耳の聴こえない親を持つ自分が「CODA」(コーダ)と呼ばれる存在だと知ったのは、いまから10年以上前、20代前半の頃だった。
当時、ぼくはとある企業が主催する、社会人向けの手話サークルに通っていた。参加する人たちは実にさまざまで、第一言語である手話を使いこなすろう者もいれば、これから手話を勉強していこうとする健聴者もいた。
それは初めて参加した日のことだ。20人ばかりの参加者を前にして、ぼくは手話を使い、たどたどしくも自己紹介をした。
「五十嵐大と申します。……ぼくの両親は耳が聴こえません」
すると、それを見たひとりの女性がこう反応した。
「じゃあ、あなたCODAなんだね」
CODA。どうやらろう者の親を持つ健聴の子どもたちは、そう呼ばれるらしい。
「あなたと同じような境遇の人は、大勢いるんだよ」
そう言われたとき、ホッとしている自分に気がついた。そうか、ぼくは決して珍しい存在ではなかったのか。
東北の田舎で生まれ育ったぼくの周囲には、同じようにろう者の親に育てられたCODAがいなかった。親の耳が聴こえないという事実は、“ふつう”ではないという劣等感へと結びつき、やがては孤独感を生じさせた。
誰もぼくをわかってくれない。
当時、いつもそんなことばかり考えていた。
だからこそ、そんな自分の立場に“呼び名”がついたことがうれしかったのだ。呼び名があるということは、仲間がいるということ。ぼくはひとりじゃなかったんだ。
それから一冊の本に出合った。『コーダの世界』(澁谷智子/医学書院)。
当時、埼玉県立大学で非常勤講師をしており、現在は成蹊大学の准教授である澁谷智子さんが、CODAたちへのヒアリングを通し、ろう文化やCODAたちの悩み、葛藤に迫った一冊だ。ページをめくるたびに表れるCODAたちのリアルな声は、まさにぼく自身のものだった。ぼくは、何度も頷きながら読みふけった。
あれから10年が経ち、こうしてCODAやろう者について執筆していくことを決意したぼくは、真っ先に澁谷さんに会いに行こうと思った。ライターであると同時に、『コーダの世界』に救われた、ひとりのCODAとして――。
アメリカで生まれたCODAの定義とは
「CODAの方からインタビューしてもらえるなんて、すごく光栄なことです」
澁谷さんはやわらかく笑いながら、ぼくの申し出を快く引き受けてくれた。
「先生が書いてくださった本のおかげで、ぼくは救われたんです」。ぼくは10年越しの感謝の気持ちを伝え、あらためてCODAについて話を聞いてみた。
そもそも、CODAの定義とはなんなのか。澁谷さんは一から丁寧に紐解いてくれた。
「私がそれを語るときには、CODA Internationalという組織が定めている国際的な基準を前提にしているんですが、それによると、CODAとは“両親のひとり以上が聴覚障害を持つ、聴こえる人”とされています」
「この聴覚障害については、“実証できる”“証明できる”という条件がついている。つまり、障害者手帳のようなもので聴覚の障害を証明できる親のもとで育った、耳の聴こえる子どものことです」
「この言葉は1983年のアメリカで誕生しました。さらに言うと、18歳以上はCODA(Children of Deaf Adults)ですが、それ未満はKODA(Kids of Deaf Adults)と表記します」
日本に先立って、アメリカではCODAの研究がさかんに行われていたという。
「いまから20年ほど前、CODA Internationalの活動の中心は、CODAたちが集まってそれぞれの体験を共有する“語りの場”を提供することで、CODAの当事者が活発に働きかけていました。そういう場があることで、耳の聴こえない親の話を“ふつう”のこととして話せる。それだけでCODAは救われますよね」
確かに、自分と同じ境遇の人がいることを知るだけで、世界は変わる。
ぼく自身が『コーダの世界』を通じて勇気づけられたように、耳の聴こえない親との日々を誰かと共有することは、CODAにとって非常に重要なことだと思う。
「そして、最近ではCODAの子たちの教育にも力を入れるようになっていったんです。CODAという言葉を作ったミリー・ブラザーという人が、CODAのための基金を立ち上げました。CODAが大学に進学するための奨学金制度です。CODAは経済的に苦しい状況にあることも少なくないのでサポートしようと。アメリカでは、若いCODAたちを応援したいという動きがさかんに見られます」
なぜ、日本にはCODAという言葉が浸透しないのか
CODAという言葉が誕生してから36年が経つ。澁谷さんの話にある通り、アメリカでは当事者らによる研究が進み、CODAたちの実情が知られるようになっていった。
一方、日本ではどうだろう? 正直、CODAという言葉は全然知られていないように感じる。実際、本連載を読んだ人たちからは「初めてCODAを知りました」という感想が次々と寄せられた。
一体なぜ、日本ではまだCODAのことが知られていないのか。
「やはり、CODA当事者で発信する人が少ないのが理由だと思います」
澁谷さんは、長年CODAの研究をしているが、当事者ではない。そのことが、“遠慮”に結びついてしまっているという。
「私はCODAではないから、彼らのことをどこまで発信していいのか、という葛藤が常にあるんです。最近では当事者としてCODAについて研究する若い人たちが出てきました。私自身、手話を勉強しているので理解できる部分もあるんですが、それでも、やっぱり自分には無頓着な部分もある」
「実際、聴覚障害にかんする本を書いたりDVDを作ったりする過程で、CODAと衝突することもありました。私からすると、ろう者や手話に接してきた“聴こえる人同士”と思っていても、彼らからすれば、やっぱり違う、というところはあるんだと思います。シャッターを下ろされてしまったように感じた瞬間もありました」
澁谷さんは、これまでに感じた“見えない壁”の存在を教えてくれた。
「でも、それは(CODAが)自分を守るため。周囲の無理解にさらされてきて、これ以上傷つかないようにと、健聴者との間に壁を作ろうとすることもあるんですね。すべてを理解することは難しいとはいえ、その気持ちは痛いほどにわかります」
CODA当事者にもっと発信していってもらいたい
心のシャッターを下ろしてしまう。記憶を手繰ると、ぼくにもその瞬間はあった。
ぼくにとって、聴こえる世界も聴こえない世界も“ふつう”のことだった。けれど、ろう者が身近にいない人たちにとって、聴こえない世界は未知のもの。ゆえに、理解がない。
両親の話をすると、気まずい空気が流れたり、過剰に励まされたり、憐れむような目を向けられたり、反応はさまざまだった。
ぼくにとっての“ふつう”は、健聴者の世界では“ふつうではない”のだ。そして、“ふつうではない”ことは、日本では“可哀想”にすり替わってしまう。
それまでの“ふつう”が“可哀想”に置き換えられてしまったとき、まるで自分が存在していてはいけないような感覚に襲われる。
可哀想でごめんなさい。同情させてごめんなさい。そんな風に受け止められるのならば、もう黙ります。
そうしてぼくは、両親の耳が聴こえないことを、周囲に打ち明けられなくなっていった。
澁谷さんもそんなCODAたちの複雑な胸の内を知るからこそ、当事者ではない自分が最前線で発信していくことを躊躇っている。とはいえ、今後も協力は惜しまないつもりだという。
「私にできることには限界があります。でも、幸いなことに、当事者として声をあげようとしているCODAたちが育ってきている。だから、今後は彼らの活動をバックアップしていきたいと考えているんです」
「ふつうでいたい」と悩むCODAたち
当事者たちに丁寧なヒアリングを重ねて『コーダの世界』を書き、いまでもCODAについて伝えるための講演や勉強会を行なっている澁谷さん。先日、ろう者を対象とした澁谷さんの講演に、ぼくも初めて参加してみた。
集まっていたのは、まさにいまCODAを育てているろう者たち。聴こえない自分が聴こえる子をどのように育てればいいのだろう。彼らはそんな悩みを解決するため、澁谷さんのもとを訪れていたに違いない。
そこで澁谷さんは、CODAがなにに苦しみ、どんな葛藤を抱き、そしてろう者の親になにを求めるのかを丁寧に話していた。
その姿を見つめながら、ぼくに生まれたのは、ひとつの疑問だ。
どうして澁谷さんは、ぼくたちCODAにこんなにも寄り添ってくれるのだろう。
「CODAについて研究するようになったのは、大学院生の頃。その頃の私は、“まだまだ未熟で当たり前”という感覚で、甘えた部分があったんですね。でも、研究をするために出会った同い年のCODAたちは、みんな自立していてかっこよかった。ここでいう自立とは、経済的な意味ではなく、精神的な面でのことです」
「彼らは聴こえない親に代わって、さまざまな場面で決断を求められます。自ら情報を集めて、わからないなりに判断をする。まだ“大人”に頼ることが多かった私には、その姿がとても立派に見えたんです」
当時の澁谷さんにとって、CODAとの交流は“異文化体験”のようで、とても楽しいものだったそうだ。“福祉”という観点ではなく、ろう文化そのものを楽しむことが起点にあった。
それはつまり、澁谷さんのなかに、“可哀想”という視点がなかったということ。
だからこそ、澁谷さんはCODAにもろう者にも受け入れられ、聴こえない世界を知らない健聴者として、その世界をより深く知っていくことができたのだろう。
ただし、知れば知るほど、見えていなかったものが見えてきたともいう。
「初めてCODAと出会ったとき、私とは違ってかっこいいなと思ったのは事実です。でも、その“違う”という感覚に、彼らは人一倍敏感でした。子どもの頃から周囲との違いを“痛み”として経験してきて、なかには『違うと思われたくない』『ふつうでいたい』と強く思う人たちもいたんです」
ふつうでいたい。それはぼく自身、常に思ってきたことだ。前述した通り、“ふつう”からはみ出してしまうと、途端に“可哀想”な存在になってしまうから。
世間からの視線は、とても怖い。ときには当事者の意志を無視して、ラベリングしてしまう。ぼくが“ふつう”でいたいと願っていたのも、周囲からの“あなたは可哀想な子どもだ”という視線に耐えられなかったからだ。
けれど、澁谷さんのように色眼鏡をかけることなく、試行錯誤しながらCODAと向き合ってくれる人もいる。そういう人が増えれば、きっと幼少期のぼくのように思い悩むCODAも減るのではないか。そのためには、CODA当事者が、怖がらずにもっと発信をしていくことが必要なのだ。
澁谷さんがCODAと出会い、20年ほどが経った。その間、澁谷さんは二児の母となった。すると、またひとつ見えてきたものがあった。それは思春期のCODAたちのリアルな姿だ。
インタビューという名の対話の時間に、ぼくは、まるで自らの過去の傷跡をえぐるような、ひとつの事実に気づくことになる。それは、親からもらった、最大限の“愛情”についてだった。
後編(近日公開予定)へ続く
五十嵐 大
フリーランスのライター・編集者。両親がろう者である、CODA(Children of Deaf Adults)として生まれた。
(編集:笹川かおり)