日本最大級の古墳「仁徳天皇陵」を宮内庁と地元の堺市が10月下旬に、共同で発掘調査することになった。10月15日に堺市が公式サイトで発表した。歴代天皇の陵墓とされる古墳を、宮内庁が外部機関で共同で発掘するのは初めて。
天皇家の墓とされる「陵墓」は「尊崇の対象」であるとして、宮内庁は「静安と尊厳の保持がもっとも重要だ」という立場から、学術調査を含む立ち入りを厳しく規制してきた。
しかし、今回初めて、発掘調査に外部の専門家を受け入れた。周囲の古墳の発掘調査の実績がある堺市に、その知見を活かしてほしいと協力を申し出たという。
今回の「仁徳天皇陵」の発掘は、墳丘を囲む堀の護岸工事の資料収集が狙い。一番内側の堤を3カ所発掘し、ハニワなどの遺物や遺構の有無を調べる。調査期間は10月下旬~12月上旬。宮内庁が発掘費用を負担し、堺市は職員1人を派遣して発掘や報告書作成に加わるという。
■「仁徳天皇陵」とは?
「仁徳天皇陵」は、2019年の世界文化遺産登録をめざす「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」の中でも、最大の古墳。「大山(だいせん)古墳」の別名でも知られている前方後円墳だ。
堺市公式サイトによると、墳丘の長さは486メートルと日本一。周囲の三重の濠を含む全長は840メートルにも及ぶ。墳墓としては世界最大級の大きさを誇るという。
宮内庁によると江戸時代の元禄年間(1688〜1704)に、朝廷が「仁徳天皇陵」と指定したという。しかし、本当に仁徳天皇の墓なのかをめぐっては、考古学者の間でも意見が分かれている。
久世仁士さんの「百舌鳥古墳群をあるく」(創元社)を元に学会での論争をまとめると、こうだ。
日本書紀から推定すると仁徳天皇が亡くなったのが西暦399年。「仁徳天皇陵」の築造は5世紀中頃との説が有力で、50年以上のずれが生じてしまう。年代的には允恭(いんぎょう)天皇、もしくは安康天皇の墓ではないかと指摘する声がある。しかし、そもそも「仁徳天皇が実在しなかった」という説もあり、真相は藪の中だ。
この結果、学校の歴史教科書には以前は「仁徳天皇陵」の呼称が使われていたが、現在では誰の墓かは明示せず「大山古墳」と記載するケースが増えている。
そこでハフポスト日本版は宮内庁陵墓課の担当者に、本当に仁徳天皇の墓なのかを聞いてみた。
「元禄年間に朝廷が仁徳天皇の墓と指定しました。宮内庁もこの見解を支持しています。考古学者の間で諸説出ていることは認識していますが、墓碑銘などの100%確実な"仁徳天皇陵ではない"という証拠が出てこない限りは、指定を変える予定はありません」
宮内庁は江戸時代の認定を覆すつもりはないようだ。墳丘内の発掘調査で真相が明らかになることを期待する声は大きいが、今のところ墳丘内を発掘調査する予定はないという。