「太った子ども」だった私はイジメられた。45キロ痩せた今、後悔している理由

辛かった「太った子ども」時代。今は減量し、太っていた頃のように扱われなくなったため、私の人生は楽になった。でも...
体重を計る女性(イメージ画像)
体重を計る女性(イメージ画像)
Karl Tapales via Getty Images

子どもの頃の写真を見返して、「あの頃は痩せてたのに...」と嘆く人は多いだろう。でも、私の場合は逆だ。

40歳になった今、私の体重は中学生の頃より軽い。7歳ごろから大人になってからもしばらく太っていて、特に「肥満な子ども」時代は、自分について多くを学んだ。

そして、その経験は他人についても学ばせてくれた。特に、恐怖心や偏見が、どれだけ人を非情で酷い行動や言葉に駆り立てるかを知った。

「太った子」だった私

7歳のときに体重が増え始めると、私に対する両親の扱いが変わった。私は両親の心配を内面化していたが、本当はなんとなく分かっていた。彼らが本当に心配していたのは私の健康ではなく、「太った子ども」を持つ親が、世間からどう見られるかだということを。

当時、太った子どもは常に嘲笑され、拒絶されていた。あからさまなイジメをする子もいれば、おとなしいけど太った私と関わる気が明らかにない子もいた。

太っている少女がベンチに座っている様子(イメージ画像)
太っている少女がベンチに座っている様子(イメージ画像)
Roos Koole via Getty Images

健康上のどんな問題よりも「太った子」として扱われたことが、特に子どもの頃の私には悪影響を及ぼした。「ボディ・ポジティブ」の動きが顕著に見られるようになるずっと前の1990年代には低脂肪食が当たり前で、私の身体は「道徳的な失敗」と見られていた。

道徳的な失敗といえば、私が小学3年生の時、母が私を教会主催の減量グループに入れたことがある。そこで私は、両親や友達だけでなく、神様までもが私の身体を嫌っていると学んだ。

「痩せる」と決めた、大学時代

高校生の時、私はベッドに横たわり、お腹をつかみながらこのままこれを切除できればいいのに、と思った。他の女の子を違って見えるのが嫌だった。大好きな服に自分のサイズがないのも嫌だったし、学校のフォーマルなダンスパーティーに来ていくドレスもどれもサイズが合わず、オーダーメイドしなければならなかったのも嫌だった。そして、ダンスに誘われたのもただの同情からだったのも嫌だった。体重のせいで仲間外れな気がしたり、「人より劣っている」と感じるのが嫌だった。

大学1年生の夏には、大きな変化を遂げようと決めた。それまでも乱れた食生活をしていたが、「痩せる」と決意したことがそれを加速させた。私は1週間何も食べず、それを成し遂げた自分に興奮した。

夏休みが終わり秋学期が開始すると、みんなが私の身体の変化に気づき、それが励みとなり私は減量を続けた。

その年、私は31キロも痩せた。でもそのほとんどは、食べる代わりにマリファナを吸うなど、不健康な手段によるものだった。

大学卒業後は過食嘔吐という方法を知り、10年にわたる過食症と薬物乱用が始まった。

しかし、常に人を喜ばせることが好きな私は、痩せたことで「キレイ」と褒められると、何をしてでも彼らを喜ばせ続けたい、と思ってしまうのだ。

個人的な経験から、「肥満恐怖症」と「痩せの特権」両方が存在することを知っている。当時は否定したかもしれないが、そういった要因に大きな羞恥心が加わり、私をダイエットに向かわせたのだ。

イメージ画像
イメージ画像
sukanya sitthikongsak via Getty Images

自分の減量について思うこと

私はいくつかの理由から、選択的に子どもを持たないでいる。その理由の大きなひとつは、自分の子ども時代をあまりにも鮮明に覚えているからだ。

見過ごされていたうつ病や不安障害に大きな羞恥心が加わり、不健康な行動や自分への軽蔑を悪化させていた。私の減量を取り巻いていた状況を後悔しており、「もし太ったままだったら人生はどう違っただろう?」と「たられば」話をよく考える。結果的に、本来の自分を変えるまでに追い込んだイジメを受けた若かった頃の自分に、とても同情する。

今、私は体重や体型で自分を定義することはしない。それを学ぶのにこれまでの人生の大半を費やしたが、自分の価値を見た目に求めず、自分の外見を誇りに思うことができるようになった。頭で理解するのもひとつだが、それを心で理解し、内側から自分の価値を感じ始めたのは昨年からだ。

現在、私の体は自分にとって心地よく、今の食事や運動習慣で維持できる丁度良いラインを見つけたようだ。食べ物や体型について全く気にしなくなったと言えば嘘だが、自己批判する声はだいぶ弱まった。

過去の影はまだあるが、私は今を生きている。

私にとって「自由」とは、素敵なディナーに出かけても、その後すぐトイレで吐き出したいという欲望に駆られないことだったり、オーバーしたカロリーを燃焼するためでなく、体を動かしたいからエクササイズのクラスに申し込むこと。

自己嫌悪ではなく自己愛から来ている私の今のバランスは、良い感じだ。

太っていた子ども時代の経験は、辛い中でも良い面を見出すことを教えてくれた。成績優秀な太った子が嘲笑されると、私のようになる。今や、私は止められない。子どもの頃経験した厳しい批判や拒絶のおかげで、私はレジリアンスを身につけ、今の子どもたちのために状況を改善しようと決意した。そして、不公平や粗末な扱いを目の当たりにしたら、臆することなく指摘する。

「そのままで十分価値がある」

今、ボディ・ポジティブという考え方が広まっていることが、とても嬉しい。私の頃にもあったらよかったのに、と思う。

状況は改善されてきていると望みを感じる一方、肥満恐怖症はまだ根強く残っている。

「美」は体重や体型とは関係なく、人格や他人への思いやりによって定義される世界に住みたいと思う。

今は減量し、太っていた頃のように扱われなくなったため、私の人生は楽になった。でも、見栄や周りに順応するために自分自身を変えたことを悔しく思っている。

そして何より、教会の減量グループに通っていた9歳の自分に戻り、「私に悪いところなんて何もない。そのままで十分価値がある。問題なのは自分ではなく、太った人に嫌悪感を抱かせる社会の方だ」と言いたい。

今後、年を重ねるごとに身体は変化していくだろう。でも、私はこれまでの経験から、すでに精神的・感情的に他の人に比べ優位にあると思う。恥ずかしいと思っていたストレッチマークや傷跡は、自分の身体がこれまで歩んできたことの記念碑だ。こうした過去の痕跡は、身体的・精神的な地獄を経験して成長し、人々の身体や人間としての本質的な価値についての考え方を変えようと決意した、私の軌跡を思い出させてくれる。

そしてそこにこそ、私は自分の価値を感じるのだ。

ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。

注目記事