「今日、この仕事をしたくて生きている」
朝、改札に「PASMO(パスモ)」をかざす時、「今日もこれから電車に乗って、仕事へ行く」ことに、心が同意しているかを確かめる。
なぜ、自分は働いているのか。この職業で合っているのか。転職をしなくて良いのか。
今日、この仕事をしたくて自分は生きているのだ、という気持ちを確認できた時に、ピッと鳴らす。
テクノロジーが進化すれば、こうした"引っかかり"のない社会がやってくる。電車の改札は「顔認証」や床下の「通信機」で通れるようになる。
ポケットからカードを出す間もなく、乗車できる。自動運転が広まれば、家の前に勝手に車が止まり、仕事のことを考えながら乗り込み、スマホから目を離すことなく、オフィスへ。車内もオフィスも家の延長になる。
メディアアーティストの落合陽一氏は「日本再興戦略」で、「ゲートのない世界」がやってくることを指摘した。
ゲートなどの"引っかかり"は面倒なことなのだが(朝の改札の混雑にイライラしたことはたくさんある)、私にとっては、毎朝を疑い、NOという可能性を考えられるからこそ、前向きなYESが生まれる大切な瞬間だ。
毎日を、少しでもアタラシクしていく
ハフポスト日本版が2018年5月7日、5周年を迎えた。
2年前、私は14年間働いていた朝日新聞社を辞めてハフポストの編集長になった。みんなのおかげで、今年1月には、月間2000万UUを達成し、5年間で初めての黒字化を成し遂げた。
私は、"引っかかり"のあるメディアを作ってきたつもりだ。
メディアとは人の時間を奪う窃盗団である。読者は、10分でも、1分でも、1秒でも、毎日の生活から気を散らして、私たちの記事を読んでくれる。
そこに書かれてあることに、わずかの間でも、心を奪われ、あるいは気が紛れ、もう一度日常に戻ってきた時、今までと違う自分になってくれていたら、と願う。
5周年を機に、私たちは「 #アタラシイ時間 」というシリーズを始める。人生を豊かにするため、仕事やそのほかの時間で、どう引っかかりを生み、毎日の時間を新しく、リフレッシュさせて行くかーー。記事を書き、イベントも行う。
「文章力」があれば、悲しい人生も生き抜ける
半年まえの、良く晴れた2017年の10月3日の午後2時5分。東京都千代田区の中学校を改装したハフポスト編集部に、学校法人角川ドワンゴ学園「N高校」の生徒3人が訪ねてきた。ハフポストで文章の書き方を学ぶ「職業体験」のためだ。
私は前の日から眠れなかった。彼らに、同僚エディターの吉川慧と一緒に文章の書き方を教えたのだが、大げさにいうと、人生の「武器」を手に入れてもらいたいと思っていた。
メディアの記者にならなくても、文章力があれば、悲しい人生も生き抜ける。
私も、そうだった。中学生のころ、アメリカのニューヨーク近辺に住んでいた。当時42歳だった母が、ガンになり、彼女は「日本に帰りたい」と言った。骨髄移植をやったが、ちっとも良くならない。
病気が重くなりすぎて、帰国は無理だと言われた。異国の病院で息を引き取ろうとしている時、私は自分が書いた「アメリカ生活」という作文を見せた。
身体にチューブが挿さり、彼女は話すことはできなかったが、目を上下に動かし、それを黙読した。私は「日本を離れて家族で過ごした日々が、いかに貴重だったか」を綴った。これが母と私の最後の"会話"となっている。
ハフポストに転職する時。面接官となったアメリカの幹部は、私がスタンフォード大留学時代に書いた「人工知能と編集」という小文を読んでいた。だから、Skypeで初めて話す前から「この人となら一緒に働ける」と確信したそうだ。
文章が書ければ、人に自分の苦しみを訴えられ、人に喜びを伝えられる。人生の次のステップを切り開ける。
高校生の時間を奪ってしまったけど
文章の授業を受けていたN高生の3人のうちの一人、冨樫真凛さん(18)。
中学校3年生の途中、「レールに乗った人生はいやだ」と思い立ち、学校をやめてニュージーランドに留学した。
そこで感じたのは、自由さ。ニュージーランドでは、生徒が赤や青のペンを使ってノートを取り、先生の教え方が悪ければその場で指摘していた。日本にいた時は、テストを早く解き終えても、じっと座らされていたが、現地の生徒は終わったら校庭に飛び出す。「一人ひとりが自分で時間をコントロールしていた」という。
帰国後に入ったN高校ではアメリカのスタンフォード大学を訪ねて勉強したり、高齢化が進む群馬県南牧村に入り込んで地域活性化策を考えたりした。
冨樫さんはハフポストで書くため、高校生76人にアンケートを実施。今の若い世代が、結婚相手に求めるのは「顔」なのか「育児スキル」なのかを問う記事を書いた。
「たくさんの人から反響があり、新たな出会いにも繋がりました。何かを調べて、書いて、世界に訴える。誰かを巻き込む。これが出来るようになれば、人生怖くないな、と思いました」と振り返る。
編集部では、記事やイベントなど普通のメディアとは違う、「文章の授業」という形で、彼女の"アタラシイ時間"を生み出すお手伝いをしたかった。ハフポストは時間を奪った分の、成果物を提供できただろうか。
みんなと「同じ時間」は、もういらない
落合陽一氏は、20世紀が、テレビなど「映像」によって物事を大量の人間の間で共有する「映像の世紀」だったと表現している。
世界中の人が映画館やお茶の間で同じ映像を見て、同じ体験をする。
私たち日本人も確かに、みんなと「同じ時間」を過ごすことで成長してきた。高校進学率は100%近くに達し、大学を卒業したら、「新卒一括採用」で、企業に入る。仕事が終わっても、会社の人や取引先との飲み会。
2017年、政府や経済界は「月末の金曜日は早上がりをしよう」と呼びかけたプレミアムフライデー運動を始めた。目的のひとつだった働き方改革どころか、みんなで時間を合わせないと、会社を抜け出すこともできない哀しさも、かえって浮き彫りになった。
それに、現代は"つながり"の時代だ。ソーシャルメディアを通して、他の人の食事や仕事の様子が、瞬時に共有される。家に帰っても、「LINE」や「Slack」で会社の人と繋がり、仕事のことを考え続けている。
他人の感情と触れ合い、共感してばかりいる。いつもみんなと時間を過ごしている事と変わらない。
そこから、古い仕組みを変えるような独自の考えは生まれるだろうか。会社や組織が、大きな方向転換を必要とする時、その"瞬間"に気づくだろうか。
気を遣いすぎて、「自分の時間」が逃げていく
2018年2月、東京・渋谷でメディアジーンが開いたイベント「MASHING UP」。女性の働き方やマーケティングなどを学べる会合で、平日の2日間に、述べ820人のお客さんが会場を訪れた。72%が女性だった。
運営メンバーの一人、中村寛子さんは2日目、「異変」に気づく。午後1時にイベントを開始した1日目と違って、2日目は午前10時からスタートしたのだが、集まりが悪かったのだという。
来場者に遅れた理由を聞くと、「一度会社に寄ってからイベントに来た」と口にする人もいた。「職場に顔を出して、これから行くイベントは仕事ですよ、と上司や同僚にアピールしないと、気まずかった」のだそうだ。
オフィスを離れることに気を使う。「自分の時間」を確保できない。中村さんは、そんな日本の働き手たちの姿を想像した。
#アタラシイ時間へ
この文章の最初の方で、ハフポストは5周年を機に、「 #アタラシイ時間 」というシリーズを始めると書いた。
1日でも、1時間でも、ホンの数分でも昨日とは違う「時間」を過ごす人を応援する記事をハフポストで書き、イベントも開く。
もちろん、「アタラシイ時間」を作ることは簡単ではない。私はこの原稿を水曜日の午前6時過ぎに書いている。まもなく10歳の子供が起き出し、朝食を作らないといけない。一緒に宿題をして、学校へ行く準備を手伝い、慌ただしい朝が始まる。妻の弁当も作る。
午前7時には、編集部の誰かから、Slackのメッセージが来るだろう。職場の揉め事の相談だったり、記事を書けないという悩みだったりする。アメリカの本社から、Googleハングアウトの依頼が来て、日本の政治ニュースに関する問い合わせがあるかもしれない。たくさんの時間が私を侵食して来る前に、朝の静かな30分を死守しようとしている自分がいる。
オフィスに行く時間を遅らせ、自宅で仕事をしたり、イベントに出たりしてみる。いつもと違う道を歩いて子供のお迎えに行く。会議の合い間、空想にふけって、明日を楽しくするアイデアを考えるーー。
「アタラシイ時間」をイメージしたハフポストの「キー・ビジュアル」(上のイラスト)には、みんながギュッと一つに固まっていながら、思い思いの「自分の時間」を過ごしている現代人を描いてもらった。
そう、みんな気が散っているのだ。集中力が少しだけなくて、でもだからこそ、変化にも、人との違いにも敏感で、その分色々な価値観を日々吸収し過ぎるぐらい、している人。私たちハフポストも今後5年間、そうありたい。
制作してくれた「SEESAW」(東京都)という会社は、大手広告代理店を抜け出したメンバーが活躍している。2016年3月設立のベンチャー企業。レールに敷かれた他人の時間を捨て、新しいことに挑戦している。
時間こそ、他人に犯されない自由な聖域。「1984」の主人公にならずとも、「PASMO」1枚で引っかかりを生み出し、アタラシクすることが出来る。毎日の生活に集中するのも大事だけど、ちょっと"気が散って"、昨日と違うことをしている方が人生おもしろい。