従軍慰安婦問題を巡る常識と言論空間

従軍慰安婦問題の解決は、日韓間において極めて重要な問題であるだけでなく、女性の人権を巡る国際社会でも高い関心を集めるテーマとなっている。そして、だからこそ、そこにおける議論は、自由でオープンな場で行われるべきである。
時事通信社

「先生、韓国に行っても大丈夫なんですか?」

韓国政治研究者をしていると、時々こういうことを聞かれることがある。韓国は反日感情の強い国だから、日本人が行って危害を与えられることはないのか、という趣旨なのだろう。大学院生の頃から25年以上、研究その他で日韓の間を行き来し、幾度かの長期滞在経験もある筆者であるが、少なくともその中で、日本人であるからといって、突然殴りかかられたり、危害を加えられたりした経験は全くない。

かつては場末の飲み屋で、日本語で話していると、突然酔っ払いに政治的議論を挑まれたりしたこともあったが、今ではそんなこともほとんどなくなった。最近では、韓国の大学で日韓関係について講義をしても、「日本の教授の意見」に挑戦しようと質問する学生もなく、地下鉄車内で大声の日本語で話していても、振り向く人もない。植民地下の民族運動の記念日である3月1日や、同じく植民地支配からの解放記念日である8月15日にも、日本大使館の前で行われる「反日デモ」に集まる人々も数も少なくなった。

大型書店に行っても、「反日書籍」を探すことすら難しく、韓国ナショナリズム研究者の筆者として、資料探しに苦労するくらいである。ついでに言えば、同じ書店の日本語書籍コーナーには、日本国内で出版された多くの「嫌韓本」が並んでおり、一体この書店にある「反日書籍」と「嫌韓本」は、どちらの数が多いのだろうとさえ思えるくらいである。

とはいえ、そのことは韓国社会における言論空間が完全に自由であることを意味しない。多くの社会においてそうであるように、時にある問題を巡る「熱狂の終焉」は、関心の喪失を示すと同時に、それまで社会に並存していた「特定の見方」が「他の見方」を駆逐してしまったことを意味している。有名なイタリアのマルクス主義思想家であったアントニオ・グラムシの言葉を借りれば、それは特定の言説による「イデオロギー的ヘゲモニー」の成立であり、よりわかりやすい言葉を使えば「強固な常識」の確立である。

そして、一旦このような状況が出来上がると、人々はこの問題について、自らの社会内部で活発に議論しなくなる。第一はこの「常識」にチャレンジするきっかけとなる対抗言説が存在しないからであり、第二はそれが「常識」である以上、これと異なる見解を披露すれば周囲の多くの人々が敵に回る可能性が大きいからである。そして、第三、最大の理由は、多くの場合、「常識」にはそれを信奉し、また、普及させることを旨とする「組織」が付随している。「組織」は時に「常識」に挑戦する人々を弾劾し、これを異端者として封圧する。そして一旦異端者のレッテルを貼られた人は、社会の中での居場所を失い、自らの主張を撤回することを余儀なくされる。こうして「常識」が維持される代わりに、社会は柔軟性を失うことになる。

さて、韓国の話に戻ろう。驚くべきニュースが入ってきたのは、2014年6月15日、元慰安婦らの共同住宅である「ナヌムの家」で共同生活を送る元慰安婦9人が、従軍慰安婦問題を巡る論客の一人である朴裕河・世宗大教授の書籍『帝国の慰安婦』の出版差し止めを求める訴訟を提起する方針だと伝えられたのである。翌16日には、彼女らは併せて朴裕河を「名誉毀損」容疑で告訴し、出版差し止めの仮処分も申請した。

2014年6月17日付の朝鮮日報の報道によれば、元慰安婦らが問題視しているのは、朴氏が本の中で「朝鮮人慰安婦と日本軍の関係は基本的には同志的な関係だった」と書き、また、「日本軍による性的暴力は、1回きりの強姦や、拉致した上での性的暴力、管理下での売春の3種類があった。(中略)朝鮮人慰安婦の大部分はこの3番目のケースが中心だ」とした部分だという。

この事件の中心にいる朴裕河は、日本でも『和解のために』(平凡社)をはじめとする多くの著作で知られる人物であり、その評価はさておき、日韓間における大きな障害となっている慰安婦問題について、活発な発言をしている人物として知られている。彼女の書いている書籍を一読すればわかるように、決して、興味本位でセンセーショナルな発言を旨とする人物ではない。しかも、差し止めを請求された『帝国の慰安婦』は昨年8月に既に出版されたものであり、今の段階で突如出版差し止め請求がなされるのはかなり奇異な感がある。背後には従軍慰安婦運動を巡る、支援団体と朴裕河間の対立も指摘されている。

勿論、元慰安婦らの不満はわからないでもない。しかしながら、同書は全ての慰安婦が日本軍と同志的な関係だ、と主張しているわけでもなく、また、日本政府や日本軍による「狭義の強制連行」がなかった、と言っているわけでもない。筆者自身も昨年その発表に協力した元慰安所従業員の日記からも明らかなように、慰安婦を巡る状況は地域によっても時代、更には個々人によって異なっており、実際、元慰安婦自身の証言も決して一様とはいえない。

一言で言えば、慰安婦問題は、依然として論争的な部分を多く残しており、そのためにはその実情や解決方法についての、様々なアプローチからの分析や議論を行う必要がある。アカデミアにおける自由な議論は、そのために不可欠なものであり、自らとは見解が異なるからといってこれを力で押さえつけることによって得られるものは何もない。アカデミアにおける議論の決着は、あくまでアカデミアに委ねられるべきなのである。

言い換えるなら、このような状況において、司法や社会の「常識」を利用して、ある特定の議論を封殺しようとするのは、従軍慰安婦問題の解決・解明を妨げるだけであり、進んでその運動の信頼性を大きく傷つけることになるだけである。元慰安婦やその支援団体が、朴裕河の議論が誤っていると思うなら、それを堂々、公開の言論の場で行えばよいだけの話である。十分な証拠と内容があるならば、彼らは容易にその議論を圧倒することができるだろう。むしろそのことによって彼らは自らの見解の正しさをより明確に示すことができるはずだ。

そしてもっと重要なことがある。それはこの問題の展開は国際社会にもまた見られている、ということだ。従軍慰安婦問題の解決は、日韓間において極めて重要な問題であるだけでなく、女性の人権を巡る国際社会でも高い関心を集めるテーマとなっている。そして、だからこそ、そこにおける議論は、自由でオープンな場で行われなければならない。

もちろん、同じことは日本における議論ついても言うことができる。互いの議論をナショナリズムのタブーで封殺することなく、如何にオープンでフェアな環境で行うことができるのか。日韓両国の市民社会の成熟度が問われている。

重要なのは、如何なるガリレオからも「それでも地球は回っている」という自由は絶対に奪ってはならない、ということだ。さもなくば、日韓両国は慰安婦問題よりも更に大きなもの、つまり国際社会における自らの信頼性を失いかねないからである。

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