法務大臣も国民も、死刑制度の問題に逃げずに向き合ってほしい

日本における死刑制度は、様々な問題を抱えています。以下、日本における死刑の現状と、国際的な潮流、そして私が法務大臣在任中に経験したことについてお話ししたいと思います。

過去4年間に死刑を執行した法相

民主党政権の野田内閣で約4カ月、法務大臣を務めました。私自身は、死刑廃止論者というわけではなく、「死刑廃止を推進する議員連盟」に属したこともありません。ただ「死刑制度について国民的議論を起こす」という民主党の方針、そして私自身の信念から、在任中にいろいろ考え、動き出したこともありました。日本における死刑制度は、様々な問題を抱えています。以下、日本における死刑の現状と、国際的な潮流、そして私が法務大臣在任中に経験したことについてお話ししたいと思います。

■死刑制度に対する谷垣法相の発言

死刑制度を巡るいまの日本の状況は、端的に谷垣禎一法務大臣の発言(2013年2月22日)を見れば分かると思います。谷垣さんは、安倍政権で法務大臣になり、最初の死刑執行に当たって、以下のような発言をしています。

一つ目は「制度の大綱を現時点で見直す必要はない」。これでいいんだ、何もする必要はないという見解です。

二つ目は、「刑事訴訟法に規定(判決から6カ月以内に死刑を執行)される法の精神を無視するわけにはいかない」。刑事訴訟法には、一応、形式的には「判決確定から6カ月以内に死刑を執行しなければならない」と書いてあります。「自分はそれを守っているだけだ」と言いたいわけです。

三つ目は、「死刑は極めて大きな内政上の問題。治安維持や国民感情の観点をしっかり考えるべきだ」。問題意識なしに、ただ単にこういうことを言い募って、死刑問題から逃げているのは、政治家としていかがなものだろうかと思います。

私も法務大臣時代、ずいぶん死刑執行を迫られました。確かに死刑執行は法務大臣の職務です。しかし、他の刑の執行は検察官なのに、なぜ、法務大臣が死刑を執行するのか。その意味は、もっと奥深いものがあると思います。冤罪の問題、その時々の時代の流れ、国際的な動向。今の時点で死刑を執行することが総合的に見て必要だと判断するからこそ、法務大臣にその判断が委ねられていると思っていました。

合わせて、私は、「日本国として死刑制度をどう評価し、これからどうしていくのかを考えていく、そういう責任を持っているのも法務大臣の職責ではないか」と言っていました。

ゆれる死刑』(岩波書店、2011年)という本を、毎日新聞の小倉孝保さんという記者が書いています。彼は、国連で死刑執行停止決議がされる場面に行って、日本政府の対応を見ているんです。「日本政府の人たちは他の国から非難されるのを、嵐が過ぎ去るのを待つように、頭を低くしてじっと黙っていて、なにも反論しない。そういうことで本当に国際的理解が得られるのだろうか」と問題提起もしています。確かに内政上の問題ということは間違っているとは思いませんが、国際社会の中で日本はなぜそうなのか。「なるほど、そうなのか」と理解をしてもらえない「内政上の問題」であってはいけない。

国民感情も、確かに被害者感情など、非常に難しい問題がありますが、なぜこういう国民感情が作られてきているのかも検証していかなければなりません。『孤立する日本の死刑』(デイビッド・T・ジョンソン、田鎖麻衣子著、現代人文社、2013年)で、デイビッド・ジョンソンさんが次のように書いています。「ヨーロッパでの経験からすれば、死刑廃止が予想されるような状況において、なお死刑を維持しているアジアの国は1カ国、日本だけであり、この一見して異常な事態は、少なくとも部分的には中道右派の自民党による覇権状態が半世紀以上もの間、機能したことによるものである」。

私はやはり、自民党政権下で死刑問題をどう捉えてきたのかが大きなカギになっているような気がします。自民党はずっと政権を持ってきた。「自分たちが政権を持っている秩序を乱したくない。だったら死刑はそのままでいいじゃないか」。世論調査も、「死刑が維持されるように」といった結論が出るような問題の出し方しかしていない。そんなことを政権時代にずっと続けてきた。決して国民は心底から死刑問題について「見たくもない」「聞きたくもない」「私は知りません」という気持ちではない。いろいろ説明すればちゃんと理解もして、問題意識も持ってくれる。そういう状況にありながら、それをさせてこなかったのが、今までの政権ではなかったでしょうか。

■世界と乖離している日本の国民意識

OECD(経済開発協力機構。言わば「先進国クラブ」)34カ国で、死刑制度がありながら過去10年以上執行のなかった国は1カ国、韓国です。韓国では1997年12月に最後の執行が20件ぐらいありました。1998年に金大中氏が大統領になると死刑が停止されるかもしれないと、一気に執行されたわけです。金大中氏が大統領になってからは死刑の執行が停止され、それ以降ずっと停止されています。李明博大統領のときに再開されるのではないかとみんな危惧していたのですが、結局時代の流れというのがあって、韓国では再開に至りませんでした。

OECDの国ではないのですが、台湾も似たようなことがありました。2006年に死刑の執行停止が事実上行われました。民進党の代表・陳水扁が国家総統の時に死刑執行が停止されて、その後2010年に再開されたのです。再開後は、台湾では死刑執行を求めるような動きが広まってきています。こういう流れを見ても、やはりその時の政治の状況が、死刑の問題に関して、執行の問題、制度の問題に非常に大きな影響を与えていることが読みとれます。

日本で、死刑制度に関する世論調査では、1975年から「死刑存続」の意見がだんだんと増えてきています。1975年ですから、今から40年近く前までは6割弱しか「死刑存続」の意見がなかったのに、今では8割以上が「死刑存続」の意見と言われています。世界の潮流と日本国民の意識がだんだん乖離してきているのではないでしょうか。

実はこの問題に対しては、設問が悪いと指摘する方が多いのです。「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」「場合によっては死刑もやむを得ない」というような人も存置論者に入ってしまっています。例えば「絶対的終身刑を作ることを前提に死刑を廃止したらどうか」といった問題提起も全然ないまま使われている設問と答えでは、こういう結果が出てもやむを得ない面もあります。

ただ、そうは言ってもだんだん死刑存続論のほうが増えてきているのは、いったい日本のどんな状況を反映しているのでしょうか。日本はどんどん治安が悪化しているかといえば、そうではありません。殺人事件の件数と、殺人事件による死亡者数を示す折れ線グラフを見ると、どんどん減ってきているわけです。数字で見れば、状況としては良くなっています。

しかしよく言われるのは、マスコミの報道も含めて、世の中がどんどん不安になってきている、治安が悪くなっているというイメージを持っている人が多いのではないだろうかということです。特に1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件あたりから、「社会の治安が悪くなっている」という印象を多くの国民が持つ状況になってきました。いろいろ調べてみますと、昔も凶悪事件や、信じられないような事件がありましたが、当時のマスコミの報道は、新聞でちょっと出ているぐらいです。それに比べて、いまはテレビの影響がすごく大きいですね。テレビは繰り返し、非常に印象に残るような場面を映していく。やはり「体感治安」が非常に悪くなってきているという感じがします。

私が死刑問題についてしっかり国民的議論をしなければならないと思っている一つの理由は、そういう国民の意識が広まる中で、社会の寛容性がなくなってきている気がするからです。いま、法務省の大きな行政の課題は、刑務所から出てきた人の就職先がないこと。これは経済や景気の問題もありますが、就職先がない、行く先がないということなんです。社会で立ち直るためのことが、どんどん廃れて、弱くなって、縮小してきている。善悪二元論で「俺たちは善人なんだけど、あの人たちは悪人だ」と人を分類してしまって、いったん悪いことをした人たちは、なかなか社会復帰ができず、社会に寛容性がなくなってきているのです。私は、この問題の発生原因の一つは、死刑存続の支持が拡大している原因と根底で共通しているのではないかと思っています。

◎死刑の廃止・執行停止についての国際機関の勧告

 ・2007年8月  拷問等禁止委員会からの勧告

 ・2008年5月  国連人権理事会の普遍的定期審査における勧告

 ・2008年10月 国連・規約人権委員会からの勧告

 ・2013年5月  拷問等禁止委員会からの勧告

◎死刑制度の運用に関する勧告内容

 ・死刑確定者の処遇

 ・高齢者及び精神障がい者の死刑執行

 ・死刑確定者と外部の弁護士との面会

死刑制度廃止や死刑執行停止の問題として、日本は、世界から様々な勧告を受けています。死刑制度の運用に関しても「死刑囚に対する処遇に非常に問題がある」「高齢者や障がい者に対する死刑執行の問題はちゃんとできているのか」といったことや、弁護士との面会の問題をずいぶん指摘されています。一方で、日本では、制度の有無だけではなく、もはや死刑制度自体を語るのがタブー視されています。聖域化されてしまって、死刑囚がどんな処遇を受けているのか聞こうとするだけで、世の中から白い目で見られる状況が発生しています。こういう問題にもきちんとメスを当てていかなければいけないと思います。

アメリカも死刑執行している先進国のひとつですが、死刑に対する情報公開が非常に進んでいて、制度そのものについての議論もあれば、死刑執行のあり方について、あるいは死刑確定者に対する処遇のあり方についても、様々な議論が行われています。それが、日本では全く行われていないということが、もう一つの問題です。

死刑制度が必要だという人たちには①社会契約説からの主張②国家的秩序・人倫的文化維持からの主張③犯罪抑止論からの主張④特別予防論からの主張⑤被害者感情に応じるために必要との主張、があります。それから死刑制度廃止論には①人権尊重からの主張②誤判の可能性からの主張③国際情勢からの主張④国家による死刑制度乱用の可能性からの主張、などがあります。このように、いろんな意見があることは事実ですから、しっかりと私は国民的な議論をしていかなければならないと思っていたのです。

■国民的議論を目指したが

2009年、政権交替する前の総選挙で、民主党の「政策インデックス」には、「死刑存廃の国民的議論を行う」、それから死刑制度の運用、執行のあり方についても議論をして、「当面の執行停止や死刑の告知、執行方法などを含めて国会内外で幅広く議論を継続していきます」と書いていました。

まず、「知らない」という人がものすごく多い。それだけ情報が伝えられていない、あるいは前の政権は伝えようとしてこなかった。だからそういう情報を共有しようとしました。もし、これを世界各国に説明できる状況にないと思ったら、それは止めるしかないという道筋です。

「死刑の在り方についての勉強会」は、2010年、千葉景子法相(当時)が作りました。翌年、私が法務大臣就任後、第10回の勉強会で「イギリスとフランスの死刑制度廃止の経緯について」と題して、大学の先生を一人ずつ呼んで、マスコミの人にも公開しましたが、翌日、どこの新聞にも、ひと言も書いていない。そういう状況は、うすうす分かっていました。誰も「勉強会」をやっていると知らない。これはいかんと思い、勉強会以外の機会を持とうと思いました。

最初は、法務省の法制審議会(法制審)でやろうと思いました。ところが、「法制審は、ある程度結論が出るような、あるいはもう"こういう結論を出そう"というような状況になってやるのであって、これからどうしようかというような状況でやる審議会ではない」と法務官僚から言われ、これは諦めました。

それなら有識者会合を作ろうと思って動き始めたのです。その時によく分かったことがありました。有識者会合のメンバーには賛否両論と、中立的な人も必要です。有識者の中には、死刑制度廃止論者はたくさんいますが、死刑制度維持論者はあまりいない。学者や弁護士にはいますが、有名人では、櫻井よしこさんといった人しか出てこない。どうバランスを取った人事にしようかと悩んだぐらいです。

有識者会合を作ろうと、2012年のお正月から動き始めましたが、1月中旬に野田総理から電話がかかってきて「平岡さん、今度内閣を改造するんですけども、平岡さんには大変ご苦労おかけしましたけれども、交代してもらえませんでしょうか」と言われました。僕は、後任の小川敏夫大臣にも、「最終的には大臣としてのご判断に委ねるべき話ではありますが」と言って僕がやろうとしていたことを引き継ぎました。しかし、その後は大臣を交代して2カ月ぐらいで、一回も「死刑の在り方についての勉強会」は開催されることなく、報告書を出しておしまい。そのあと死刑の執行が行われてしまいました。ある意味、それは、民主党政権全体というか野田政権全体の問題だったのかもしれません。

「フランスでは、バダンテール司法大臣が死刑を廃止した」と言われることがありますが、バダンテールが死刑をやめたわけではない。ミッテラン大統領が死刑廃止を公約に掲げて大統領に当選して、それを実行するために、バダンテールを司法大臣として使って、実現させたのです。それぐらいフランスにおいても大きなテーマでした。死刑を廃止する条約に参加するときのモンゴルの大統領の演説、それから金大中(韓国)、陳水扁(台湾)。これらの例にみられるように、いずれも国のトップが腹を固めていかなければできなかったし、これからもそうでしょう。その時には、実際に法務大臣も、しっかりした理論構成や、いろんな問題に対応できるような、能力をもった人がやらなければいけない。死刑制度の廃止はそれだけ大きな問題です。

(2013年11月30日、広島市内で開かれた「ヒロシマから死刑といのちを考えるシンポジウム 死刑・原発・戦争」での講演より。『死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90』VOL.133より一部修正の上掲載)

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