政治家の劣化を嘆く声が聞かれるようになってから久しい。だが今回の国会解散から希望の党設立、民進党の解体から見えてくるものは、政治家による政治の私物化である。
いま目にしている政治混迷は、そもそも衆議院の解散によって作り出されたものである。解散は首相の専権事項であるとされるが、憲法にその規定が明示されているわけではない。百歩譲って首相の解散権を認めたとしても、その判断は重いはずであり、明確な説明が求められる。だが、今回の解散は、どう見ても自己都合、党利党略によるものであり、大義はない。つまり、安倍首相は説明責任を放棄し、解散権を私物化したのである。
一方、前原党代表による民進党解体と希望の党へのすり寄りは、多くの国民を驚愕させた。前原氏自身は、民進党分裂は「想定内」と公言し、希望の党への「身売り」を正当化しているが、小池代表との交渉プロセスはブラックボックスである。
民進党の両院議員総会で、彼は安倍政権を倒すために民進党全体が希望の党へ合流すると説明していたが、一方の小池氏は、(民進党護憲派などの)政策理念が一致しない民進党議員は排除すると明言した。この問題についての前原代表の説明は説得力の欠けるものだ。「党分裂は想定内」とうそぶき、半ば居直っているように見える。「前原氏に騙された」との声が党内から出ても、どこ吹く風という風情である。
同代表は元来、事前調整や十分な確認なしに決定を下す傾向があった。2,005年の連合定期大会における党と連合の関係見直し宣言(当時党代表)、関係議員の自殺まで引き起こした偽メール事件(2006年当時党代表)、八ッ場ダム建設工事の突然の中止明言(2009年当時国交大臣)など、自らのアイディアが正しいと確信すれば、いきなり実行に移してきた。結果的には、彼の言動は成果を生むどころか、混乱をもたらすことが多かった。
党の解体という大事に当たって、過去の誤りの反省もなく突き進む前原流の独断専行は許されまい。今回の民進党解体劇は、前原代表による党の私物化と呼べるものだ。
だが、党代表の暴走を許したのは民進党の体質でもある。例えば岡田克也氏は、希望の党と立憲民主党への分裂への対応を聞かれて、自らは無所属を選ぶと述べたが、その発言トーンは、同士討ちを「他人事」のように眺めるが如く、淡々としたものであった。党代表まで務めた重鎮としての責任感は全く感じられない。
前首相の野田佳彦氏、「論客」を自認する辻元清美氏、元代表代行の安住淳氏なども、自らの選択については語ったが、前原代表の決定手法への憤りは見せていない。立憲民主党を立ち上げた枝野氏にしても、記者会見では「残念ながら」を連発するなどと、至ってお行儀の良い語り口であった。自らの党の代表の独走を許してきたのは、党幹部の「ゆるさ」であり、また彼らの党や同志の運命に対する熱情の欠如ではなかろうか。
「都民ファーストの会」と「希望の党」の小池氏の横暴ぶりは、すでに詳しく報道されており、今さら述べる必要もあるまい。だが、注目すべき点は、自民党から小池新党に参加した自民党国会議員は若狭勝氏一人だけであることだ。しかも若狭氏は、3年前の総選挙において比例単独26位で当選した新人であり、政治経験は浅い。この事実から言えることは、小池氏は、メディアの注目を集め、風を吹かせる技術には長けていても、ベテランや中堅クラスの同志を惹きつける人望と政策力を持たないということである。
そして自ら作った組織の上に君臨し、異論を許さず、自主的活動を禁止し、公開の場では笑顔を見せつつ批判をすり抜け、「緑のたぬき」などと揶揄されている。小池氏もまた党を私物化しているのである。
安倍首相、前原民進党代表、小池希望の党代表と、権力や組織を私物化して恥じない政治家が政局を作り出し、話題を日々提供している日本政治の貧しさを嘆く人は多い。だが、このような局面を打開しそうな政治家は、今のところ見当たらない。それは日本国民の民度の問題なのだろうか。