久しぶりに降り立った福島は、やはり懐かしい匂いがした。
JR福島駅を東口から出ると、目の前にオルガンを弾きながらにっこりと微笑む古関裕而のモニュメントがある。
高校野球でお馴染みの「栄冠は君に輝く」。1964年の東京五輪開会式の入場行進曲「オリンピック・マーチ」。数々の名曲をつくり、NHKの朝ドラ「エール」(2020年放送)のモデルとなった作曲家だ。
「お久しぶりです」。そんな声をかけながら通り過ぎ、信号を渡ってメイン通りに進む。馴染みだったデパートで解体作業が行われている。どうやら再開発が行われているらしい。
私は社会人となって最初の5年間を、福島で過ごした。駆け出し時代を支えてくれた福島のシンボルの姿に少し寂しさを覚えながらも、十字路交差点を左折して「パセオ通り」を北上した。
時間は午後5時前。門に掲げられた赤提灯が見えてきた。「開いてるかな」とのぞくと、背中から福島訛りのよく通った声が聞こえてきた。
「おう、来たな。長州め」
福島市の中心部・置賜町にある居酒屋「あねさの小法師」。ふくしま屋台村と呼ばれる横丁の一角に店を構える。
先ほどの声は、店主の岩橋香代子さんだ。生まれも育ちも生粋の「会津人」で、かくいう私は山口県出身のため、会えば必ず冒頭のような“お決まり”のやりとりをするのである。
「あねさの小法師」という店名は、会津地方の縁起物「起き上がり小法師」からつけられた。
「おかあちゃん、長くご無沙汰してました。ごめんね」「ほんとだ。誰だおめえ」
5年ぶりに会った割烹着姿の岩橋さんは、相変わらず声にパワーがあり、力がみなぎっていた。
2013年7月、私は全国紙の記者として福島支局に赴任した。
社会人になって3か月。上司や先輩に叱られながら、目の前の仕事をこなすのに必死だった。
自転車で警察署を回り、現場から現場に転戦する日々。疲れ果て、「酒で1日を忘れたい」と、夜な夜な1人で訪れていたのが屋台村だった。
当時、「五里霧中」という居酒屋があった。そして、この店でよく顔を合わせていたのが、常連客として来ていた岩橋さんだった。
岩橋さんも当時、仕事で会津から福島に引っ越してきていた。常連客から「おかあちゃん」と親しまれていたことから、私も自然にそう呼び始めた。
そんなある日、五里霧中の店主が独立することになり、店の後継者として白羽の矢が立ったのが岩橋さんだった。
飲食店の経験はなかったが、「将来は会津の食材を使った店を開きたい」と思っていたという。
なぜか。
岩橋さんはあまり自分のことを語らないが、5年ぶりに来店した際に聞いてみた。すると、言葉少なに話し始めた。
「原発事故で会津に浜通りの人たちがいっぱい避難してきたべ。私はボランティアしてたんだけど、『こづゆ』を避難者の人たちに振る舞ったらさ、みんな涙を流して『ありがとう』って食べてくれてさ」
会津の郷土料理「こづゆ」は、ホタテの干し貝柱を一晩かけて戻した汁で里芋、ニンジン、糸こんにゃく、キクラゲなどを煮て、醤油と日本酒、塩で味を整える。
縁起を担ぎ、具材は必ず「奇数」で作る。「2つに割れないように」という意味が込められているからだ。
福島は一つ。そんな会津の心を感じ、命からがら避難してきた人たちは涙を流したのだろうか。
思いにふけっていると、大きな皿が目の前に置かれた。
「会津馬刺し」だ。会津若松市の北西部にある会津坂下町が発祥の地とされる。
見事な赤み、弾力のある肉質…。この店で初めて会津馬刺しを食べて以来、私は虜になっている。
5年ぶりに味わった。不思議なほど臭みがなく、ほのかに甘くて味わい深い。そして、脂身はさっぱりとしている。
「やっぱりここの馬刺しは違うな」
思わずつぶやくと、岩橋さんは表情を緩めながら「当たり前だべ」と言った。
岩橋さんは早朝、自ら車を運転し、馴染みの仕入れ先に向かう。自らが「おいしい」と思った仕入れ先だけから購入するため、片道1時間以上かかる道を週に何度も通っている。
馬刺しに箸を伸ばしながら、おすすめの日本酒も聞いた。
福島県の日本酒は、実力派がそろっている。出来栄えを競う全国新酒鑑評会では、金賞受賞数が9回連続で日本一となった。
いつもは会津の酒を好んで飲んでいるが、この日に勧められたのは「一歩己(いぶき)」だった。
酒造会社は、県南部の古殿町にある「豊國酒造」。江戸時代に創業し、200年にわたって酒造りを行っているという。
並々に注いでもらった一歩己を、少しだけ流し込んだ。
爽やかな味が口にすーっと広がる。ほのかに香り、上品な華やかさがある。食事中に飲むお酒としてもいい。
一歩己は2011年に出された酒で、「焦らず、急がず、そして弛まず、一歩ずつ」という意味が込められている。
岩橋さん自身は日本酒を飲めない。しかし、馴染み客に飲んだ感想を聞いてはラインナップを整えている。
顔を出し続けたことで仲良くなった販売元もおり、県外では飲めないレアな酒も時折出してくれる。
「福島の日本酒はどこもおいしいんだよ。でも、県外から復興のために来てくれる人も多いから、できるだけ福島だからこそ飲める酒をそろえたいのさ」
馬刺し、日本酒、そして温かい気持ちになる店内。
「そういえば東京に戻る前の最後の日、最後に頼んだのは“円盤餃子”だったかな」
ふいにそんなことを思い、岩橋さんに声をかけようと思ったところ、すでに焼いてくれていた。私が必ず頼むメニューだからだろう。
福島の名物「円盤餃子」は、戦後に満州から引き上げてきた人々が、試行錯誤を繰り返して作り上げた「ふくしま餃子」が原型とされる。
フライパンに餃子を敷き詰め、焼けたらそのまま皿にひっくり返して出すため、円盤型になっている。
福島市内には、円盤餃子を提供する店がたくさんあり、夕方でもサラリーマンが行列をつくる老舗店もある。
それにしても、香ばしい匂いが漂ってくる。食欲をそそられ、出てくる前から小皿に醤油を入れて待機していると、ついにお目見えした。
こんがりときつね色に焼けた餃子が、きれいに並べられている。
真ん中にある餃子を一つ取り、かぶりついた。パリッと音がする。ジュワッと肉汁が出る。すぐに二つ目の餃子に手を出したくなる。
「幸せだ…」
円盤餃子を食べ進めていくうちに、私は最後に店を訪れた時のことを思い出していた。
2018年9月、私は約5年間の福島生活を終え、東京に転勤した。
最後の日、私は「あねさの小法師」を訪れたが、岩橋さんは「息子が去っていくようで」と、涙を浮かべながら送り出してくれた。
もらい泣きしそうになり、「またすぐ来るから」と言って去った。
しかし、本社で事件・事故の担当になったことから、発生に備えて東京都外に出ることが難しくなり、なかなか訪れることができなかった。
そのことがずっと胸の奥につっかえており、「コロナ禍も大変だったと思う。でも、助けられなくてごめんね」と言った。
岩橋さんは「さすけねえ」と答えた。「気にしなくていい」という意味の方言だ。
私だけでなく、転勤で来たキャリア官僚や会社員など、皆が「おかあちゃん」の店から巣立っていく。
以前、岩橋さんはこんなことをつぶやいていた。
「 復興や転勤で福島に来てくれた人たちが、何年かしたらみんな去っていくんだよ。それが一番寂しいね。でも、見送る時、一回り大きくなった背中を見て、嬉しい気持ちにもなる。まあ、なぜか体型も大きくなってっけど」
2023年6月17〜18日、岩橋さんは東京を訪れた。
日本体育大学出身で、福島県スポーツ少年団の役員も務めているため、研修会に参加していたという。
岩橋さんは、生涯スポーツ功労者の文部科学大臣賞を受賞したこともある。
最終日の18日、帰りの新幹線の時間まで会おうということになり、東京駅の近くにある沖縄料理屋を予約した。
丸の内北口から出て横断歩道を渡り、待ち合わせ場所に向かっていると、「おーい、相本。なに通りすぎていってんだ」と、大きな声が聞こえた。
無事に合流し、早速キンキンに冷えたオリオンビールで乾杯。
近況報告や世間話をした後、「屋台村も他の店はずいぶん変わりましたね」と言うと、思いがけない言葉が返ってきた。
「本当はね、あねさの小法師は『1年』で辞めるつもりだったのさ。会津に帰ろうと思って」
「え?そうなの?」と驚いていると、「でも、良いお客さんに恵まれてね。なんだかみんなが辞めさせてくれないんだよ」と嬉しそうな表情を見せた。
私のまぶたの裏にも、優しい常連客の顔がいくつも浮かんだ。
そして、岩橋さんは、3分の1ほど残っていたビールをグイッと飲み干し、こう言った。
「コロナの時は本当に辛くてやめようと思ってたんだ。でも、屋台村のみんなが『おかあちゃん、一緒に頑張ろう』って言ってくれて。お客さんも、仲間も、みんなのおかげで続けられています。ありがとう」
あねさの小法師は23年8月16日、オープンして10年となった。
これからも福島の「おかあちゃん」は屋台村の一角にあかりを灯し、白い割烹着に袖を通す。
(この記事は2023年6月28日に配信したものを再編集したものです)