もしかすると、ぼくは母親の胎内にいたとき、国に“殺されて”いたかもしれない――。
そう考えると、いまこうして原稿を執筆できている状況が、まるで奇跡のように思えた。
2018年9月、衝撃的なニュースを目にした。ろう者である兵庫県の夫婦2組が、国を相手取り訴訟を起こしたのだ。
その理由は、旧優生保護法による“強制不妊手術”。旧優生保護法とはいまはなき法律で、その第1条には「不良な子孫の出生を防止する」と記されていたという。
これは、“障害者から障害のある子どもが生まれてこないように”という歪んだ認識により、強制的に中絶・不妊手術を受けさせるというものだ。
件のろう者夫婦は、“聴覚障害”を理由に、国によって子どもを産めない身体にされてしまった。
同様の訴訟は、2018年1月に提訴された宮城県のものが初。以降、全国から“強制不妊手術”という差別的な行為の被害者となった障害者たちが立ち上がった。
障害があることで、差別を受ける。これは絶対にあってはならないことだ。
健常者のなかには、障害者をことさら特別視する人たちがいる。それが悪意のある差別や偏見として表出することもあれば、過剰な親切心という逆説的なカタチで表れてしまうこともある。
けれど、忘れないでほしい。障害者は別世界の人間ではない。ぼくら健常者と同じ世界に生き、同じように笑い、怒り、哀しむ、ぼくらの隣人なのだ。
ただし、ぼく自身がそう考えられるようになったのは、大人になってからだった。幼少期の頃のぼくは、障害者、特にろう者のことを嫌っていた。
そう、かつてのぼくは、母のことが大嫌いだったのだ――。
耳の聴こえない母親に対する嫌悪が生まれた日
ぼくの両親はろう者である。母は生まれながらにして音が聴こえず、父は後天的に聴力を失った。
彼らはぼくのことを非常に愛してくれた。結婚してなかなか子どもができなかった両親にとって、ぼくは待望の息子だったのだろう。欲しいものはなんでも買い与えてくれ、食卓には事あるごとにぼくの大好物が並んだ。
休日には、父の運転する車でドライブに出かけ、母が作ってくれた弁当を食べる。特に母が作る甘い玉子焼きは絶品で、ぼくはいつもそればかり食べていた。そんなぼくを見て、母はうれしそうに笑っていた。
傍目から見れば、“ふつう”の家族だったと思う。けれど、成長するにつれて、ぼくは自分の家庭が“ふつう”ではないのだと思い知らされていった。
小学生の頃、クラスメイトから言われた言葉でいまでも忘れられないものがある。
「お前んちの母ちゃん、喋り方おかしくない?」
後天性の障害である父とは異なり、母は生まれつき音を知らない。そのため、言葉をうまく発声できないのだ。けれど、ぼくが友人を家に招くと、母は笑顔で「よく来たね」と対応する。
ただし、この「よく来たね」は、「おういあね」とくぐもった言葉となってその場に響く。なにも知らない子どもにとってみれば、「おかしい喋り方」に聴こえるのも無理はない。
ぼくはそれが恥ずかしかった。その感情はやがて怒りや嫌悪となって、胸の内を暴れまわった。
どうして、ぼくの両親は“ふつう”じゃないんだろう。どうして、母は“ふつう”に喋れないんだろう。どうして、ぼくは“ふつう”じゃない家に生まれてしまったのだろう。
もう二度と、友人の前で喋らないで。授業参観にも運動会にも来ないで。ぼくと一緒に外を歩かないで。
このまま、どこかにいなくなって。
ぼくは母にやり場のない想いをぶつけた。そのたびに母は、弱々しく微笑み、「わかった」と頷いた。それが彼女をどんなに傷つけていたのか、そのときは1ミリも理解できていなかった。
「手話を使って話してくれて、ありがとう」と言われた
そんな母の真意を知ることとなったのは、ぼくが二十歳の頃だ。
間近に迫った成人式用に、ぼくは母とふたりでスーツを買いに出かけた。その帰り道、電車に乗っていたときのこと。街から最寄り駅までは、30分ほど電車に揺られることになる。
その間、ぼくは手話を使い、母と他愛のない会話をしていた。
スーツに身を包むことの気恥ずかしさ、バイト先で出会った面白いお客さんのこと、最近ハマっているドラマの展開について。どれもこれもくだらない内容だったけれど、母は楽しそうに頷いていた。
それは、最寄り駅に到着し、電車を降りた瞬間のことだった。母が立ち止まり、「ありがとうね」と手を動かした。ぼくは意味がわからず、「なにが?」と訊き返した。
「電車のなかで、大勢の人たちが見ている前で、手話を使って話してくれて、本当にうれしかった」
母は、そのようなことを手話で表現し、さっさと歩きだしていった。
けれど、ぼくはその後ろ姿を追いかけられなかった。
ぼくは駅のホームに突っ立ったまま、号泣した。周りの人たちは不審そうにぼくを見ている。そんなことを気にする余裕もなく、ぼくはただひたすらに泣いた。
子どもが親と会話をするなんて、当たり前のことだ。けれど、そんな些細なことに喜びを感じるくらい、ぼくは母を追い詰めていたのだ。
「ありがとうね」の裏に隠されている「寂しかった」という感情。この日、ぼくは過去の自分がしてきたことを恥じた。いくら謝ったとしても足りない。
「お母さん、ごめん。いままで傷つけてしまって、それに気が付かずにいて、ごめんなさい。本当は、誰よりもお母さんのことが好きだったのに」。ぼくは、心の中で何度もくり返した。
障害者への無理解が、分断を生み出している
口話、筆談、手話、点字、ボディランゲージ……。この世にはさまざまなコミュニケーション方法がある。共通するのは、“伝えたい”という気持ちだ。それが人と人とをつなぎ、相互理解を促す。
耳の聴こえない両親のもとで生まれ育ったぼくは、その大切さを身にしみて実感した。だからこそ、ぼくは、ライターという職に就いた。言葉の力をもって、分断されているものをつなぎたいと思うからだ。
分断は、“無理解”から生まれる。
“知らないこと”は、恐怖や不安へとつながっていく。
障害者への偏見にまみれた旧優生保護法という悪法が生み出されたのも、障害者に関する知識のなさが一因だろう。もう二度と、あのような偏見があってはならない。
そのためにぼくは、まずは最も身近にいたろう者や難聴者、そして彼らを取り巻く現実について、広く知ってもらうための記事を執筆していきたいと思う。
音が聴こえないことが、どんな不便さをもたらしているのか。彼らにとって、この社会はどれほど生きづらいのか。いったいなにに苦労しているのか。同時に、彼らの人生がいかに幸せなものなのか、可能性に満ち溢れているのか、豊かなのかについても綴っていきたい。
大切なのは、彼らを特別視しないこと。
フラットな目線で、彼らの喜びも哀しみも、伝えていきたいと思う。
五十嵐 大
フリーランスのライター・編集者。両親がろう者である、CODA(Children of Deaf Adults)として生まれた。
(編集:笹川かおり)