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電子政府先進国・エストニアとは
バルト3国の一つにエストニア共和国という国がある。1991年に旧ソ連から再独立し、人口約130万人の小国ながら今やICT先進国として世界に知られ、電子政府などにおいて先進的な取り組みを行っている。
エストニアでは、法律により15歳以上の全国民がエストニア国民であること証明する国民IDカード(eIDカード)を持つことが義務付けられていている。このeIDカードには、日本のマイナンバーに相当する国民ID番号(a Personal identification code)が記録されていて、サービスを受ける際にこの番号を提示することができる。
エストニアでは、国民ID番号は「デジタルネーム」とも言われ、名前と同様、特に秘密にすべきものではない。このeIDカードを用いることにより、電子署名や電子認証を行うことができるため、インターネット上のサービスを安全に利用することができる。今では、官民合わせて3000ものサービスをネット上で利用することができる。
その中には患者中心の医療を目指した医療情報サービスや、世界的に先例のない取り組みである「e-レジデンシー」も含まれる。
エストニアのeIDカード
患者中心の医療情報サービスの実現
2008年より、エストニアでは電子医療情報サービスがスタートした。
エストニアの医療制度も、日本と同様に国民皆保険である。会社員は会社が保険料を払い、そうでない人は各自が支払うことになる。
個別の健康保険証はない。eIDカードを持っていればその人が健康保険に入っていることを確認でき、健康保険に入っていればエストニア国内のどの病院でも無料で診療を受けることができる。ただし、薬の一部は自己負担だ。
エストニアでは、欧州の多くの国と同様、医療システムは家庭医と専門医に分かれている。病気になるとまず家庭医にかかり、必要な場合には専門医の診療を受ける。
現在実際に稼働している医療情報サービスには4つのものがある。
「電子保健記録システム(EHR:Electronic Health Record)」は、全国の病院などの医療機関の既存のシステムと接続された保健情報システムである。EHRのデータベースは、重要な個人情報、医療記録、患者の来院および他の保健関連情報を網羅している。
医師がEHRを利用すれば、通院中の治療内容データが作成・登録・データベース化されるので、患者についての緊急を要する情報など、治療に必要な情報を医師がすぐに調べることができる。また、この情報システムは患者の病歴も登録しているので、医師はこのシステムにアクセスすることでより一層タイムリーで適切な医療サービスが提供できるようになる。
「電子画像管理システム」は、家庭医を含むエストニアのすべての病院などが、X線写真などの画像データバンクに参加できるシステムである。
統合された画像データベースは、前述の電子保健記録システムとも接続されているので、健康状態の変化を数年間にわたって監視し、複雑な症例に関しては外国の専門家からの意見を求めることもできる。さらに、画像が失われたために検査を繰り返す必要も、画像を様々な医師の所へわざわざ持参する必要もなくなる。
エストニアでは医療における最大の問題の1つに、患者の待ち行列が長く、専門医の空き予約を捜している患者は多数の医療機関に電話するか、直接来院しなくてはならないことがあげられていた。そこで、医療機関で患者の登録に使用されている既存の情報システムと連動して集中管理される「電子予約登録システム」が開発された。
電子予約登録をすれば、患者と家庭医は国内でもっとも早く予約が取れる医師を捜し、ポータルサイト上で適切な時間を予約することができる。また同様にWeb上で予約を変更したり取り消したりすることもできる。
「電子処方箋システム」は患者の処方箋情報を登録し、要求に基づいて薬剤師に送信するシステムである。患者はeIDカードを提示すれば薬剤師から薬を受け取ることができるので、印刷された処方箋を持ち歩く必要はない。システムが必要なデータを自動的にチェックするので、医師と薬剤師は処方箋の発行や確認に使われる多くの時間と紙を節減することができる。さらに、患者が薬を持ち帰ったかどうかを医師にフィードバックする仕組みも実現されている。
タリン旧市街
eレジデンシー
2014年12月、エストニア政府は非居住者のために「eレジデンシーカード」の発行を開始した。eレジデンシーカードは、オンライン上での電子認証が可能になるように、エストニア政府が所有者にID番号を提供するためのカードである。エストニアのeレジデンシーカードは、居住許可証あるいは身分証明証ではない。また、所有者の国籍や住んでいる場所とは関係なく、所有者の写真も掲示されない。
エストニア政府は、パスポートなどにより申請者の経歴を調べ、申請者本人であることや、過去の犯罪歴などの問題がないことが確認できた時点でeレジデンシーカードを発行する。eレジデンシーカードは権利でなく特典なので、エストニア政府には、特定の人物にeレジデンシーカードを発行しない権利があり、その意思決定の理由を説明する必要もない。
eレジデンシーカードを受け取った人(=eレジデント)は、インターネットを使って、エストニアの電子政府サービスの利用、エストニア政府への連絡、銀行取引などを行うときに本人であることを電子的に認証することができる。
2015年末に、eレジデンシーは1周年を迎えた。eレジデンシープログラムの初年度に119カ国から7000人以上のeレジデントが誕生した。この結果は、当初計画された2015年の数値(2000人)の3倍である。 2016年の初期の計画は1万人だったが、政府は計画を変更する必要があるだろう。
また500社以上の企業がeレジデンシーを通じてエストニアで運営され、eレジデントはエストニアで240の企業を新たに設立した。eレジデントによる企業の設立数は急速に増え、最初の月には2社、次の月から7社、30社と増え、2015年12月には100社が設立された。
日本の未来への提言
日本では、マイナンバー制度の導入を機に本格的にデジタル社会の構築に動き出そうとしている。
エストニアでは国の予算が少ないこともあり、時間と知恵を使って慎重にデジタル社会の構築を進めてきた結果、ICT先進国の一つとなることができた。彼らは、物事を進める場合に、技術だけでなく、法律、体制、予算を同時に検討してきた。この機会に、エストニアのデジタル社会構築の進め方を参考にすることは重要である。
エストニアでは、ICT推進の基本方針「エストニア情報ポリシーの原則」を1998年に採択し、それに沿って7年ごとに推進計画を作り、デジタル社会の構築を進めている。日本でも同様の「ICT推進の基本方針」を作成し、ICT推進の目的、官民連携の推進方針などを明確にする必要がある。
参考:情報社会の発展のための原則(エストニア情報社会戦略2013より抜粋)
・エストニアにおける情報社会の発展は、公共部門が主導する形で、この原則にしたがい進むべき方向を戦略的に選択する。
・情報社会は、公共部門、民間部門および第三セクターの間の協力に基づいた、調整された方法で開発される。
・公共部門は賢明な顧客であり、公共調達において、革新的な実現方法に可能な限りの自由が残されることを保証する。
・情報社会は、すべてのエストニア国民のために開発される。その一方で、特殊なニーズを持つ社会的なグループへの差別の廃止、地域の発展、および地域の自主性の強化に特別の注意を払う。
・エストニアの言語および文化の一貫性が保証される。
・知的財産の作成者と利用者の双方の利益を考慮に入れる。
・情報社会の発展によって、国民のセキュリティの認識が徐々に低下していってはならない。基本的な権利、個人のデータやIDの保護は保証される必要があり、また情報システムにおける受け入れ難いリスクは避けなければならない。
・EUや世界のその他の地域で起きている動向を考慮に入れる。さらに、エストニアは、アクティブなパートナーとして自身の体験を他の国々と共有すると共に、他の国々からも学ぶ。
・公共部門は、既に存在している技術(eIDカード、データ交換層X-Roadなど)を利用し、ICT技術開発の重複を避ける。
・公共部門はビジネス・プロセスを再構成して、一般市民、企業、および公共団体から1回データを収集するだけで、あらゆるサービスが実現できるようにする。
・公共部門は異なるハードウェアおよびソフトウェア・プラットフォームを同等に取り扱い、自由に無償で利用できるオープンな標準(オープンスタンダード)を使用して情報システムの相互運用性を保証する。
・データの収集および情報通信技術の開発は、再利用の原則に従って実施される。
国民の合意を得るためには、ICT推進計画の情報公開を行う必要がある。
例えば現在、日本ではマイナンバー制度の導入が急ピッチで進められているが、このマイナンバーは将来どのようなシステムに使われる計画なのか、情報を積極的に開示すべきである。将来の全体像を示した中で、まず税と社会保障に利用する、といった説明がないと、国民の合意を得ることは困難である。
エストニアでは、中期計画を公開するとともに、毎年の進捗を「年鑑」としてまとめ、Web上に公開してきた。これにより、国民はICT推進の計画・予算と進捗状況を知ることができる。また、関連する法律もWeb上にまとまって掲載されていて、容易に知ることができる。
省庁、地方自治体を中心とする公共機関のシステムでは、何を共通基盤として構築すべきかを明示することも必要である。エストニアでは、国民ID番号、セキュリティ、システム情報管理、情報交換システム(X-Road)などを各省庁・自治体が共通基盤として利用することにより、アプリケーション構築の負荷を大幅に軽くすることに成功している。
全国民を対象としたID番号制度は、日本では「マイナンバー」として導入が始まった。このマイナンバーは税と社会保障、災害対策の分野に使われるもので、現時点では教育や医療などの分野に使われることにはなっていない。今後は、すべての分野を対象とした国民ID番号管理体系を検討していく必要がある。
エストニアでは、国の情報システムの管理システム(RIHA)があり、省庁などが管理するデータベースの情報を公開している。エストニアでは、官民問わずデータベースの複製を作り、独自のデータベースを運用することを禁止している。データベースを利用したサービスを開発する場合には、そのデータベースを管理している組織と契約を結んで利用している。
日本においても、国や公共団体が管理しているシステムに関する情報を公開する環境を作るべきである。こうすることにより、ベンダーによる特定のシステムの囲い込みを防止することができる。
セキュリティの確保は最重点課題である。これは技術、法律、推進体制のすべてで進めていくべきである。エストニアでは、官公庁職員を含む全国民がeIDカードを用いて電子認証、電子署名を行っている。このため、アクセスコントロールを行ったりアクセスログを残すことができる。
日本においても省庁及び地方自治体では電子署名や電子認証の利用を進めるべきである。これにより、いつだれが何の目的で個人情報をアクセスしたかの記録を残すことができ、システム全体への国民からの信頼を高めることができる。
マイナンバー制度導入においては「情報提供ネットワークシステム」を構築してシステム間の情報の受け渡しを行う予定となっている。これは非常に複雑な仕組みであり、用途も税と社会保障分野に限定されている。今後はまず、利用できる分野を広げていく必要がある。
エストニアでは、経済通信省の国家情報システム局(RISO)を中心に電子政府の構築を進めているが、この外郭団体としてエストニア情報センター(RIA)があり、高い技術力を持った職員が配置されている。日本の省庁では数年ごとに人事異動がある。官僚に多くの分野を経験させるメリットも大きいが、ICTの技術は日進月歩の世界であり、国際的な競争も激しい分野である。ICT関連事業に継続的にかかわれる人材を確保することが必要になっている。
日本は、2001年から始まったe-JAPAN戦略とそれに続くICT新改革戦略を通じて、世界の中のICT先進国家になるべく活動を初め、すでに15年の年月がたってしまった。当初は、2005年には多くの電子政府サービスが全国で利用されると期待されていたが、2015年の現在でも、一部の業界をのぞいて現状は15年前とまったく変わらないといっていいだろう。エストニアは1991年に独立回復後、歴史の浅い小国ながら、多くの人が知恵を出し合い、これらの壁をひとつひとつ乗り越える工夫をし、国民も情報社会のメリットを得てきた。
国の大きさが違う、歴史が浅い、といった些細な理由ではなく、優れた先行事例としてこの北欧の小国の実績と未来像を多くの人々に知ってほしいと筆者は考える。
著者/訳者:ラウル アリキヴィ 前田 陽二
出版社:インプレスR&D( 2016-02-26 )
オンデマンド (ペーパーバック) ( 172 ページ )
世界でもっとも進んだ電子政府を持つ国、エストニア。未来型のオープンガバメントをいち早く実現し、さらに進化させているこの国の現在の姿を最新情報とともに紹介します。さらに、それを支えるICT技術基盤や電子政府サービスの将来ビジョンも詳細に解説、エストニア政府CIOのターヴィ・コトカ氏による序文も掲載しました。国民ID番号とeIDカードの配布による最先端の行政システムを実現したエストニアからみた、マイナンバー導入に揺れる現在の日本に対する提言も掲載。今後の行政効率化と電子化に向けた将来像を描いています。
(2016年3月2日「SYNODOS」より転載)
日本・エストニア/EUデジタルソサエティ推進協議会代表理事
1948年富山市生まれ。早稲田大学理工学部電子通信学科卒業後、同大学理工学研究科修士課程を修了。三菱電機株式会社に入社し、文字・画像認識分野の研究開発に従事した後、2001年~2009年にECOM(次世代電子商取引推進協議会)に出向し電子署名および認証の分野を中心に調査研究に従事。2010年~2013年、一般財団法人日本情報経済社会推進協会(JIPDEC)主席研究員、2005年~2014年、はこだて未来大学(夏季集中講座)非常勤講師。工学博士。共著に『未来型国家エストニアの挑戦 電子政府がひらく未来』(インプレスR&D)『IT立国エストニア−バルトの新しい風』(慧文社)、『国民ID制度が日本を救う』(新潮新書)他。
数多の困難に次々と直面している現代社会。しかし、それを語り解決するための言葉は圧倒的に不足しています。
わたしたちシノドスは、こうした言説の供給不足を解消し、言論のかたちを新たなものへと更新することを使命としています。
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