喉で山椒がかすかに弾けるような感覚。
「山椒エベセッション」は、和歌山県有田川町(ありだがわちょう)の特産品・ぶどう山椒を使った、爽やかでスパイシーさを感じるクラフトビールだ。
「山椒はあまり好きじゃなかったんだけど、アダムが試してみてって持ってきたぶどう山椒を口にしてみたら、これはいけるかもしれないと思ったんだ」と、話すのは、このビールを作ったベン・エムリックさん。
ベンさんは有田川町にあるクラフトビールのブルワリー(醸造所)「ノムクラフト」のヘッドブルワーだ。
ぶどう山椒を素材に使うアイデアを持ちかけたビアソムリエのアダム・バランさんは、「ぶどう山椒は、シトラスやコリアンダー、ハーブのような香りがしてこれはビールにあうかもしれないと思った」と振り返る。
ノムクラフトは、アメリカ出身のベンさんとアダムさん、そしてPRを担当する愛知県出身の金子巧さんが、2019年に立ち上げたクラフトビールブルワリーだ。
ノム(飲む)とクラフト(職人)を掛け合わせた名前には「美味しい飲みものをクラフトする」という思いが込められている。
ただし、美味しいビールを作ることだけが目的ではない。
ノムクラフトのミッションは「クラフトビールでコミュニティを創る」こと。ビールを通じて人と人とのつながりを作っている。
クラフトビールでコミュニティを創る
ノムクラフトが生まれることになったきっかけは、2017年に大阪のデパートで開かれたポートランドフェアだ。
人口減少に悩む有田川町は、アメリカのオレゴン州ポートランドから街づくりを学ぼうと、同市と連携するプロジェクトを立ち上げ、地方創生に力を入れている。
かつて大気汚染などの問題を抱えていながら「最も住みたい街」へと変貌を遂げたポートランド。そんなポートランドは、ベンさんの生まれ故郷でもある。
ベンさんは日本に来る前に、ポートランドのクラフトビールバーやブルワリーで働いており、クラフトビールとともに街が変わっていくのを目にしてきた。
アメリカの多くの街では、ブルワリーが街づくりの助けになっている、とベンさんは話す。
「アメリカの多くの都市は、街を再生をしようとする時にブルワリーを招くんですよ。ブルワリーがあれば人が集まる場所になり、コミュニティづくりを助ける」
新しく立ち上げるクラフトビールブルワリーの、税率を低くする取り組みをする都市もあるという。
その後ベンさんは2011年に来日して英会話学校で働き始め、同僚だったイリノイ州シカゴ出身のアダムさんと出会った。
アダムさんもクラフトビール好きで、ふたりはいつか日本でもクラフトビールの仕事をしたいと話していた。そしてそんな時にフェアで出会ったのが有田川町の人たちだった。
ビールの副原料になる柑橘類が豊富な有田川町はクラフトビール作りに適している、と感じたベンさんは、町でクラフトビールを作るアイデアを提案。
興味を持った街づくり団体のメンバーと数回のオンラインミーティングをした後、街づくり団体のメンバーが出資して、有田川町でクラフトビールを作ることが決まった。
有田川町の魅力
ブルワリー立ち上げが決まった後、ベンさんはポートランドのブルワリーで約1年ビール作りを学び、アダムさんも地元シカゴやポートランドでソムリエの勉強をした。
そして2019年5月に、廃園した保育所をリノベした建物にノムクラフトをオープンした。
やって来たばかりの頃は、有田川町のような小さな街でやっていけるのだろうかという不安もあった。しかしすぐにたくさん魅力がある街だと気付いたとベンさんとアダムさんは話す。
中でもふたりにとっての一番の魅力は、街の人たちだ。
「有田川町にはクリエイティブな人たちがたくさんいます。東京や大阪のような常に刺激がある場所ではないけれど、おしゃれなコーヒーショップやレストランがあり、色々なものづくりをする人たちがいます」とベンさんは言う。
有田川町にきた時にはクラフトビールを知らない人たちもいたが、ビールを作り始めると年齢を問わず様々な人たちが飲みにきてくれるようになった。
今は新しいビールを作ると「どんなビールができたの」と、常連さんが訪ねてくるという。
ブルワリーの隣にはビアカフェ「ゴールデン・リバー」もあり、食事をしながらビールをゆっくり楽しむこともできる。
ビール作りの素材に溢れていることもこの街の魅力だ。
ノムクラフトの定番は「ノムクラフトIPA(アメリカンIPA)」「ノムノムゴールデン(ゴールデンIPA)」「エベセッション(ヘイジーIPA)」の3種類で、その他にも街の素材を使ったスペシャルビールを次々と生み出している。
「有田川町にはミカン、デコポンだけでなく、ジャバラなど聞いたことのなかった柑橘類があります。ミカン畑の空いている場所で、キウイやマンゴー、ベリー類などを作っている人もいます。うまくいくものもあれば、そうではないものもあるけれど、色々な素材を使ってビール作りを試しています」とベンさんは話す。
山椒エベセッションもそうやって生まれたビールの一つだが、他にも「ホッピールアー」「山椒ゴーゼ」「ピンクダイナモ」といった地元の素材を生かしたビールを作ってきた。
「アメリカでは、色々なものを入れたビールを作るようになってきています。最近では、チリペッパーや、アイスクリームを使ったもの、マッシュルームスタウトといったビールもあります」とアダムさんは話す。
もっといいビールを作りたいという気持ちから2カ月で約10種類のビールを作っていて、作るたびにビールが良くなっているのを感じる。だからこれまでで一番美味しいビールを挙げるのは難しい、とベンさんは笑う。
ちなみに、山椒のビールはポートランドの地元レストランでも「ユニーク」「面白いね」「クール」と好評だったそう。
ビールで叶えたい夢
立ち上げから約1年半。ノムクラフトのビールは都内のビアバー「ミッケラー・トウキョウ」などでも取り扱われ、県外でも名前を知られるようになりつつある。ノムクラフトのビールが、有田川町や町の魅力的な素材を知ってもらうきっかけになっている。
もっともっと美味しいビールを作りたいと話すベンさんとアダムさんには、ビールで叶えたい夢もある。
ベンさんの夢は、ビールでポートランドと日本の交流を深めること。
「大阪やポートランドにもブルワリーを作りたい。そしてブルワリー同士をつなげる、ブルワリーエクスチェンジをしたいと思っています。ポートランドのブルワーと日本のブルワーがお互いに行き来して、文化やビールを学ぶことができたら」
アダムさんの夢は、日本のクラフトビール シーンを広げて、ビールコミュニティ作りの助けになることだ。
「私はクラフトビールが好きです。クラフトビールがあると、人が集まって話すことができる。もちろん誰とも話さず、1人で飲むのもいい」
「アメリカでは、インターネットにたくさんのクラフトビールの情報があり、ブルワリーは無料で多くの情報をシェアしています。日本のクラフトビールももっとお互いに情報をシェアして、クラフトビールシーンを広げ、身近でフレンドリーになったらいいなと思います」