蓮舫氏の二重国籍問題が、折に触れて蒸し返されたあげく、ついに氏は7月18日に自らの戸籍の一部の開示にまで踏み切りました。
周知のように、この問題と氏の対応をめぐっては、様々な議論の応酬がなされています。
ここでは議論に一石を投じるために、日本の復興という新たな角度から、この問題について考えることにしましょう。
国政のトップに移民二世を受容するか否か
そもそも二重国籍問題が取り沙汰されるようになった時期とは、蓮舫氏が民進党の代表に就任した前後のことです。
すなわち、氏が国会議員に当選したり、閣僚になったりした前後ではなく、野党第一党の党首として、将来の総理大臣候補になった前後なのです。
また氏が18日の会見で、もはや二重国籍状態にはないことを、証拠まで示して明らかにした後でさえも、この問題は沈静化する気配を見せていません。
こうした点を踏まえると、この問題の焦点とは、私たち日本国民が国政のトップとして、移民二世を受容することができるか否かであると言ってさしつかえないでしょう。
周知のように、こうした類の問題は日本だけに限らず、程度の差はあれ、世界各国で起こっています。
移民大国・米国でさえも、例えばトランプ大統領が、ケニア人の父をもつオバマ氏がケニア生まれで、大統領の資格を満たさない疑いがあるなどと繰り返し攻撃していました。
成熟した国民
しかし、成熟した国民であれば、移民家庭の出身という出自を理由にして、国政のトップへの就任を拒絶することはないでしょう。
たとえ一部の勢力が中傷を行なおうとも、少なくとも選挙の時点で、国家のリーダーとしての資質を備えていると判断すれば、喜んで国政のトップに推戴することでしょう。
そういった意味で、少なくともオバマ氏を大統領に選出した当時の米国民は成熟していたと言ってよいかもしれません。
また国政のトップではありませんが、パキスタン系移民二世のサディク・カーン氏を市長に選出したロンドン市民も成熟していると言ってもよいでしょう。
果たして、私たち日本国民は成熟しているでしょうか?
日本国民が成熟しているのならば、蓮舫氏に対して、二重国籍問題を蒸し返すのではなく、野党第一党の党首、すなわち将来の総理大臣候補としての資質を真に備えているか否かを何よりも吟味すべきでしょう。
(断っておきますが、私は氏にそうした資質が備わっているか否かについては判断しかねています)。
移民家庭の出身の異能な人材
なぜ成熟した国民は移民家庭の出身という出自にいちいち拘泥しないのでしょうか?
言うまでもなく、市民革命を通して確立された「すべての人間は神によって平等に造られている」という理念を深く共有しているからです。
しかしそればかりが理由ではありません。
そうした出自の人々の間から、国家の発展に寄与する異能な人材がしばしば輩出されてきたことを、経験的によく知っているからです。
日本でも移民家庭の出身者が参入しやすい分野、すなわち文化・学術・スポーツ・芸能・経済界などにおいて、彼らは目覚ましい活躍を見せ、各界に大きなインパクトを与えてきました。
王貞治氏や張本勲氏がプロ野球界に与えてきたインパクト、ソフトバンクの孫正義氏が経済界に与えてきたインパクトなどを見れば、それは明らかでしょう。
日本の総人口に占める彼らの割合が非常に低いことを考えれば、驚異的とも言えることです。
政界における人材の払底
一方、日本の政界は非常に保守的であり、今回の二重国籍問題に象徴されるように、「ジャパニーズ・オンリー」と言ってもよい雰囲気に覆われています。
そのためかどうか分かりませんが、内政上の危機が叫ばれて久しいにもかかわらず、政治は無為無策が続き、少子高齢化、人口減少、財政赤字、基幹産業の衰退、原発事故などの危機が深まるばかりとなっています。
政界にはこれまで日本のベスト・アンド・ブライテストとされる人々が蝟集してきました。
しかし彼らの大半は判で押したように、内政の危機から国民の目をそらして、先送りする以外には何も策がないようです。
今日の政界には、国家百年の大計を立てて、こうした危機を打開するための新機軸を果敢に打ち出し得る人材が払底してしまっているのではないでしょうか。
政界にも移民家庭の出身者を
しかし、移民家庭の出身の異能な人材が次々と国会に進出すれば、旧態依然とした政界にもインパクトを与えられるようになるかもしれません。
特に国政のトップにそうした異能な人材が就任するようになれば、無為無策の前例にとらわれることなく、果敢に新機軸を打ち出すことができるようになるかもしれません。
オバマ前大統領がオバマ・ケアや核なき世界の提唱などの新機軸を打ち出したように、です。
蓮舫氏は18日の記者会見で、党是でもある共生社会の実現のために尽力すると強調していました。
氏には、ぜひとも移民家庭の出身者の間から、国家のリーダーとしての資質を備えた異能な人材をあまた発掘して、国政の場に送り届けてほしいと願っています。
そうなれば共生社会に近付くだけでなく、内憂の打開にもつながっていくことでしょう。
なお、そうした異能な人材が次々と政界に進出したならば、一部の勢力から警戒する動きが出てきて、今回のような二重国籍問題がまた取り沙汰されるにちがいありません。
そこで今後、こうした問題が再燃する余地をなくすためにも、公職者には二重国籍の解消を厳格に義務付けるべきかもしれません。
林語堂の説
私の提言はあまりにもアメリカナイズされているでしょうか?
そもそも日本は国家の成り立ちからして、移民国家として出発した米国とは違うという反論が聞こえてきそうです。
確かに日本では、移民家庭の出身者が政界で枢要な地位に就いた歴史的事例は、古代に渡来人が大和政権で重要な位置を占めたこと以外にはほとんど見受けられません。
しかし世界史をひもとくと、文字通り「新しい血」が政治エリート層に注入されることを通して、民族が衰退から復興に向かった事例をいくつも見出すことができます。
例えば、作家の林語堂は次のように指摘しています。
中国では一定の周期で征服王朝が樹立されたことにより、北方の遊牧民族の「新しい血」が政治エリート層に注入されてきた。
そしてそうした過程を経ることで、一般の中国人も再び活力を得て、衰退から復興に向かうことが可能になったと(林語堂『中国=文化と思想』)。
無論のこと、侵略して定住した遊牧民族を、今日的な意味での移民としてとらえることには無理があります。
しかしそうした相違点はさておくとしても、「新しい血」の注入の効用について、私たちはもっと注目してもよいのではないでしょうか。
移民という「新しい血」が日本の政治エリート層にも注入されれば、私たち日本国民も再び活力を得て、衰退から復興に向かうことができるはずです。