのため、日の出と共に食事の支度をはじめ、日の入り前に食事を終わらせて、車のライトで給食室を照らしながらの片付け。精神科の患者さんに、「ごめんね。私が作るからおいしくないでしょ?」と聞いたのですが、「大丈夫だよ、事務長のご飯は、ご飯の量が多いからみんな喜んでいるよ~。」と慰められました。
とにかく食べてもらうことが優先でしたので、カロリーまで考えて作る余裕はありませんでした。それでも一日3食、食事を提供し続けました。トイレに入るには、右手に懐中電灯、左手に汚物を流すための水の入ったバケツ。うっかり懐中電灯を忘れて入って、ドアをしめた後に真っ暗で気がついて、慌てて懐中電灯をとりに行ったことも何度かありました。夜間のおむつ交換にはランタンをぶら下げて行っていました。
16日の朝に東北電力の社員の方が、対策本部からの指示で、予備電源をトラックに積んできてくれました。そのまま置いて帰られるのかと思ったのですが、危機的状況にある病院をこのままにはできないと、小雨の中、切れた電線を遠くからつないでくださったのです。夕方に全館に電気がついた瞬間、暗闇の中から一気に明るくなって、まぶしさのあまり、めまいがしました。その場にいたスタッフもみな同じだったと言っていました。
あくまでも仮設なので、強風などで切れてしまうかもしれません、と言われていたので、屋内退避が解除さるまで、強風が吹き荒れると、また停電になるかもしれない不安から、「風、やんで!」と祈りながら過ごしていたので、眠らず朝を迎えることもありました。同じ日に自衛隊が水を補給にきてくださって、とりあえずの水と電気の心配はなくなりました。
しかし、スタッフは、交代要員のいない連続勤務を続けていました。仮眠だけでは取り切れない疲労。足がむくんで腫れたようになって、痛みで階段がおりられないスタッフもいました。気を抜くと睡魔に襲われ、立ったまま寝てしまう。それでも明るく働くスタッフ達に、かける言葉は「ありがとう」だけでした。「大丈夫?」と声をかけても「大丈夫!」と返ってくるだけなので、なんの意味もない。「がんばろう」という言葉も軽すぎる。
本当はもうこれ以上がんばらせたくない、休ませてあげたい。このスタッフ達がいるから、絶対に患者さんは大丈夫だと信頼していました。だから「ありがとう」という言葉だけを言い続けるしかなかったのです。それでもいつか、誰かが倒れるかもしれない、そんな恐怖を押し殺しながら、明るく笑顔でいるスタッフの前では、私も「ありがとうね~」と笑っているしかなかったのです。
対策本部とのメールに「(スタッフは)患者さんを守るために必死です。彼らを守るために、私は、食事を準備して、雑用をこなし、こうして外部と折衝する以外何もできません。どうかスタッフを助けてください。」というのが残っています。医療や看護の業務ができない自分の、無力さに苦しんでいたときの、唯一の願いでした。
半年後にスタッフが、「実はね。」と話しかけてきました。「あの時本当は、これからどうなるのだろう、もうダメかなって思ったこともあったけど、事務長が「大丈夫、大丈夫」って笑っていたから、だから大丈夫だなって思ったの。笑っていてくれてありがとう。」と。
その当時私が使っていた携帯会社は、アンテナが津波で壊れてしまったため、電話は途切れ途切れしかつながらず、どうにか電波の良いところを探して、メールが使えるくらいでしたが、今メールの送受信履歴をみると、朝は4時頃から夜は2時過ぎくらいまで、県の災害対策本部とのやりとりの記録が残っています。
内容は最初の頃は主に状況や人、水や燃料などの補給のお願い。その後は避難についてのやりとりでした。中には院長からのメッセージで、「病院周辺の放射線漏れの影響は最高値でも、1回の胃透視と同程度で害はありません。人を送ってくださるなら、放射能の心配はないとお伝えください」というのもありました。現地の情報が伝わらないもどかしさを感じていたのかもしれません。
そんな危機を乗り越え、屋内退避が解除されてからは、少しずつ人や物も入ってくるようになりました。その後広野町は「緊急時避難区域」に設定されました。「緊急時に避難するために準備しておく区域」というのが読んで字のごとくですが、実際は、その為には、自力で避難できない子供・要介護者・入院患者・自宅療養者は住んでいてはいけませんよ、とされたのです。
つまり入院患者は存在してはいけない区域になったのです。患者さんごと搬送すればよかったのでは、とおっしゃる方もいました。しかし同じ頃、警戒区域から長時間の無理な搬送により、急激な体調の変化で、多くの患者さんの命が失われていたのも事実です。
さて、双葉郡で唯一患者さんと共に残った病院は、町が国と県に報告した「全町民避難」完了より、存在が消されました。国の定めた「緊急時避難準備区域」の文言に反するような病院はあってはならなかったのです。震災後、院長は、医師免許を剥脱されても構わないから、死亡する確率の高い患者さんは、動かさないと言っていました。すでにその頃から、私達の、地域医療と患者さんを守る戦いは始まっていたのです。
(2016年3月10日Vol.064 「そこに存在してはいけないとされた病院」福島県双葉郡広野町・高野病院奮戦記 第5回より転載)