3人家族の「主夫」が、妻に「離婚したい」と提案するまで。

なぜ、私はおだやかな結婚生活を突然「やめたい」と思ったのか。みなさんにお伝えします。
Tatsuro Negishi

 「離婚したい」

私はある日突然、そう提案しました。

人間関係に問題はありませんでした。おだやかな日々が続いていました。そういう「結婚生活」を「別のかたち」に変容させたいという意思を示したのです。

その提案に、妻であった女性は「そうしたいと思っていた」と言いました。

何かの巡り合わせだったのかもしれません。それならばということで、私たちは離婚をしたのです。

結果として、最愛の息子とは離れて暮らすことになりました。

でも、今でも毎週のように彼と会い、一緒に遊んでいます。離婚した女性との関係も、私は悪くなったと感じていません。むしろ結婚していたときよりも、気楽に会話が楽しめる関係になったのではないかと思っています。息子は今、彼女と彼女の新しいパートナーとともに生活をしています。

離婚をしたことに後悔はありません。離婚しなければたどり着けない境地があったからです。ではなぜ、私はおだやかな結婚生活を突然「やめたい」と思ったのか。それをこれからみなさんにお伝えします。

3人家族の「主夫」

Tatsuro Negishi

私は子どもが生まれてから約6年間、3人家族の生活における家事・育児の多くを担ってきました。妻とももちろん一緒に取り組んできたものですが、どちらかといえば「家のこと」は私の担当。フリーランスで稼ぎが乏しく、いつも家にいるからということもありましたが、仕事をがんばっている妻を応援したい気持ちもありました。

私は朝晩の食事をつくりました。仕事の合間に家事をこなしました。

妻の仕事が忙しかったので、ほとんどの夜は私と子どものふたりきりでした。まわりからはよく「専業主夫みたいだね」などと言われましたが、そのようなあり方に意識的だった時期は短く、私にとってはその生活がどんどん「普通」のことになっていきました。

しかし、「普通」とはいってもイージーであったかといえばそうではありませんでした。

 「自分ばかりが大変な思いをしている」と感じ、不機嫌になってしまうこともたくさんありました。そんな自分をどうにかしようとがんばっても、どうしても不機嫌になってしまう。日常生活のストレスから妻に当たってしまったり、息子についきびしく接してしまった日などは、ひどく自己嫌悪に陥ることもありました。

自分の人生ははたしてこれでよかったのだろうか。そもそもなんで自分は今、ここにいるんだろう。

絵本を何冊も読まないと寝てくれなかった息子をどうにか寝かしつけては、薄暗い寝室でひとり、物思いにふけっていた日々を思い出します。

「困難な結婚」との出会い

Tatsuro Negishi

あるとき、私は思想家の内田樹さんが書いた『困難な結婚』(アルテスパブリッシング)という本に出会いました。こんなことを言うのは何だか恥ずかしいのですが、当時の私はこの本を読んで「ああ、これは自分のためにある本だ」と思いました。

 それは、私が結婚生活のなかで感じてきたさまざまな困難を、この社会に生きるひとりの「大人」として「丸ごと引き受ける」という修行的な態度で乗り越えようとするものだったのです。

“結婚生活という最小の社会組織を通じて、僕たちは共同体の仕組みを学び、他者と共に生きる術を身につけるのです。愛したり、疎遠になったり、信頼したり、裏切られたり、育てたり、別れたり、病んだり、癒したり、介護したりされたり、看取ったり看取られたりして大人になってゆく”(『困難な結婚』本文より抜粋)

結婚はそもそもが困難である。だから人は成熟する。誰かと一緒にいられないのは、その人間が「子ども」だからである、という考え方がこの本には貫かれていました。   

私はずっと「大人」になりたいと思っていました。だから「それでいいんだよ」ということを、この本は言ってくれたような気がしたのです。

さらに私は、とある縁から内田さんを取材する機会もいただきました。記事をつくり、その言葉を反芻するなかで、私にとっての結婚生活はいい意味でだんだん気楽なものになっていきました。

 「不機嫌であることを人のせいにしない」「何かを変えたければ、まず自分が変わる」

 そのような考えも抱くようになり、夫婦の人間関係も朗らかに変容していったように思います。

 しかし、一方で私の心の中にはまだ、わだかまりが残っていました。それはセックスの問題です。私は結婚してから一度も妻とセックスをしていませんでした。生活を共にしていくなかで、そのような気持ちになれなくなってしまったというのが理由です。

 結婚生活は安定していました。でもなんだか、大切なピースが欠けているような気がしていました。本当はそのピースが見えているのに、あえて「ない」ことにしているような感覚も、どこかにありました。

「結婚」と自由な恋愛について 

その頃、私は友人の紹介で、一夫一妻のかたちにとらわれない自由な性愛関係を築く「ポリアモリー」という生き方を体現している女性に出会いました。

彼女は「ポリアモリー」にもさまざまなあり方があるとした上で、『性の進化論――女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』(著クリストファー・ライアン、カシルダ・ジェタ/作品社)という本を私に教えてくれました。 

この本は、著者の進化生物学、心理学、人類学などの知見をもとに、人類20万年史におけるセクシュアリティの進化をたどるもの。そこでは、私たちのセクシュアリティは「一夫一妻であるように進化してきた」という「通説」に対して、いやいや私たちはむしろボノボ(チンパンジー類に分類される霊長類)の乱婚的あり方に近いんだ、というユニークな論考が展開されていました。 

一般的な結婚生活では、婚外の性関係は不道徳であるとされます。しかし、婚外の性関係を承認し合うことが、その夫婦にとって問題がなく、かつそれが持続的で平和的な人間関係につながるものであるとするならどうでしょうか。私はそのようなあり方もあっていいのではないか、と思ったのです。

私にとって、妻は子育てをともに分かち合い、ともに歩んできたかけがえのない同志です。子どもの成長をこれからもともに見守っていく、大切な存在です。

だからこそ、もし「ない」としていることが実は「あり」、それを分かち合い、承認し合うことができるなら、私は「結婚」という枠の外で自由に恋愛を楽しんでもいいと考えたのです。

そのようなかたちがもし実現するのであれば、親兄弟や親戚ともさほど縁がない私たちにとって、そもそも「結婚」状態を継続していく理由もなくなります。 

結婚をしていることで、恋愛の自由が制限されてしまうことがあるとするなら、早々に離婚することが望ましいとも考えました。

自由へのジャンプ 

一方、私はそれについて妻と話し合うことを恐れてもいました。

性的な欲求は自己処理すればよいこと。家族の「安定」が崩れるリスクを侵してまで、それは提案すべきことなのだろうか、とも考えました。そして何より、私は子どもに「不安」を感じさせたくはありませんでした。

しかし私は結果的に、私の「愛」を信じ、離婚を切り出すことにしました。

「離婚したい」 

それは、直感でした。このまま自分が同じ状況にあり続けることだけは、おそらく「正しくない」という直感。

その直感にしたがって、私はジャンプしたのです。

 「安定」より「自由」を選んだとしても、私の「愛」は揺らぎません。だから、子どもに不安を感じさせることはない。

自分が“ご機嫌”に生きて、“ご機嫌”に家族を愛し続ければ、すべては大丈夫だと思うことにしたのです。 

そして妻は、私の提案を「そうしたいと思っていた」という一言で、「丸ごと」受け入れてくれたのです。

あらゆるものを分かち合う

 今となっては、直感的なジャンプは単なる「思いつき」ではなかったと思えています。なぜなら、そこにはたしかに私なりの積み上げがあったからです。それはきっと妻にもあったのでしょう。

『性の進化論』は、私に理想的な子育てのあり方を考える上でのヒントも与えてくれました。なかでも私が特に興味深いと感じたのは、先史時代の狩猟採集社会の共同体は乱婚状態で、ゆえに「子育てもみんなで分かち合い、平和的に暮らしていた」という説です。

“人類は、あらゆるものを分かち合っていた。食料も、住みかも、防衛も、子どもの世話も、そして性的快楽さえも。ただし私たちは人類が生まれつきマルクス主義のヒッピーだと言いたいわけではない。

また先史時代の人類コミュニティにおいては、ロマンティック・ラブなど存在しなかったし重要でもなかったと言いたいわけでもない。 私たちが示したいのは、現代文化が愛と性との間の結びつきを誤って伝えているということだ。

愛の有無は別として、先史時代の祖先にとっては、行きずりのセックスがスタンダードだった。”(『性の進化論――女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』本文より抜粋)

 もちろん人口の少なかった時代ですから、当然ながら現代とは状況が異なります。ですが、私はできることなら現代でも「みんなで子育てがしたい」と考えました。

現実的にできるかできないか、ではなくて、夫婦という枠組みを超えた人間関係を誰かと築くことになった場合においても、「子どもはみんなで育てる」という気持ちは大切にしていきたいと思ったのです。

あらゆるものを分かち合う。

 それが“ご機嫌な社会”の家族のあり方なのかもしれない、と思うのと同時に、私はもうひとつ大切なことにも気付きました。

あらゆるものを分かち合う。それはセックスにも言えるということ。

 つまり「愛とセックスは混同しない方がいい」ということです。

おそらく愛とセックスは非常に近いところにあるのでしょう。だけれども、決して混ざり合うことがない。にもかかわらず、私たちはついそれらを混ざり合ったものとしてとらえてしまう。だから、人は混乱する。困難を感じる。

私はあのとき、愛とセックスは切り離してもいい気がする、というおぼろげな感覚でしかとらえていなかったはずです。むしろ、当時の私を突き動かしたのは、この状態であり続けることだけは、自分にとって「正しくない」という直感です。

私はその直感を信じて、ジャンプしました。

 自分にとってはとてもとても大きなジャンプでした。

着地点からの景色

離婚を決めてから1年半という月日を経て、今ようやくはじめての着地点に立ったような感覚があります。

着地点からゆっくりとあたりを見回すと、みんながそれぞれの人生をそれぞれの歩みで、生きている姿が見えてきます。

息子ももうすぐ小学生です。会うといつも仲良しの友達の話や、おもしろかった遊びのこと、家のことなど、いろんなことを僕に話してくれます。

きっと、彼なりにいろんな環境の変化を受け入れて生きているのでしょう。それが、僕にはとても頼もしく感じられます。僕はそんな彼の健やかな成長を信じます。そして、これからも彼が安心して生きていけるように、僕自身がご機嫌に生きていきます。そのご機嫌な姿を見せ続けていきたいのです。

ここには書ききれないのですが、本当にたくさんのことがあり、自分なりにたくさん考えました。

そうやって、僕は考えることで、自分の人生を見出してきました。

でも、今は少し、考えるのをやめたいと思っています。やめようとすることから始まる人生もまた、あるような気がするからです。

ここは思ったよりも、悪くないところのようです。

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家族のかたち」という言葉を聞いて、あなたの頭に浮かぶのはどんな景色ですか?

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