荒れ野の古里に花を咲かせた「飯舘村」の「帰還農家」--寺島英弥

東京電力福島第1原子力発電所事故の避難指示解除から、まもなく7年半の福島県相馬郡飯舘村の比曽地区に、鮮やかな高原の花々がよみがえった。

 除染土の仮置き場が居座り、夏草が伸びた農地には耕す人の姿もない。東京電力福島第1原子力発電所事故の避難指示解除から、まもなく7年半の福島県相馬郡飯舘村の比曽地区に、鮮やかな高原の花々がよみがえった。今年、8年ぶりに栽培を再開した菅野啓一さん(63)のビニールハウスだ。避難中も自宅に通って除染実験に取り組み、「住民が協力すれば復興できる」と訴えたが、帰還した仲間はわずか。それでも、約230年前の天明の飢饉で荒廃した古里を現在に重ね、「先人の苦労を思えば頑張れる」と言う。この夏、東京に出荷したお盆の花を過去への手向けにし、明日への希望にして。                 

8年ぶりに復活した花

 白、ピンク、紫。トルコギキョウの花が、作業場いっぱいに咲いたようだ。星の形をした可憐な一重、バラのようにあでやかな大輪の八重、そのまわりを真っ白に彩るカスミソウも。飯舘村比曽の農家、菅野啓一さんと妻忠子さん(64)が午前4時半から作業をした、朝採りの千数百本。その1つ1つの姿を剪定ばさみで丁寧に整え、鮮度を保たせる溶液の入った水を吸わせ、翌朝2時に起きて箱詰めをする。「いいたての花」。こう誇らしく刷られた段ボール箱に30本余りの花を約40セット、お盆向けの花として、業者のトラックで東京・大田市場に送り出してきた。初出荷は8月3日。2011年3月の福島第1原発事故で全村避難を強いられた歳月を挟み、8年ぶりの花作り再開だった。

 啓一さんには、原発事故が起きる12年ほど前からトルコギキョウの栽培を手掛けた経験がある。「農業を再開するなら、風評の付きまとう食べ物でなく、花と決めていた」と言う。花作りを手ほどきしてくれたのは、友人で同村松塚地区の農家、高橋日出夫さん(68)。阿武隈山地の冷害常襲地だった村でコメに代わる新しい特産品として、夏も涼しい気候に合った花を広めた1人だ。「コメ、牛、野菜の農業経営を切り替え、新しい挑戦をしたい時だった。比曽の農家仲間と誘い合って、ハウス1棟で試験的に始めた。最初は花丈が伸びすぎる失敗があったが、面白くなって2年目からのめりこんだ。最盛期には9棟に増えた」

 原発事故前、飯舘村には花の生産者が90人余りいたという。しかし、住民は離散。栃木県那須塩原市などの避難先で再開した人もおり、高橋さんは福島市内でトルコギキョウの花作りを続けた。避難指示が解除された昨年春から、同じ松塚地区の仲間3人と国の農業復興支援のハウス18棟でカスミソウの栽培、出荷を始めた。除染作業の後も作り手の戻らない水田に立つハウス群の景色は、村の復興への希望になった。啓一さんは、比曽地区の除染が遅れて1年後の再開になったが、やはり国の支援事業で3棟(約10アール)の新しいハウスを建てた。「大事なのは販売先が確保されていること。原発事故前から高橋さんらと共に長い付き合いで、信頼関係のあった大田市場の花き卸業者が、今回の栽培復活に当たっても取引の再開を約束してくれた」

 お盆を過ぎ、菅野さん夫婦の忙しい収穫と出荷の作業は、秋のお彼岸、ブライダルシーズンまで続く。

 ただ、再開1年目の反省もある。新しいハウスの設置が昨年9月になったため、十分な土づくりが間に合わず、そのうち1棟でトルコギキョウが満足に育たないという誤算があった。連作を避けるため2年目の栽培場所にしようと、原発事故前からある古いハウス5棟に、地力をつけるための牧草を植えて、すき込んでいた。その一部で代わりのカスミソウを育てた。だが、心配を吹き飛ばすように、白雪のような高原の花は見事に咲いた。「原発事故からの長い7年間を越えて、ここでまた生きていく自信を花がくれた」

帰還した住民はわずか

 花のハウス群の向こうには、膨大な除染土袋(フレコンバッグ)の仮置き場が広がっている。原発事故前は、山々に囲まれたスイスの谷のような美しい水田があり、住民の多くはコメ作りや肉牛の繁殖を生業としてきた。標高600メートルの高冷地に比曽の人々が拓いてきた風景だった。だが、汚染された農地を深く削り取られ、牛たちも全村避難に伴って処分された。昨年3月末に飯舘村が避難指示を解除された後も、比曽地区では除染の工程が遅れ、避難先から戻った住民は現在もわずか。87世帯あったうち6世帯だという。

「住民が安心して帰れる環境に戻してほしい」。啓一さんは、除染を担当した環境省の現地担当者たちに訴え続けた。原発事故当時、比曽地区の行政区長を務め、避難までの住民のまとめ役として奔走。その後も、仮設住宅を巡って『比曽ふるさと便り』という手作り情報紙を仲間に配り、帰還までの結束を呼び掛けた。

 2011年6月の第1号には、同時期の放射線量が次のように記されている。【番屋10.18、義平宅前8.12、十文字9.80、国男宅前9.15、馬橋13.45、康裕宅前16.35】(単位はマイクロシーベルト毎時)。地理的に福島第1原発に近い環境から、村内でも高線量の地域になった(東隣が帰還困難区域の長泥地区)。啓一さんらは「全戸が一緒に帰還する」との目標を掲げ、行政区に「除染協議会」を設け、環境省への要望、独自の除染実験などの活動に取り組んだ。「他の線量の低い地区と一律の除染では足りない。地元の実情を知る、われわれ住民の要望を入れてほしい」というのが一貫した訴えだった。

 比曽の全戸で、家屋と周囲の除染作業が行われたのは2015年だ(農地は翌2016年)。啓一さんはその夏、長年の農業、地域づくりの盟友である菅野義人さん(66)、支援者の放射線専門家、岩瀬広さん(42)=茨城県つくば市の高エネルギー加速器研究機構=と検証測定を計画。バイクにGPS付きの放射線測定器を積んで家々をくまなく回り、除染効果を調べた。その結果、多くの家の玄関側で線量は「1」前後に減ったが、居久根(屋敷林)がある裏手は「3~7」もあり、家の中への放射線の影響が懸念された。環境省の除染は、山林では枯れ葉など堆積物を取り除くだけだったが、原発事故後、放射性物質の大半が林床の腐植土に移行している実態があった。啓一さんらは自前のデータを示し、土をはぎ取る除染を現地担当者に求めた。が、「基準にないことは作業の対象外」と相手にされなかったという。

居久根除染の訴え実らず

 2017年9月の初め。帰還に向けて、啓一さんの自宅のリフォーム工事が進み、原発事故前に牧草地だった一角に新しい花作りのハウスが組み立てられていた。比曽の放射線測定を支援してきた岩瀬さんが遠路、そのひと月ほど前、自宅の周りで採取した土の詳しい分析データを持って訪れた。牧草地跡では環境省の汚染土はぎ取りの除染が行われ、測定の結果、ハウス用地の2カ所で採られた土の放射性セシウム濃度(ベクレル/1キロ当たり)は、それぞれ「190」と「184」。原発事故後、稲、野菜などの栽培用の土について国が定めた安全性の暫定許容値400ベクレルをはるかに下回った。

 しかし、自宅裏の居久根での計測結果を聞いて、啓一さんは「なに、8万ベクレルもあるのか」と声を上げた。居久根の3カ所で採られた林床の土の放射性セシウム濃度は、それぞれ「85720」、「59986」、「19354」。原発事故当時から変わらぬような高い数値だった。国が責任をもって処理すべき指定廃棄物の法的基準「8000ベクレル/キロ」をはるかに超え、啓一さんらの訴えの通り、はぎ取り除染の対象に該当していた。

 全く対照的なデータもあった。啓一さんは2016年の6月と8月、飯舘村の環境再生を支援するNPO法人「ふくしま再生の会」の協力で、自宅裏の居久根の別の一角で除染実験を行っていた。居久根の端から40メートル奥まで扇状に実験地を広げ、自らが重機のアームを伸ばして高さ約20メートルまで枝を切り、林床を約15センチの厚さではぎ取った。実験後の放射線量の減少は劇的で、周囲では0.2~0.3に下がった。居久根除染の有効性が証明され、家の中の放射線量も0.15前後と、避難先だった福島市内のアパートとほぼ変わらなくなっていた。が、新聞などでも報じられたこれらの事実が状況を変えることはなく、国は除染完了を宣言し、予定通り2017年3月末の避難指示解除に至った。

「居久根は農家にとって生活圏。徹底した除染の努力をせず、国が『もう終わった』というなら、俺たちにやらせてほしい。実験の成果、ノウハウはある。住民自身が担い手になる居久根除染に村独自の予算を付け、仲間の帰還を支援する事業にしてほしい」。啓一さんは訴えたが、国と足並みをそろえ「復興」を宣言したい村から反応はなく、「住民が力を合わせれば、放射線への不安も克服できる」という仲間への呼び掛けも実らぬままだった。

真の復興へ道のりは遠く

 啓一さんと共に比曽地区での農業再開を志し、自宅をリフォームして夫婦で帰還した農家、菅野義人さんを、2018年1月22日の拙稿『「避難指示解除」後の飯舘村(上)帰還農家が背負う「開拓者」の苦闘』で紹介した。

 環境省は除染作業の後、営農再開支援として村内で、表土のはぎ取りで地力を失った農地にカリウムなどの基本肥料、放射性物質の吸収抑制効果がある土壌改良材ゼオライトを投入し、すき込む工程にさらに1年を掛けた。これは「地力回復工事」という事業名で、除染が遅れた比曽地区では避難指示解除後の2017年度にずれこんだ。しかし、環境省から請け負った土木業者の作業が、現実には遅れに遅れた。義人さんの農地で工事が行われたのは同9月末。ただし、対象は牧草地の跡だけで、いまだ除染土の仮置き場の下にある水田はいつ地元に返されるのかさえ分からない。義人さんは記事の中でこう語った。

〈「9月を過ぎると、標高が高く秋の霜の早い比曽では農繁期を逃す。そもそも『役所仕様』の地力回復工事を当てにできず、一から土作りをしなくてはならぬ手間暇を考えると、貴重な1年が既に無になった。これで何が(避難指示)解除か」〉

 除染後の現場に客土された山砂は酸性で農地に向かず、土壌の性質や条件を無視した画一的な肥料投入は、地力回復どころか、そこで牧草を食べた牛の健康を害する懸念もあった。「数年は緑肥作物を育ててすき込み、土作りをする。しばらく収入はないが、農地再生は人間の力でなく土の力あってのことだから」というのが義人さんの考えだ。それ以前に、除染後に露出した大小無数の石の除去や、重機で壊された地下配水管(暗渠)の埋設し直し、客土された山林心土(礫交土)の改良など、その後の自力復興の道のりは過酷だった。

 義人さんは、地道な土作りにも国の農業復興支援事業を使わせてほしい――と、窓口の福島県に申し込んでいた。数年の期間を要する計画案に県側は「すぐに再開したい人のための事業で、土作りなどは前例がない」と難色を示してきたが、説明を重ねた末、8月末にようやく認可の連絡が届いた。「ただ、土作りの農機具の機種によっては納期に3カ月も掛かるものがあり、この秋に計画した緑肥の播種はできないことになった」と義人さん。さらにもう1年、待たねばならないのだ。「村の農業復興の根本は土の再生にある」という篤農家の目指すものと、速効性ある「メニュー方式」の事業予算で目に見える成果を上げたい国の復興政策の間には深い溝がある。

飢饉からの歴史に今を重ね

 帰還したその年に花作りを復活させた啓一さんと、農業再生の道筋は異なる。が、2人が目指すものは、荒れ野になった比曽に再び人が戻り、次世代に手渡せる古里だ。義人さんの長男義樹さん(40)は家族と北海道夕張郡栗山町にいる。避難先での営農継続を支援する飯舘村の事業に応募し、2015年9月に家業の和牛繁殖を現地で再開した。遠く離れていても父親と話し合いを重ね、「飯舘村の復興に貢献できる技術を持つ農業者になって帰りたい」と希望を温める。義人さんが見るのは、たとえ世代をまたいでも、緑豊かな牧野をよみがえらせる未来だ。「村はいや応なしに自立を迫られる。国に依存する施策は後に続かない」

〈夏の間は雨天が多く、冷気甚だしく、綿入れを来ていた〉〈山中郷では9月2日、15日と小霜、27日には大霜となり、10月末には秋風強く、丹塊を喪い、嘆き悲しみ、騒ぎ合った〉〈翌天明4年の3月までは、砕けしいな、麦類、ヒエなどの雑穀に、クズ、ワラビの根を混ぜ、粥や団子にしてしのいだが、草木の萌え出る頃を待ち、セリ、ナズナ、ウコギ、クコ、カエルッパなどに藁(わら)の粉、こぬか等を混ぜ、練りモチや団子にした〉〈天明4年の春には、多くの餓死者に加え、疫病が流行し、病死、中毒死もあり、死者の数は増えるばかりであった〉

 天明の飢饉(1782~87年ごろ)当時の旧比曽村(現飯舘村比曽、長泥、蕨平地区)を含む相馬中村藩の惨状を記した『天荒録』(現代語訳)の一節で、義人さんから教えてもらった。「山中郷」は相馬中村藩時代の飯舘の旧名で、高冷地ゆえに死亡・失踪者は当時の住民5138人の37%に上った(『祥胤公年譜』より)。91戸あった旧比曽村で生き延びたのは数戸だったといい、その1戸が義人さんの先祖だった。荒れ野で復興のくわを振るった入植者には、啓一さんの先祖がいた。

 天明の飢饉で失われた人口が回復するまでに、明治時代の中ごろまで約100年の歳月を要したと言われる。「地元に残った仲間がわずかでも、それは先祖たちが経験した現実と同じ」と啓一さん。「だが、先人の苦労を思えば、原発事故の痛手も乗り越えられる」。啓一さんは「復興」という言葉に、歴史と呼ばれるほどに長い時間を生き抜いた人々の覚悟を重ねていた。

 トルコギキョウ、カスミソウのハウス群の近くには、天明の飢饉で逝った無縁仏の小さな墓石が並んでいる。啓一さんは、その一角を小さな公園のように整地し、「比曽の歴史の原点として、大事に守ってきた」。お盆や秋彼岸の出荷のために咲かせたトルコギキョウは、比曽の再興への希望の花であり、古里の行く末を見守る先人たちへの手向けの花でもある。

帰還後の新しい家族

 ハウスの花々を啓一さん、忠子さんと眺めていると、小さな茶色い柴犬がちょこまかと入ってきた。生後5カ月の「モモ」。帰還後の番犬に、と福島市のペットショップで7月初めに求めた。この日遊びに来ていた小学4年の雫(しずく)さんら、市内に住む3人の孫たちが相談し、福島の名物の桃にちなんで名付けたという。見知らぬ訪問者に吠えるどころか、人なつこく絡みつき、「こりゃあ、番犬にはならねえな」と飼い主をあきれさせた。

 思い出したのが、啓一さんが2012年9月、初めて行った居久根の除染実験を取材した折。小型重機で土のはぎ取りをしていた林床に、こんな古い板の標柱があった。「ありがとう チビ太の墓 平成二十三年一月二十二日死亡」「平成九年 浪江町より来る 十五年間菅野家を守る」。筆者のブログ『余震の中で新聞を作る』には当時、こんな言葉が記された。

「浪江に仕事に行ったとき、捨てられた雑種の子犬をもらったんだ。保健所に連れていかれるよりは、と。家を建てた借金を土方仕事で返していたころだ」「人なつこい犬で、誰にもほえないで、なつくんだ。番犬にはならなかったなあ」「18年生きて、震災の直前の1月に老衰で死んだ。生き長らえても、その後の避難生活は耐えられなかったろうな」

 生まれ変わりのようにやって来たモモ。「帰還後」を生き始めた菅野家に、新しい家族が加わった。

寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。

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(2018年9月7日
より転載)

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