「私」と「今」の再考,生と人間らしさの生成Non"first-person"&"now"remake humanness

循環するかのように見えるこれらも遊戯と言えるだろうか。言っているのは誰/何だろうか?
wismakuwera / photo by sotaro kikuchi
wismakuwera / photo by sotaro kikuchi
wismakuwera / photo by sotaro kikuchi

「私」と「今」の再考が、生と「人間らしさ」のもう一つの世界を生成する。

X. 「私」という人称を、拡張させ、拡散させること。

Y. 「今」という時制を、他の時制にすり替えずに、経験し続けること。

この二つの軸が交差するところに立ち上がる事態とは、一体何だろうか?

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中動態の世界」の世界観において、世界を織り成す言語は、能動と受動の二項に依らない。能動と中動(=能動でも受動でもない)の二つのエンジンを駆動し、世界を編み出し/世界は編み出される。する/される、の組み合わせではみてとれない景色があるのだ。

存在と時間 ――哲学探究1」で展開される世界観では、端的に存在してしまう(と思われている)絶対的存在=「私」と「今」に共通する、これ以上問えない思考のゼロポイントを、遡行し再考し続ける手つき=累進構造がエンジンのキーとなる。

未来形も過去形も存在しない「ピダハン」の言語に残された時制は現在形であり、彼らの用いる主な一人称は「ピダハン」である。

どういうことだろうか。

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「父のアルバム」に写っているのは、野口里佳の母と父と野口里佳、そして薔薇。撮影したのは野口の父で、それが世に出たのは父が亡くなった後、世に出したのは娘の野口里佳である。それは写真家である娘の「作品」ということになっていて、ということは野口里佳の作品である。

ところで作品の実際は、出会い直す作業であるほかない—今、亡き父とともに在りし日の父の写真を見つめている。見つめるなかで、父のまなざしを追想する。想起している私は、父の実の娘を含んであなたである。写真の表面で照り返される視線の私は、没入と拒絶を繰り返し繰り返されながら事々が癒着したように連関し一つではない感興を引き連れ押し寄せるのを見つめ、見つめられている。飲み込んだ息を吐き出し、見開いた瞼を閉じてみる。そして現れる思考の扉に手をかけるなら、過去ー現在ー未来の順に整列させようとする記憶想起の力学がその自然な因果の結節点としての「私」に結びつけようとする身体的思考の拘束衣は、私の体重と同じだけの身体的違和感をもたらしていることに気がつく。自らの尾を食むウロボロスよろしく、いっけん無期限に分かたれた両者ー現在と現在以外、私とあなたーの切断線は癒着して、円環している。循環の動的均衡が運動体の輪郭を瞬間ごとに形成する。尾に、取り返しのつかないとされている何か、たとえば死という名を貸し与えてみよう。死を境として両者が分かたれる前、同じ時に存在した父と私の場、名付けられた一つのはじまりをあなたに想起させる眼前の生成。まなざしの父はそうして、生者でも死者でもない場としてここに今在りはじめ、はじめる、はじめ続けている。

(※もし「父のアルバム」のイメージを垣間みたい方があればこちらまで

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wismakuwera photo by SOTARO KIKUCHI
wismakuwera photo by SOTARO KIKUCHI
SOTARO KIKUCHI
photo by sotaro kikuchi
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SOTARO KIKUCHI

「wismakuwera」は、インドネシアはジョグジャカルタの建築家/詩人/牧師のMangunwijyaによる建築物、と言えるだろうか。入り口はあった気がするが、出口を探すのは容易でなく、気づけば外に出ているようでいて、そこはもう異なるフロアらしい。地続きのフロアに全く同じようなトイレが2つ、様式の異なる窓が3つ。時代ごとに外観と内観を、つまり存在の目的—活動家の隠れ家、教育施設、宗教者の集まりが催され—を変えている。場に立ち上がろうとする目的に反応した即興的な増築は、廃材のブリコラージュ/転用によって繰り返されてきた。こうした総体に名詞をあてるのに、「建築物」一つで足りるかどうか。

photo by sotaro kikuchi
photo by sotaro kikuchi
photo by sotaro kikuchi, VS?C

幾重にも刻印された時代と人々が、いずれにせよ上書きされることになるのは、気づけば屋根や壁が増えており昨晩も誰かが泊まっていったようで、ということはそれは「新たな」誰かであり、なるほど、ということは自動的に「それ以前の」出来事が存在した、かのように「この「私」の思考」が現在を過去へと更新する=スクラップされようとする現在をキャンセルするように、増築=消長を持続するものとして、在る、と言えるだろうか。私が一人称だったことはあっただろうか。主語はどこへいったのか。

photo by sotaro Kikuchi
photo by sotaro Kikuchi
photo by sotaro Kikuchi VS?C

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言わずもがな、自分という物語を物語ることは、「私」と「今」、人称と時制の関数に大きく依っている。

実人生を虚構をツナギとして編集すること、特に生の最後に試みられるそれには、ピラミッドから「鳳鳴」、「ぼくの命を救ってくれなかった友へ」から数多の自分史の執筆まで、作為に託される希いとしての芸術が強く機能している。まるで過ぎた生の全てを賭け金に、死後に生を取り返す遊戯のようだ。

「人間らしさ」と呼ばれることの多いこの遊戯的願望の術を、私と今の再考によって検討することは、また異なった「人間らしさ」を提示することになるだろう。術のために生成されたこの手札に、ひとまずはオルタナティブの名を与えよう。私が名を与える。名を与えたのが私であった。

循環するかのように見えるこれらも遊戯と言えるだろうか。言っているのは誰/何だろうか?

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Liberation of "first-person" and "now", editing of life and humanness.

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