大みそかのお笑い番組「絶対に笑ってはいけない」で、ダウンタウンの浜田雅功が、アメリカの俳優エディー・マーフィーのモノマネをするため、肌を黒く塗った。
家でゆっくりとテレビを見ながら「面白い」とゲラゲラ笑った人もいれば、「ブラックフェイス(黒塗りメイク)」に対して、「アフリカ系アメリカ人への人種差別だ」という意見もあった。
日本テレビは「視聴者に楽しんでもらいたい」と思っていたのだろう。批判に対して戸惑っている様子が、コメントからも伝わってきた。
「差別する意図は一切ありません。本件をめぐっては、様々なご意見があることは承知しており、今後の番組作りの参考にさせていただきます」。
ライター・リサーチャーの松谷創一郞さんは、日本のお笑いをずっと見続けてきた"テレビっ子"だ。
お笑いがこれからも、斬新で、面白くあるためには、どうしたら良いのか、松谷さんに聞いてみた。
——今回の黒塗り問題について、さまざまな議論が起きています。
テレビ制作陣およびダウンタウンに「差別の意図」がなかったのは明らかでしょう。ただ、人種問題は、作り手の意図だけではなく、「受け取る側がどう考えるか」を真剣に検討する必要があります。
「悪気がなければ差別をしてもいい」ということにはなりません。それは「イジメをしている気はなかった」といういじめっ子の言い訳に近いです。
黒塗り問題への批判に対して、「息苦しい」と感じる人がいるのも分かります。
ただ、広い意味でのコンプライアンス(法令や規則を守ること)や人権への配慮は、理由もなく存在するわけではありません。テレビ局やお笑い芸人などの表現に携わる人は、それなりに真剣に考え、コミュニケーションを取らないといけないと思います。
——ブラックフェイスが全てのお笑いや演劇の場面でダメかどうかは、議論する余地があります。ただ、今回の番組は「アメリカンポリス」という設定でした。アメリカでは、まだ人種問題が続いているため、より「肌の色での差別」が思い浮かびやすかった面があります。
ロドニー・キング事件など、アメリカで幾度も起きている黒人に対する暴行事件は制作側の頭の中になかったと思います。そして、視聴者の多くもその想像力はなかったかもしれません。
ただ、日本はすでに多くの外国人がいますし、外国にルーツを持つ日本人も多くいます。私自身も、在日韓国人の幼なじみがいるし、中学では南米にルーツを持つクラスメイトがいました。
小学校のときは、家の両隣がドイツ人一家とアメリカ人一家という時期もありました。さらに、中学・高校では帰国子女の仲のいい友人がふたりいました。広島の郊外で公立学校に通っていた40代ですら、そういう環境でした。
多様化している日本社会への想像力が、日本のテレビの制作側に欠落していることはしばしば感じます。「黒塗り」もただ「する/しない」の二択で考えるのではなく、そうした想像力によって表現の質も変わってくると思います。
——いまの日本人にとって、身近なアフリカ系アメリカ人は、ビジネス界、スポーツ界、音楽界で活躍していることもあり、「差別されていた」という歴史を想像しにくいのではないでしょうか。日本では1999年頃に女性が小麦色の肌をより黒くし、目には白いアイラインを入れ、非常に派手な格好「ガングロ」が現れ、黒塗りが「かっこいい」とされていました。
ガングロはいまでも一部存在しますが、彼女たちはシミ防止のために顔だけ日焼けしておらず、黒人用のファンデーションを使ってブラックフェイスをしています。
ガングロを黒人文化への憧れとして解釈する海外の日本文化研究者もいましたが、実際はそうした側面はほぼありません。彼女たちは、とにかく外見を派手にすることを目的としてガングロ姿になっていました。
つまり肌の色を黒くすることが、小麦色の肌の延長線上にあるファッションでした。一般的にも、ガングロを黒人と結びつけて考えるひとは少なかったように思います。
それは非常に無邪気な動機からなるものであり、同時に黒い肌がファッションとしてイケているとされていたからこそ、注目はされたものの問題視はされませんでした。
黄色人種ばかりの日本人が白人や黒人を模すこと、あるいは肌や髪の色を意図的に変えることには是非があるとは思います。
ただ、一律で「正しい/正しくない」という基準があるわけではなく、その表現の質や社会的な文脈を考えることが必要です。つまり、ケース・バイ・ケースです。
ダウンタウンの松本さんは「はっきりルールブックを設けてほしい」と『ワイドナショー』で発言していましたが、一律で決められることは逆に危険です。
表現者なのだから、ひとつひとつ勉強して考えていけばいいだけのことです。もちろん松本さんは、皮肉として言ったのかもしれませんが。
——あえて、黒塗り表現をする「お笑い」や「演劇」もあります。しかし、今回は差別だと受け止められる危険性について、番組側が無自覚だったように見えました。今後、テレビ局にはどのような工夫が求められるでしょうか。
外国人のスタッフを入れることや、あるいは海外で生活した経験がある人を入れることなどでしょう。テレビに限らずどこの業界も内輪の論理にとらわれる傾向にありますが、常に外に対する意識を持って欲しいです。
また、今回の件でもうひとつ危惧されるのは、抗議を怖れた制作側が今後萎縮することです。かつてテレビやラジオが放送できない「放送禁止歌」がたくさんあると言われていましたが、映画監督で作家の森達也さんが調べたところ、放送局側の自主規制だったことが明らかになりました。
似たようなケースで、小人レスラーの人が一時期テレビに出演できなくなったこともあります。「抗議されたら面倒だから出さないでおこう」という判断だったのでしょう。ただの思考停止です。
今回のことは、そうした「自粛」ムードを強めてしまうリスクもあります。
ですから単に「自粛」に走るのではなく、制作側は外部の視点を持ったさまざまな意見を取り込むことで、常に自分たちをアップデートできる環境を整えておくことが肝要だし、そうした議論を積極的にしたほうがいいと思います。
——いまの日本のお笑いに、足りないところはどこにあると思いますか。
2017年9月のフジテレビ系「とんねるずのみなさんのおかげでした」30周年スペシャルで、石橋貴明さんが扮するキャラクター「保毛尾田保毛男(ほもおだ ほもお)」が、同性愛者を模したとみられる表現をしました。これは80年代から90年代にかけて、とんねるずがコントで見せたキャラクターです。
とんねるずやダウンタウンは、「学校ノリ」で笑いを取ってきたコンビです。現に、とんねるずは、同じ高校、ダウンタウンは同じ小学校の同級生です。
クラスの面白い人たちが身内同士でやっている「おふざけ」の延長が共感を呼び、時には権威を笑うことが魅力だったのですが、いまの学校の環境は大きく変わっています。
——どのような変化ですか?
茶色い髪で生まれた生徒が、担任から黒染めを強要され、不登校になって裁判に踏み切ったニュースもありました。外国にルーツを持つ児童や生徒も身近になりました。最近、東京23区の新成人は8分の1が外国人だと報じられたばかりです。
また、この番組の「ケツバット」自体が野球部に蔓延してきた悪しき罰則そのものです。私自身も小学生のときにやられましたが、あんなに不愉快なものはありません。
元広島カープの山本浩二さんは腰痛がひどくなって86年に引退しましたが、その原因は大学時代(1960年代)のケツバットかもしれないと回想しています(「『赤ヘル』と呼ばれた時代」)。あれほど偉大な記録を残した山本浩二さんは、ケツバットがなければもっと活躍できたのではないかと思うと、カープファンとして非常に心が痛みます。
しかしそれから50年経っても、テレビのバラエティ番組ではまだケツバットを罰ゲームでやっています。もはやその「学校ノリ」は、今の時代に合わないのです。つまり、お笑いがアップデートされていないことを意味します。
——ブラックフェイスが問題になった「絶対に笑ってはいけない」内では、不倫騒動を起こした「禊ぎ(みそぎ)」として、タレントのベッキーさんがタイ式キックボクサーに蹴られる内容が放送されました。弱い者いじめに見えた人がいましたが、どうご覧になりましたか?
ベッキーさん本人は「タレントとしてありがたかった」という発言をしている通り、日本のお笑いは、内輪の文脈のうえに成り立つ「ハイコンテクスト」なものが多いです。
注意するべきなのは、「内輪」に共感するひとが、むかしに比べるとかなり減ってきていることです。日本社会が多様化して、その「内輪」の"常識"を共有しないひとが多くいるのは大前提です。
いまはインターネットでだれでも簡単に小さな内輪を作ることができます。テレビの中のギョーカイ的内輪ノリの価値が、かなり下がっています。
加えて、インターネットによって、そうした内輪が簡単に外部の視線に晒されやすくもなりました。ベッキーさんへのキックに対する批判も、そうした「内輪ノリ」の文脈を有しない外部の人がネットで"発見"して生じた側面もあります。
もちろん、あれは弱い者いじめにつながるという声もありますし、そうした側面は否定できません。もちろん、ベッキーさん自身も「腹が立ってしょうがない」とは決して言えませんし、実際そうは思っていないでしょう。しかしそれは、虐げられた者が、虐げられたことを自覚できない政治的力学が生じていると捉えることもできます。
——社会に合わせて変化をするお笑いと、変わらないお笑いの差はどこにありますか。
ビートたけしさんの有名なネタに「赤信号みんなで渡れば怖くない」というものがあります。面白いと同時に、日本人の同調圧力を五・七・五で表現していますよね。
最近のたけしさんの笑いも、昔とは違うように私は感じるのですが、映画を撮り始めたことで、色々な立場の人と接して、みずからのアップデートを図ったのだと思います。そこには「変わろう」という意志がありました。
そもそもひとは、「普通じゃない」ひとや状況を見たときに笑います。ひとが無自覚に信じている「常識」のコードをズラして、いかに差異を生じさせるかがお笑いのひとつの特徴です。
ただ、このときに注意すべきは、そこに上から下を笑うタテの差異(権力作用)を持ち込むと、それは時には、差別やハラスメント(イジメも含む)になり得ることです。逆に、下から上を笑うと批評性を帯びた「風刺」になります。
今回の「黒塗り」が問題視されているのも、長年に渡って世界的に黒人が差別されてきた歴史があるからです。ベッキーさんについても、その前提にはダウンタウンに逆らえないという権力の非対称性があるからこそ、それを問題視するひとがいます。
もしかしたらダウンタウンやとんねるずは、自分たちが尊敬され、大物になり、社会的に上の立場に立っていることにあまり自覚がないのかな、という気もします。それはある意味、初心を忘れていないということであり、偉ぶってないということかもしれない。
しかし、18歳の高校生が教室でする言動と、50代の経営者が会社でする言動は、たとえその内容が同じであっても意味作用が異なってきます。なぜかというと、それを受け止めるひとがそこにコンテクストを読むからです。そうした点において、彼らは変わろう、アップデートできていないのかもしれません。
——ダウンタウンの過去のコントの一つに「トカゲのおっさん」があります。頭が薄く、緑のしっぽがある得体の知れない生き物です。少年役の浜田雅功が仲良くしようとしますが、大人役の人たちは気味悪がる。私は、差別される側の悲哀を描いているとも見て取れました。
自分が得体の知れない生き物を差別しているのか、笑っているのか、視聴者の思考をズラすと同時に、切ない気持ちが心に残る高度な表現だったと思います。
つまりあれは、被差別者(トカゲのおっさん)の悲哀を描いた、差別をテーマとしたコントでした。ダウンタウンの最高傑作は、間違いなくこの「トカゲのおっさん」です。
ダウンタウンにはもともと、社会の弱い立場の人や、不思議な魅力を持った人たちへの「愛」があります。ですから、今回されている批判について、彼らが思うところは間違いなくあると思います。「トカゲのおっさん」を知っているファンもそうでしょう。
毒や悲哀がないバラエティ番組がなくなってしまっては、お笑いが豊かにならないのも確かです。
だからこそ、文化をつくってきたダウンタウンやとんねるずと、今の差別問題について対話が始まって欲しいですね。
——私たちネットメディアとしても「問題提起だけをして、終わり」にしたくないと思っています。どうしたら良いと思いますか。
私がもっとも危惧するのは、ネットやそれに乗じた一部マスコミの批判によって、松本さんがテレビの世界から自主的に退場してしまうことです。もしかしたら、ネットではそれに喝采するひともいるかもしれません。
しかし、それで日本社会は果たして良くなったと言えるのでしょうか?
単にそれは叩き合いのゲームで、勝敗が決するだけです。その後に残るのは、次はだれを血祭りに上げるかという過剰化したゲームです。そうした社会が果たして「正義」の結果なのか、よく考える必要があります。
そのときメディアに求められているのは、両者の思いをつなぐ役割であり、ひとりのファンとしてもそれを望んでいます。
笑いを引っ張ってきた松本人志さんに、どのような「笑い」が可能かどうか、もし日本のお笑いが「変化」をするのだとしたら、どのような思いがあるのかを聞いてみたいと思います。