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早朝、眠い目をこすりながら車のエンジンをかけた。
福島県いわき市の自宅を出発し、国道6号を北上する。日はまだ昇っていないが、道は復興・復旧業務に従事するトラックや作業車で混雑している。
1時間後、約30キロ先の「Jヴィレッジ」に到着。福島第一原発に向かう専用バスに乗り換え、東京電力や地元メディアの関係者と再び北に向かった。
窓の外を見ると、道沿いには背丈ほどの雑草が生い茂っている。民家に人の気配はない。家を囲うレンガは崩れ、畑には黒いフレコンバックが並んでいる。
原発事故で全町避難した楢葉町。ただ、そこから見えるのは、悲しい光景だけではなかった。
町役場前のプレハブ仮設店舗「ここなら商店街」から、蛍光灯の光が漏れている。
「武ちゃん食堂、もう仕込みしてるんだ。今日も食べに行こう」
暗闇に浮かぶ一つの灯。確かに感じられた人の温もりに、私はバスの中で胸を熱くした。
仮設の店舗で奮闘した仲良し夫婦
それから8年。
2023年7月15日、私は楢葉町のJR常磐線竜田(たつた)駅に降り立った。
同駅は原発事故後、立ち入りが制限されたが、14年6月に営業が再開。
待合室に座布団が敷かれているようなこぢんまりとした駅だったが、20年12月に新駅舎となり、街を見渡すかのようなシンボルに変わっている。
駅前の道や駐車場は綺麗に舗装され、車の往来も多少ある。
「竜田も変わったなあ」
懐かしさを覚えながら周囲を見て回った後、駅のすぐそばにある店へと進んだ。
入り口には、赤い文字で「武ちゃん」と書かれたのれんがかけられている。
扉を横にスライドさせ、「お久しぶりです」と声をかけると、お馴染みの赤いバンダナを頭に巻いた佐藤美由紀さんが笑顔で出迎えてくれた。
「いらっしゃい。こんなところまでわざわざ来てくれてありがとね」
厨房では、夫の佐藤茂樹さんが忙しそうに鍋を振っている。
「ちょうど5年ぶりです。注文はもちろんニラレバでお願いします」
「はいよ(笑)お父さん、ニラレバーーー」
私は2014〜16年の2年間、全国紙のいわき支局員として、東日本大震災の津波と原発事故で大きな被害を受けた双葉郡地域を担当した。
そのなかでも、楢葉町はほぼ毎日通った。
町は原発事故後、避難指示解除準備区域に指定されたが、15年9月5日に全町避難した自治体で初めて避難指示が解除された。
この前後を記録する記者として、避難指示解除の瞬間に立ち会う記者として、私は2年間、町内を歩いて取材を重ねた。
佐藤夫妻と出会ったのもその頃だ。
14年7月、町役場前にプレハブ仮設の「ここなら商店街」がオープンした。ここに、夫婦が運営する武ちゃん食堂が入っていた。
佐藤夫妻は原発事故後、いわき市に避難したが、町の臨時職員として働きながら武ちゃん食堂の再開を模索し続けていた。
「武ちゃん食堂の再開は『楢葉で』と決めていたから。避難先で再開するつもりはなかったよ」
当時、美由紀さんがこう話していたのを覚えている。
ここなら商店街での営業は日曜日を除く週6日。私はほぼ毎日といったペースで通い、「温かいご飯」を食べさせてもらった。
思い出のニラレバ。頑張れたのは「MISIA」のおかげ?
「はい、ニラレバお待たせ〜」
すぐに看板メニューの「ニラレバー炒め定食」が出てきた。
おぼんの上には、ご飯、お新香、味噌汁、ニラレバー、とろろがのっている。
ニラレバーの具材は、文字通りニラとレバーのみ。野菜がたくさん入っている一般的な「レバニラ」とは違う。
特徴的なのはタレの匂いだ。ニンニクの香ばしい香りに食欲をそそられる。
「ちょうど5年ぶりの対面。いただきます」
タレがたっぷり染み込んだニラレバーをはしでつまみ、温かいご飯に一度着地させる。そして、ご飯と一緒に口へと運んだ。
少し濃いめの味付けで、口の中いっぱいにタレの匂いが広がる。レバーの臭みはなく、ニラも絶妙な火加減でシャキシャキ感が残っている。
「一生これだけを食べていたい…」。こうなると、もう止まらない。
ニラレバーとご飯をかきこむ。結局、ものの5分でたいらげてしまった。
最後に味噌汁を飲み干し、フーッとお腹をさすっていると、美由紀さんが「うちの娘3人はこのタレとご飯だけでバクバク食べるよ」と笑った。
「あの時代を思い出しました。毎日これ食べてましたね。じゃあ、次にカツ丼もお願いします」
「え?まだ食べるの…?お父さんカツ丼ーーー」
このニラレバー炒め定食は、多くの人たちの胃袋を満たしてきた。
当時、楢葉町より北には人が立ち入れないエリアが広がっており、福島第一原発までの間に飲食店はなかった。
そのため、店内は常に人であふれ、福島第一原発の作業員、除染作業員、町役場の職員、一時帰宅した町民らでごった返した。
カツ丼を待つ間、私は美由紀さんに尋ねてみた。
「あの頃、ものすごいお客さんの数でしたよね。何時から仕込みをしてたんですか?」
「店での仕込み開始は午前3時半かな。だから起床は午前2時。いわきから楢葉に行くまでの国道6号が渋滞するから早めに起きてた。営業後は次の日の仕込み。いわきに戻ったら夜の8時、9時くらいだから」
「え、それから夜ご飯やお風呂ですよね。じゃあ4、5時間しか寝られないじゃないですか」
「家でお父さん(茂樹さん)に温かい夜ご飯を作りたかったんだけど、でも疲れてさあ…申し訳ないけど、夜はコンビニで惣菜を買ってたんだよね」
「寝不足で大変だったんじゃないですか。2人とも辛い表情を見せないから…」
「店に行く途中、車で寝ないようにMISIAの曲をかけてたんだよね。お父さんはMISIAの大ファン。次女の結婚式の時、サプライズでゴスペルの人たちを呼んで『幸せをフォーエバー』を歌ってもらったこともあるよ。頑張れたのはMISIAのおかげかもね(笑)」
避難をきっかけに店舗兼住宅を取り壊すことになった
職人肌の茂樹さん、底抜けに明るい美由紀さん。夫妻は二人三脚であらゆる困難を乗り越えてきた。
「仮設商店街でやった後、武ちゃん食堂を元の場所で本格再開することを目指していた。だから乗り越えられたんだと思う」
武ちゃん食堂は、原発事故が起きる約40年前、JR竜田駅前に茂樹さんの父・武夫さんがオープンした。
自宅を兼ねた店舗で、茂樹さんが後を継いで営業してきた。
避難から仮設店舗で仮再開するまでの3年間、町の臨時職員として働くなど様々あったが、最終的には「竜田駅前の元の場所で武ちゃん食堂を本格再開させる」というのが夫婦の目標だった。
しかし、この願いが叶うことはなかった。
原発事故による避難をきっかけに、元の店舗があった土地の所有者と連絡が取れなくなったのだ。
借地の契約が満了し、建物は解体せざるを得なくなった。これは、家と武ちゃん食堂の両方を取り壊すということを意味する。
2人は当時の心境を、このように話してくれた。
「解体する現場は悲しくて見に行けなかったよ。解体する前に荷物を取りに行った時、娘の赤いランドセルが階段に置いてあって、3人の娘もここで育ったんだなって」
「住居兼店舗だったから、お客さんが酔っ払って家の居間で寝てたこともあった。アットホームな店だよね。でも、もうここに帰ってくることはないと思うとね、寂しさはもちろんあるよな」
「はい、カツ丼。お待たせ。本当に食べられっかい?」
美由紀さんの明るい声で我に帰った。目の前にほかほかのカツ丼が置かれた。
カツの上には、正方形のノリがちょこんとのっている。これがなんとも可愛らしい。
早速、左手で丼を支え、カツにかぶりついた。甘じょっぱい煮汁と卵もうまく絡み合っている。
「なんというか、心が温まる味なんだよな」
ガツっとしたカツ丼というよりは、昔おばあちゃんが作ってくれた家庭料理というイメージに近いかもしれない。
ボリューミなーカツを心して食べるのではなく、ちょうどいい量を楽な気持ちで食べることができる。
こちらも10分ほどで食べ切ってしまった。
「そういえば、最後に来た時もカツ丼を食べたんだった」
私は東京に転勤する直前、武ちゃん食堂を訪れた。目的は、このカツ丼だった。
その理由は、武ちゃん食堂が地元で本格再開する経緯と重なってくる。
「もうここから動かない」地元で本格再開
住居兼店舗の解体という悲しい現実に直面した後、佐藤夫妻に転機が訪れた。
楢葉町が「飲食店」を条件に、JR竜田駅前の町有地を売り出したのだ。
もともと武ちゃん食堂があった場所に近かったため、2人には魅力的な話だった。
「地元の竜田駅前で店をやれるかもしれない」
しかし、避難指示が解除されても町民の帰還は鈍かった。復興・復旧作業の車が行き交う大通りから離れるため、作業員の来店も見込めない。
「どれだけ人が来てくれるかわからない。店を営業し続けることができるのか、もっと言えば、生活していくことができるのか…」
こんな不安が頭をよぎったが、それでも夫婦は思い切って手を挙げた。
「これまで武ちゃん食堂は町の人に支えられてきた。その人たちに恩返したかったんだよ。『武ちゃんも帰還したから楢葉に戻っぺ』という人がいたら嬉しいし、できるだけ竜田駅前や楢葉の復興に協力したかった」
応募から1か月後、町の土地を取得できることになり、県の補助金を活用して建物の建築に着手。
2018年8月、ついに武ちゃん食堂が竜田駅前で本格再開した。
そして、この本格再開を受け、茂樹さんはここなら商店街時代には出していなかったメニューをいくつか復活させた。
その一つが、カツ丼だ。仕込みの時間が取れるようになったためで、原発事故前から人気メニューだった。
私はこの一連の流れを取材し、福島支局時代最後の記事として掲載した。当時の紙面を見てみると、次のような言葉が並んでいた。
「帰ってきた、ふるさとの味」
「『やっと再開してくれた』『駅前が活気づく』。そんな声が飛び交った」
「美由紀さんは『人通りが少ないので心配はあるが、もうここから動かない。1人でも来てくれたら嬉しい』と話した」
もうここから動かないーー。原発事故の発生から7年半、避難指示解除から3年、2人はようやく地元に腰を据えることができたのだ。
本格再開から5年「昔のお父さんに戻った」
地元での本格再開から5年。今はどんな状況なのだろうか。
閉店後、客席に座った茂樹さんが教えてくれた。
「ここなら商店街の時は最低でも80人は来ていたけど、今は80人も来たら奇跡だね。想像はしてたけど、そううまくはいかない。除染や解体の作業員も減ってきて、この辺りに帰還した人もそんなにはいないからね」
楢葉町によると、今年7月末現在の町内居住率は66%。
これは、当月末の住民基本台帳人口に対する町内居住者数の割合のため、純粋な「町民帰還率」ではないが、7割に達していない。
しかし、暗い話だけではない。嬉しい声もあるという。
「『武ちゃん食堂じゃないとダメなんだ』と言ってくれる人とか、避難先のいわき市から通ってくれる町民もいるんだよ」
美由紀さんも加わった。
「ここなら商店街の時、お父さん痩せてたでしょ?でも今はちょっと太ってきて、やっと昔のお父さんになったみたい。ゆっくり過ごせる時間が増えたからね。よかったあ、ほんと」
楢葉に戻り、楢葉で店を再開し、楢葉で生計を立てる。2人にとっては、この当たり前の生活がこの上ない幸せなのだろう。
私は勝手に安心し、また来ることを約束して腰を上げた。
「あ、今日電車で来たでしょ?お父さん、電車が通るたびに『そろそろ来るんじゃないか?』ってソワソワしてさ。途中、注文も忘れてたんだよ。ありえないよね(笑)」
大笑いする美由紀さんを横目に、茂樹さんは恥ずかしそうに下をうつむいていた。
帰りの電車で、私は当時のことを思い返していた。
避難指示が解除される前日の2015年9月4日夕、楢葉町の陸上競技場に3000個のキャンドルが並べられた。
キャンドルには「早く楢葉に帰りたい」「みんななかよし」「笑顔あふれる 希望あふれる 未来を」といったメッセージが書かれていた。
そして、辺りが暗くなり、火が灯された3000個のキャンドルによってある文字が浮かび上がった。
「こころ つなぐ ならは」
避難指示が解除された後、町は「復興の試金石」となるべく奮闘してきた。
どれくらいの町民が帰還できたのだろう。どれくらいの町民が帰還を諦めたのだろう。
ただ、最近になって「楢葉に帰ってきたよ」と連絡をくれた町民もいた。
ゆっくりでいい。これからもこの町を見続けて、応援したい。
楢葉町は9月5日、避難指示解除から丸8年を迎えた。
【シリーズ「相本啓太の福島“メシ”探訪」を不定期で配信していきます】
東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から12年。
福島県の復興は着実に進んでいるが、「危険」「怖い」と科学的根拠を示さずにあおるような情報もいまだにありふれている。
ネットだけでなく、そうした発言をする政治家もいる。
2013〜18年の5年間、福島で暮らしていた私は、そのたびに「普通に生活をしているだけなのに」と悲しむ人たちを見てきた。
福島には、日本中、どこでもあふれているような光景が広がっている。
福島で誇りをもって生産された食材を食べ、福島で働き、福島で生きることを応援したい。福島には、たくさんの魅力がある。
シリーズ「相本啓太の福島“メシ”探訪」では、「うまいもの」と「人」を通して、福島の日常や魅力を伝えていく。
情報提供は、相本の連絡先(keita.aimoto@huffpost.jp)まで。