「認知症 行方不明1万人」――。
そんなショッキングな見出しと共に多くのメディアで認知症のことが取り上げられるようになった昨今。その目にする内容は冒頭の見出しのように衝撃的な数字や事例のみを取り上げる場合も少なくない。
いまや、65歳以上の4人に1人が認知症かその予備軍だといわれている。つまり、誰もが無視できない、他人事ではない社会テーマだ。
「認知症」という3文字は、本人はもちろん、家族や周りにあまりにも大きな負のパワーを与え、様々なチャンスを打ち消してしまう。診断によって、不安、絶望し、まだ出来ることがあるのに本人もそれを諦めてしまい、周りも機会を奪い去ってしまう。勤務を続けること、趣味やコミュニティなどの社会生活、家事を楽しむこと――。
チャンスだけではない。時に、生きる気力さえも根こそぎ奪ってしまう。
少なくとも私が取材を続ける中で感じることは、認知症といっても色々な方がいるということ。決して、見出しのような悲惨さや、深刻さばかりでもない。普通に話していて、「本当に認知症なのだろうか」と思う方、難しい英語の本を開いている方など様々だ。また、日・時間、対峙する相手によっても様相は変わり、一概に「認知症はこういうもの」と決めつけることは出来にくい。だからこそ、毎日ニコニコしているだけの明るい認知症のおばあさんが、一般的な「認知症」というネガティブなイメージによって、診断がついただけで、病気になっても個室しか入院させてもらえないようなケースを聞く度に、なんともやりきれない気持ちになる。
「認知症は、壊れた人ではない。何も出来ない人、危ない人でもない。そんな風に評価されるから、必要以上に人生のチャンスも、本人のやる気も損なわれて、一層病状も悪化して、複雑化するという現状につながるのだ」。
NPO法人ハート・リング運動 設立者の一人で、現在、事務局長も務める早田雅美さんはいう。電通に勤める広告プランナーでもある早田さんは、アルツハイマー型認知症であったお父様と、現在もレビー小体型認知症のお母様を支え、10年以上にわたり、認知症介護をしてきている。
亡き父は医療ジャーナリストとして、またテレビ番組制作者として活躍していた。そんなある日、異変が現れた。69歳の時だった。その当時、父の手帳に書き記された言葉がある。「僕が僕でなくなってゆく」――。
大学病院での診断を境に、わずかな自負心も未来をも失ったかのように心に蓋をしてしまった父。診断後、「無念」とメモを書き残していたことを早田さんは後に知る。
父はその後、徘徊がひどく、精神科病院に入院。体は硬直し、言葉も出ず、眼球は一点を見つめるように動かず、「出してくれ!」とドアを叩き続けた両手は小指から上腕部の一部に至るまで紫色に腫れ上がっていた。
結局、施設などを転々とし、自宅に戻ることなく亡くなった。
「専門家の助言に従って問題が起きないことばかり考えていた。その結果、人としての生活を奪ってしまった」。介護者として、父の最期に悔いが残った。だから、今、早田さんは「本人がどう生活したいかを大切にしたいんです」という。
認知症の母とともにダンス教室に行き、犬を飼い、トルコ旅行もする。そんな母の機嫌は早田さんの心配をよそに大変にいい。
認知症は、一般的に記憶の障害や、対象を理解認識したりすることが難しくなる等の症状がある。しかし、基本的な人格、その人らしさ、好みなどは全く変わらないといわれている。
「母の様子は、関わる相手の心を映す鏡のよう」、早田さんはいう。
であるならば、ショッキングに映る認知症の社会事象は、私たちの心、そのものなのではないか。
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「認知症でも 生活は極力あきらめない。」
旅行が好きだった母なので いままでできなかった海外旅行を認知症になってから
はじめた感じでした。たしかに 今のうちに・・・というスタートでしたが
いつしか「来年の目標」づくりにもなっていったのです
介護を背負うと旅行は無理?
そういう固定観念に対する そんなことは無いという僕と妻の考えでもありました。
たしかに大変ではあっても
自分たちの楽しみも加えて、どのたびもエピソードに満ちた思い出に彩られています。
認知症でも 生活は極力あきらめない。
そのことが明るい気持ちを家の中に生み出して
本人の状態も安定してゆくことにつながってきました。
人並みに行方不明になったりもしたけれども
深刻になりすぎては 身が持ちません
早田雅美