森林文化協会の発行する森と人の文化誌『グリーン・パワー』(月刊)は、森林を軸としながら自然や環境、生活、文化などの話題を幅広くお届けしています。11月号の「NEWS」では、今年が没後100年に当たる奈良県・吉野の山林王・土倉庄三郎(どぐら・しょうざぶろう)の生き様を、7月号に続いて森林ジャーナリストの田中淳夫さんにたどってもらいました。
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今年没後100年を迎えた土倉庄三郎の事績を、本誌7月号で紹介した。林業で築いた資産の多くを社会事業に投じた吉野の山林王である。庄三郎の行動を初めて知ると、父祖が蓄えた資産を気前よく寄付したかのように理解しがちだ。しかし、その事業展開を追うと、むしろ林業の改革と振興を推し進めた実業家の側面が強い。そこから林業とは何かという現代にも通じる命題が浮かび上がってくる。
庄三郎は、1840(天保11)年に現在の奈良県川上村大滝に土倉家の長男として生まれた。若い頃から山仕事に従事して鍛えられたという。満15歳で家督を継ぎ、大滝郷の材木方総代に就く。
明治を迎えると、紀州藩の材木税の撤廃運動に関わる一方で、新政府より水陸海路御用掛に任命された。交通路の整備を担う職である。庄三郎がまず取り組んだのは、吉野川の開削だった。上流から木材を筏(いかだ)にして流せるようにするためだ。
自腹を切って道路整備
さらに五條市から吉野の川上村などを抜けて上北山村に達する東熊野街道、現在の国道169号線に相当する道の整備を進めた。ちなみに当時の道路建設に、国は金を出さなかった。地元住民の出資で造られたのである。庄三郎も沿線の山主に出資を働きかけたが、なかなか思うように金は集まらず、かなり自腹を切ったらしい。東熊野街道を通す際は、土倉家の財産の3分の1を費やしたと語られる。
その後川上村から三重県方面まで抜ける大杉谷開発にも着手し、大台ヶ原へも道を延ばした。驚くべきは、これらの道路整備は土倉家独力でなされたことだ。堅固な造りのため今も通行可能なところも多く、土倉道と総称されている。
一方、当時伐採した木材を人里まで運ぶには、修羅(しゅら)と呼ぶ木材の滑り台で斜面を落とすほか、人力で担ぐか曳いていた。そこに庄三郎が導入したのが木馬(きんま)である。
木馬とは橇(そり)に丸太を積んで人力で引っ張るものだ。なだらかな傾斜を保つ木馬道に横木を並べて滑らせるので、一人で1t近く運べる。これが木材搬出量を一気に何倍にも膨らませた。木馬がいつどこで発明されたものかはっきりしないが、庄三郎は高野山で実験してから吉野に導入したとされる。
折しも明治になると建設ブームが押し寄せ、木材需要が跳ね上がった。木材価格も高騰した。河川改修と道路建設、そして木馬の導入は、これまで運び出せなかった奥山の木材を商品に変えたのである。すると山林の価値も上がる。つまり土倉家の資産も増えたのだった。
道路が開通すれば、人の行き来も物資の流通も盛んになる。だから沿線住民の生活を大きく改善した。同時に建設ブームを支える役割を果たした。つまり庄三郎の事業は、家業の発展と社会貢献を兼ねていたのだ。
博覧会に巨大筏を展示
1890(明治23)年、東京の上野で第3回内国勧業博覧会が開催された。当時欧米では万国博覧会がよく開催されており、産業振興につなげていた。日本もそれを真似て国内各地の産物を紹介する博覧会を開いていたのである。
ここに庄三郎は吉野林業の出展を企てる。通常、この手の展示物は丸太や木工品の見本、図絵などを並べて事足れりとするのだが、庄三郎は吉野川を流す筏の実物2艘を出すと言い出した。長さ60mもの代物である。
当時の記録によると、博覧会事務局や奈良県庁と大滝郷は、そんな大きなものを展示できないとか、運搬費をどうするかなどと揉めている。しかし庄三郎は「丸太を数本陳列しても見学者の心に残らない。筏は展示館内ではなく上野の森の樹間に設置すれば、あたかも山中の谷川を下る筏のようになるだろう」と主張した。
この展示方法は、現代から見ても迫力満点で斬新だ。来客に強烈なインパクトを与えたのではないか。
また同時に「出品解説書」を発行した。吉野がいかに優良な木材を育てているか詳しく説明しつつ、全国に広がるはげ山に木を植え、河川による輸送路を確立することを訴えた。庄三郎は、内国博を通じて吉野林業の宣伝と植林の必要性、そして林業振興の啓蒙に努めている。
その後、吉野林業の解説書が次々と発行され始める。庄三郎も集大成と言える『吉野林業全書』の発行に関わった。「吉野に学べ」は日本の林政の大きな潮流となったのである。
また庄三郎は全国を歩いて、植林の重要性を講演した。洪水や山崩れを防ぐためであり、地方自治体の基本財産を築くためでもある。財界人にも森林経営を勧めた。現在、日本第4位の山主である三井物産が山林を購入するきっかけも、庄三郎の働きかけによるとされる。
奈良公園内の荒れた部分に吉野式のスギ・ヒノキ林造りも行った。「数百回の講演よりも、美しい森をつくることで植林の大切さを伝えられるうえ、公園維持費も稼げる」ことを示すためだった。いわば防災や景観づくりと林業は両立することを唱えたのだ。
唱えた林業の原点
庄三郎が手がけた事業を振り返ると、彼の林業および森林に対する哲学が浮かび上がってくるように思う。
林業に大切なのは、樹木の育成に加えて、木材の搬出路と流通路を整備して安定供給体制を築くこと。宣伝広報活動は欠かせないこと。実物を見てもらうこと。一方で道づくりは住民にとっても生活向上に資するうえ、荒れた山に植林して美林をつくれば防災にも観光にも結び付く。経済と環境を両立させる手段と捉えていたのだ。
現代の林業にも、同じことが言えそうだ。今も搬出は木材安定供給の要である。そして国民の林業理解が進むような広報活動が行われているか、木材商品の宣伝に努めているか、防災や景観につながる施業をやっているか......と考えると極めて疑わしい。
今一度、庄三郎の唱えた林業の原点を見つめ直す時ではないだろうか。