稼働1年足らず、特攻隊の拠点となった「陸軍前橋飛行場」とは ドキュメンタリー映画制作へ、クラウドファンディングで支援募る

群馬県前橋、高崎の両市境付近にかつて、特攻隊の訓練や飛行機の製造に使われた陸軍前橋飛行場があった。

 群馬県前橋、高崎の両市境付近にかつて、特攻隊の訓練や飛行機の製造に使われた陸軍前橋飛行場があった。終戦までわずか1年足らずの稼働だったが、若者たちが飛び立ち命を失った。そんな飛行場や隊員らを知る人たちの証言をまとめたドキュメンタリー映画の制作が進んでいる。監督は「飛行場に焦点を当てて戦時中に群馬で何があったのか伝えたい」。制作費や上映活動費にあてるため、クラウドファンディングで支援を募っている。

陸軍前橋飛行場で地元の子どもと記念写真におさまる特攻隊員ら(高崎市の志村邦雄さん提供)
陸軍前橋飛行場で地元の子どもと記念写真におさまる特攻隊員ら(高崎市の志村邦雄さん提供)
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造成に地域から動員

 高崎市棟高町の大型ショッピングセンターの南東。主に畑地となっているこの周辺に1944年、陸軍前橋飛行場は造られた。

 旧群馬町(現高崎市)が2002年に発行した町誌などによると、太平洋戦争で日本が劣勢になりつつあった42年春以降、巻き返しを図る旧日本軍が、飛行兵を養成する教育用飛行場を全国に相次いで建設した。前橋飛行場はその一つだったという。

 1943年春、陸軍航空本部の大尉が村役場を訪れ、飛行場建設のため、農家らに土地の提供を求めた。

陸軍前橋飛行場があった周辺=飯塚俊男監督・製作協力委員会提供
陸軍前橋飛行場があった周辺=飯塚俊男監督・製作協力委員会提供
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 飛行場の面積は約160ヘクタール。1年余の工事期間には、各町村の青年団や教員組合員、国民学校の生徒らが勤労奉仕として動員された。4~5メートルの高低差があった敷地を地ならししたり、誘導路を造成したりと作業を担い、1日当たりの就労人員は最多で2111人だったとの記録もある。前橋刑務所で服役する受刑者らも動員された。

 その後、軍用機を生産した中島飛行機の分工場や特攻隊員の訓練場に転用され、敗戦まで使われた。

 同飛行場の研究を続けてきた旧群馬町の元教育長、鈴木越夫さん(73)=高崎市金古町=は、「短期間に造られたうえに特攻隊の訓練もあったためか、当時は飛行場の存在自体が知られていなかったようだ」と話す。

「戦争の悲劇伝える」 飯塚監督に住民協力

 飛行場がこの地にあった事実や、戦場に散った若者と交わった地元住民の思いを伝えたいと、前橋市出身で映画監督の飯塚俊男さん(70)が、映画「陸軍前橋(堤ケ岡)飛行場」の制作を進めている。戦争がテーマの作品は初めてという。

飯塚俊男監督(左)と鈴木越夫さん
飯塚俊男監督(左)と鈴木越夫さん
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 原作は、鈴木さんが2014年に自費出版した「陸軍前橋(堤ケ岡)飛行場と戦時下に生きた青少年の体験記」。飯塚監督は昨春、同書を読んで初めて、飛行場の存在を知った。知人を介して鈴木さんに映画化を相談。鈴木さんや旧群馬町の地域住民らが昨年、映画の製作協力委員会(代表・野村洋四郎元町長)を立ち上げて、全面協力した。

 鈴木さんによると、飛行場に関する公的資料は乏しく、軍関係の文書は多くが敗戦直後に廃棄されたとみられる。そのため調査は、体験者の証言や当時のことを書き留めていた一般市民の記録を中心に行った。

 飛行場建設のため土地を収用されて工員になったり、飛行場を襲った機銃掃射で大けがを負ったたりした地元住民の体験談が、原作には収載されている。隊員と話した女学生らの体験談もある。映画は、このうち約30人へのインタビューを軸に、飛行場の戦中の状況や隊員たちの姿も紹介する。

 「飛行場を知ってもらうことで戦争の悲劇を伝えるだけでなく、歴史を伝えていく公文書のあり方についても映画で投げかけたい」と飯塚監督は話す。

 昨秋から各地で撮影が進む。3月には、首相当時に公文書管理法の制定に取り組んだ福田康夫元首相へのインタビューも予定している。7月に試写会をイオンモール高崎で開き、8月の上映を目指す。

 原作者の鈴木さんは、戦争が忘れ去られることのないよう、体験者の記憶を残そうと証言や記録を集めて執筆してきたが、「分厚い本はなかなか読まれない」と感じてきた。「映像なら興味を持つ若い人もいるはず」と期待を込める。

出撃前の別れ、垣間見た悲しみ

 前橋市の関根春江さん(89)は1月中旬、カメラの前でインタビューに答えた。実家は、市中心部にあった旧白井屋旅館。当時、多くの軍や県の関係者に利用されていた。

カメラを前に飛行場や前橋空襲について語る関根春江さん(中央)=前橋市千代田町2丁目
カメラを前に飛行場や前橋空襲について語る関根春江さん(中央)=前橋市千代田町2丁目
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 特攻隊員も宿泊した。訪ねてくる家族やいいなずけと話したり、食事したり。翌朝、旅館前で言葉も少なく別れていた。交通事情が悪かったためか、隊員が泊まっても、訪ねる家族がいないこともあったという。

 隊員が泊まるのは1泊で一度きり。45年夏が近づくにつれ、その姿が目立った。出撃する直前だったのだと思う。誰も任務を明言しなかったが「旅館に漂う悲しい雰囲気でわかった」と関根さんは振り返る。

 印象的な記憶がある。ある隊員が「白い絹のマフラーがほしい」と、旅館の女将だった関根さんの母にせがんだ。母は自らの着物の袖か裏地のきれいなところを切って、マフラーに仕立てて渡していた。隊員は死を覚悟し、真っ白なマフラーを身につけたかったのだろう。関根さんにはそう思えて、つらかった。

 別の隊員は「飛行場を飛び立つ時、県庁の上を3回旋回するからね」と話してくれた。関根さんは高等女学校を卒業後、県庁に勤めていた。約束の時間に上空を見ると、旋回する飛行機が翼を振っていた。

「群馬から戦場に向かう隊員たちはどんな思いだったのか考えるとつらい。家族らを残して、『お国のために』と出撃した隊員たちのことを伝えたい」と関根さんは話す。

     ◇

 製作協力委員会は、映画の製作費や上映活動費にあてるため、朝日新聞社が運営するクラウドファンディングサイト「A-port」で支援を募っている。金額に応じて、映画招待券などの返礼がある。目標額は100万円。4月25日まで受け付けている。詳細は、https://a-port.asahi.com/projects/maebashi-hikojo/

(朝日新聞前橋総局・上田雅文)

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