インド、イタリア、カナダーー。3カ国で暮らす、3人の女性の「選択」と「闘い」を描き、本国フランスで100万部突破した小説『三つ編み』。
“フェミニスト小説”といわれる本作を、「男性学」の視点から読み解くイベントが、2019年10月に東京・田原町の書店「Readin’ Writin’ BOOKSTORE」で行われた。
トークしたのは、『三つ編み』日本語版の解説を担当し、著者にインタビューしたフランス在住のライター・髙崎順子さん。ゲストは男性学研究を専門とする社会学者の田中俊之さんの2人。
小説に描かれた男性像をきっかけに、“理解ある優しい男性”の盲点や“上位層の男性”以外は生きづらい日本の社会、そしてフィクションが与えてくれる可能性について、前編に続き、『三つ編み』を通して見える日本社会の問題点についてふたりが語り合った。
理解はあるが、現状は変えたくない男たち
髙崎:『三つ編み』はまったく異なる人生を歩む、3人の女性を描いた小説です。
カースト最下層の運命から娘を逃そうとするインドの母親。代々受け継がれてきた家業をこよなく愛するイタリアの16歳の少女。3人の子を育てながら弁護士としてキャリアを着実に積み上げるカナダのシングルマザー。
実は、『三つ編み』に登場する男性は、すごくソフトに描かれているんですよ。彼らは女性を攻撃はしてこない。でも、社会や秩序の象徴でもある。
たとえば、インドで暮らすスミタの夫は、理解がある男性として描かれています。幼い娘に教育を受けさせようとするし、妻が激怒しても殴ったりせずに話を聞く。
でも、「じゃあここから抜け出しましょうよ」という妻の提案は受け入れられない。なぜなら社会とはこういうものであり、自分はそこで生きる人と容認しているから。(この夫は)現状肯定の象徴なんです。
満員電車を容認するしかない人々と同じように、スミタの夫もカーストの最下層身分に生まれた人生を「こういうものだ」と諦めている。
イタリアの少女の父親、カナダの弁護士の上司もそう描かれています。彼らは女性を攻撃しない。でも、彼女たちが枠組みから外れたときに、手を差し伸べることもしない。
田中:理解はあるけれども、秩序を乱そうとする行動は否定するんですよね。
人は、現状が現状であるというだけで、一定程度正しいと評価する。そういう心理が働いてしまうことは、社会心理学でも確認されている知見です。
日本社会は戦後に民主化が進みましたが、社会がちょっと乱れるといつも家父長制が出てくるんですよ。
1969年に石原慎太郎の『スパルタ教育』という本がベストセラーになったのですが、それには基本、奥さんと子どもはぶん殴っていいと書いてある。妻子をバンバン殴って、真ん中にどんと座ってりゃ、お父さんはそれでいいんだよ、と。
戦後、夫婦は対等だと建前で言ってはいても、ハリボテの裏には旧態依然の思想が蠢(うごめ)いている。
だから、男女雇用機会均等法ができても、「じゃあ一般職と総合職を分けよう」というごまかしの発想が出てくるんですね。「現状の秩序を維持していくために、いかに細工や根回しをするか」という発想になってしまうのが日本社会です。
男のつらさが、女のつらさに絡め取られる
髙崎:私は『三つ編み』を読んで、女性としてはすごく清々しかったんですね。と同時に、男性の登場人物たちが気の毒だとも強く感じました。
女性たちは苦しい状況の中でも戦い、前を見ながら自分の居場所を見つけていく。でも男性たちは、イタリアの章で登場する移民の彼以外、そこから出ようとする動きが書かれていないんです。彼らも抑圧の下にあるのに。
田中:日本で男性学が発展しない理由もそこにあります。男性は社会で優位な側にいることが多いわけですから、彼らが抱えている問題の出し方が難しいんです。
議論を進めようと「男の人も困っていることがあるんですよ」と言うと、「いや、女性のほうが困っています」と絡め取られて終わってしまうことも多々あって。確かに、女性のほうがより困っている立場にあることは自明なのですが。
髙崎:以前に、女性活躍支援に力を入れている企業の方とお話する機会があったんです。「なぜ御社は女性活躍支援の部署をつくっているんですか?」と聞いたら、「だって国の方針ですよね」という答えが返ってきた。
しかもその担当者は女性だったんですが、なぜかと問われて真っ先に出た言葉が「国の方針」。
彼女には自分ごととしての切実な意識がないんだな、と驚いてしまいました。ダイバーシティも同じで、単なるお題目でしかない企業がたくさんある。
先日、フランスで女性の権利を管轄していた元家族・子ども・女性の権利省大臣のローランス・ロシニョール上院議員に取材したんです。
そのときに「日本が政治の場で女性問題を改善していくためのヒントが、フランスにありますか」と質問したんですね。そしたら一瞬戸惑うような答えが返ってきまして。
要約すると、フランスの男女格差問題は、男性が持っている権利を女性が持っていない点にあるんですね。男性は皆、ほぼ同じ権利を持っている。だから女性側にもその分の権利を与えて、格差を改善しましょう、という構造になっている。
ところが、日本では男性間でも権利を持っている人と、持っていない人の格差がある。だから女性の権利を拡大・回復しようとしても、「男性が持っている権利」の目安をどこに置いていいのかが見えにくいのでは、と……。
田中:なるほど。そういった側面は大いにあると思います。
日本の男性の権利や選択の自由という観点から、僕も最近発見したことがあるんです。『地上』という農業雑誌をご存知ですか? 農業の担い手やJA職員を対象とした雑誌なのですが、先日、その雑誌でインタビューされたんです。
そのときに「飲み会に行くも行かないも、結婚するもしないも個人の自由だ、と先生はおっしゃいます。そこは共感しますが、農家は土地を継がないといけない。結婚して子どもをつくらないと土地を継いでいけないし、地域の飲み会に行かないと、水害が来たときに『あいつは飲み会来ないからな』という理由で、自分の畑だけ守ってもらえないこともあるんです」という話をされました。
そう言われて初めて気づいたのですが、僕が研究している男性学って第三次産業に従事する男性の男性学なんですね。
でも日本には、農業や漁業といった第一次産業を生業にしている人はたくさんいる。飲み会に行かないことが、死活問題になる社会もあるんです。自分の視野の狭さを思い知らされました。
髙崎:そういった乖離はありますね。言論の世界で積み上げていくものふわふわ感と、現実社会とのあいだには必ず乖離がある。私自身も痛感しています。
男性優位社会の上位層以外は、全員が苦しい日本
髙崎:ちょっとプライベートな話になるのですが、私がこの問題を考える時の出発点には、個人的な経験があります。
私は、活発で成績が良く、小さい頃から「あなたが男だったらよかったのに」と言われ続けてきました。大人になっても、ずっと。
一方、私の周囲にはいつも、穏やかでちょっと不器用な男性たちもいました。彼らはことあるごとに「男のくせに」と言われ続けていたんです。
私が「男だったらよかったのに」と言われる横で、彼らは泣くことも許されなかった。
だから私の中には、女であることの苦しさと、男であることの苦しさが、いつも合わせ鏡になって目の前にあります。私が苦しい時、私の横の男性たちもまた、苦しかったんです。
私が『三つ編み』という小説に救われたのは、そこなんですね。男性は敵ではないし、彼らのつらさも滲み出ている物語だから。そして今の日本のシステムで苦しいのも、やはり女性だけではない。
日本的資本主義では、男性優位社会の上位層の人たち以外は、全員が苦しいんですよね。
だから、このシステムを変えていこうと思ったら、苦しい人たちみんなが手を繋がざるを得ないというか、どうにか繋いでいけないか?と考えてしまうんです。
田中:東京で子育てをしていると、健康で体力のある成人男性用につくられている街なんだな、ということを至るところで実感します。
東京って、合理的に働いて生産性を上げる企業の論理が貫かれてる都市ですよね。
僕、ベビーカーを押して電車に乗ったら、「ベビーカーで入ってくんなよ」と言われたことがあるんですけど、こういう街で子どもがたくさん生まれるわけがないですよね。
経済が成長しているうちはそれでよかったかもしれないけど、経済がしぼんで何もなくなったら、恐ろしいことになるでしょうね。
髙崎:それと通じていると思うのが、「男は精神的に子どもだから」という日本ならではの言説。
そしてその言説を、当然のように言う人は男女双方にいますね。そのうち子育てをしたがらない男性、子どもが嫌いな男性の中には、「隣りに本物の子どもがいたら、席が奪われるかもしれない」という恐れを根底に持つ人がいる気がします。
田中:日本で最初に男性学を始められた伊藤公雄先生という方の『男性学入門』(1996年)にもそういう話が書かれています。
日本人の男性には、ママが3人いる。自分の母親と奥さん、それからスナックのママ。日本の男は3人のママにヨチヨチとお世話してもらいながら生きている、という。
なぜそうなるかというと、会社を守ることが自明の理である、という教育を受けて大人になるからです。学校を出たらすぐ就職する、弱音は吐かない、途中で辞めてはいけない。(ママに支えられながら、)「男らしさ」が社会を駆動するのが基本原理になっている。
今の日本のように、右肩上がりの成長が望めない社会でその原理を信じて生きていくのは、かなりつらいことですよ。
この世界を、次世代に渡せる?
田中:だからこそ『三つ編み』のような物語の力ってすごいんじゃないかな、と改めて思っていて。まったく違う国、違う社会で生きる人々の物語が、言葉と想像の力できゅっとひとつに束ねられている。物語の形式だからこそできることですよね。
髙崎:この物語がなぜフランスで生まれたのかという話に戻ると、フランスではやっぱり婦人解放運動=フェミニズムだからなんですよ。
ヒューマニズム(人道主義)の中にフェミニズムがあることが、社会の前提としてフランスでは受け入れられている。男性にとっては、自分の母親や姉妹、恋人、娘の問題であり、「このままの世界を次の時代に残せない」という意識、当事者性があるんですね。
田中:僕もそこに尽きると思います。誰だって火中の栗を拾いたくない。
けれども「この社会を次世代には渡せない」という感覚、これを持てるかどうかでしょうね。
いろんなものが漏れ出しているにも関わらず、とりあえずの応急処置を繰り返して現状を維持してきた。それが今の日本社会です。先延ばしにするほど、爆発は大きくなるとわかっているのに。
ただ、「既存の秩序で俺は勝ちたいんだよね」と思っている人に、この感覚は届かないんですよ。
髙崎:そう考えると、女の人はやっぱり動きやすいのかな、と思います。残念ながら、男性はそういう既存の秩序の「型」にはまるように、そこから抜けると不安になるように、教育されてきたから。
一方で、女性はその既存の秩序の「型」には入れないけれども、社会で家事や育児のようなソフト面を担ってきた。制度を動かす力はないけれども、システムを回していく動力であり続けてきた。
だから、自由であるとも言える。『三つ編み』のスミタのように、女性が一人逃げたところで社会は変わらない。でも、全員が逃げることができたら?
良くも悪くも既存の秩序でルートが与えられなかった女性は、そこから外れちゃいけないという精神的縛りも男性より薄い。だからこそガツンと大きく踏み出せるときもある。
それも『三つ編み』のメッセージのひとつかな、と。思います。
絶望的な現実を直視しないと、次には進めない
田中:男女差別などの現実の話をすると、「もっと希望を持てる話はないですか?」とよく聞かれるんです(笑)。でも下手に希望が持てる話なんかしないほうがいいと僕は思っています。
なぜなら、「若い世代のジェンダー観は、いい変化が起きているんですね。じゃあ我々は変わらなくてもいいよね」ということにもなりかねないからです。現状はこれだけひどいという事実を直視しない限り、次には進めない。
『三つ編み』のような小説は、読むのが正直つらいですよね。でもそこを直視しないと、やっぱり希望は生まれない。僕は、適当ないい話でバランスを取る必要はないと思っています。
髙崎:まずは、現状認識から、ですね。物語や海外の情報は、そのための入口になる。
田中:去年、うちのゼミでディズニープリンセスの研究をやった学生がいたんですよ。自分より無力なものに助けてもらった白雪姫、シンデレラを経て、ラプンツェルのように、最近のプリンセスが強くなってきているというのは有名な話ですよね。
ただ、それと比例するように、男性のキャラがバカに描かれるんですよ。
髙崎:『アナと雪の女王』もまさにそうですよね。女の子を主人公に置くために、ひとつのエピソードとして、男性がやや愚かに描かれる。
田中:男同士のケンカを見た女性が、「男って本当バカね」と肩をすくめる。そういう構図は過渡期の今は仕方ないことなのかもしれません。でも、これから先はそういう「男を貶めることで、女を持ち上げる」以外の描き方も出てきてほしい。
小説や映画を共有しあって、意見交換する機会は普段の生活でもとても大事なことだと僕は思っています。
自分や社会を客観視するための方法は、データをいかに正しく読み込むか、だけじゃない。
フィクションのどこに感情移入するか、どう感じたかという意見を交換することで、新しい視点や客観性が生まれることもある。物語に正解はないですから。
髙崎順子(たかさき・じゅんこ)
1974年生まれ。フランス在住ライター。得意分野は子育て環境と食。東京大学文学部卒業後、出版社に勤務。2000年渡仏し、パリ第四大学ソルボンヌ等で仏語を学ぶ。ライターとしてフランス文化に関する取材・執筆の他、各種コーディネートに携わる。著書に『フランスはどう少子化を克服したか』『パリのごちそう』『パリ生まれプップおばさんの料理帖(共著)』
田中俊之(たなか・としゆき)
1975年生まれ。大正大学心理社会学部准教授、博士(社会学)。専門は男性学。内閣府男女共同参画推進連携会議有識者議員、厚生労働省イクメンプロジェクト推進委員会委員・渋谷区男女平等推進会議委員。『男性学の新展開』、『男がつらいよ──絶望の時代の希望の男性学』、『〈40男〉はなぜ嫌われるか』、『男が働かない、いいじゃないか!』など著書多数。