慢性骨髄性白血病の事実を明かし、積極的に生きる

人の運命が変わる時とは、ちょっとした勇気を出した時なのだなと改めて感じます。

こんにちは。

がん患者さんの社会復帰を支援するNPO法人"5years"の大久保淳一です。

私は5yearsの他に「ミリオンズライフ」というウェブメディアも運営しています。

日本各地のがん経験者の方を取材して、がん闘病から社会復帰までの感動的な実話を紹介するサイトです。

これまで28名の方(2017年11月時点)の体験談を公開しております。

今回は、藤田誠二さん(慢性骨髄性白血病)をご紹介いたします。

本編は第9話まである長編ですが、ここでは要約した短い内容にさせて頂きます。

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「俺、実は...がんなんだ...」

北九州市八幡東区にある河内貯水池で15年ぶりに再会した幼なじみに打ち明けた。

もうこれ以上がんを隠したくない、そんな思いで明かした事実。

肩の荷が下りていく感じだった。

  • 献血ルーム

2014年9月、北九州市小倉北区にある献血ルームで予備問診を受けていた福岡県直方市在住の藤田誠二さん(42歳、2014年当時38歳)は、医師から不思議なことを言われる。

「白血球の数が11.0(x10*3/μL)と少し高めですね(正常値:3.5~9.5(x10*3/μL))。でもまあこれくらいなら大丈夫でしょう。となりの部屋で献血をお願いします」

このとき幼少のころに感じた、漠然とした不安が頭をよぎった。

小学校4年生のころ女優・夏目雅子さんが白血病で他界したとき報道された連日のニュースを強く記憶している。

「いつか自分もそうなったら怖いな...」そんな不安心理が少年の心の奥底に沈んでいた。

あれから29年。

忘れかけていた記憶がよみがえった。

藤田さんは巨大な製造装置であるプラント関係の会社に勤務していて、そこで工事責任者の仕事をしていた。終末もないほど忙しくつねに現場をまわっている。

■ 腰の痛み

2014年11月、この日も工事現場を回っていたが午前の休憩時間がやって来たので休憩室に入った。そして、その時、

"ズキン"

腰に痛みが走る。

「なんだろ...。これは筋肉性の痛みじゃない...」

嫌な予感がした。

ついつい色んなことを不安に思ってしまう藤田さんは自然とインターネットで情報検索を始める。9月の献血で白血球の数、今月の腰の痛み、何だろう...。

可能性のある病気をリストアップしていくと「白血病」という病名がちらつく。

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■ 異常な数値

12月のある日、妻の淑美さんが「12月だから(=前回献血してから3ヵ月以上空いているから)献血できるんじゃないの?」そう言った。

社会貢献が楽しみの一つの藤田さんは淑美さんと一緒に北九州市八幡西区黒崎にある献血ルームを訪れる。

12月23日。

いつも通り事前に採血して予備問診を受け、待合室で待っていると呼ばれた。

しかし、いつもは献血する部屋に呼ばれるのに、この日は医師がいる部屋に呼び戻された。

「おかしいな...」と思いつつも部屋に入ると医師が、こわばった表情で座っていた。そしてこう言う。

「血液の数値に異常がみられるから出来る限り早く病院へ行って検査を受けてください」

結局この日は献血できずに終わる。

■ 今すぐ来てほしい

インターネットサイトや医学書を読んでこれまで起こったことを確認し調べるのだが、調べれば調べるほど不安感は大きくなっていく。相変わらず腰の骨は痛い。

やがて胃が痛くなり近所のかかりつけ病院へ行った。

かかりつけ医に胃が痛いと言うといつものストレス性のものだろうと返され、胃薬を処方された。

藤田さんは献血ルームでの出来事を明かし、血液検査をしてほしいと自分からお願いした。

翌日、12月29日

朝起きて、洗面、歯磨き、朝食と一通りのことを終え、マナーモードにしてあった携帯電話をチェックすると、あの病院から早朝に2度も電話が入っていた。

なんだろう...。不安になり電話すると「今すぐ来てほしい」そう言われる。

急いで病院に行き診察室に入ると硬い表情をした先生がいた。

血液検査結果報告書をみせて「白血球の数が、18.0(x10*3/μL)と高い」という。

それよりも何より「ブラスト(芽球)値が7という高い値を示している」と説明された。

そして最後にこう言った。

「恐らくですが...、慢性骨髄性白血病の疑いがあります」

初めて"がん"の疑いを告げられた。

「九州病院の血液内科を予約してあります。今すぐに行ってください」

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■ 暗い年末年始

九州病院に行くと、さっそく血液検査と点滴が行われる。ベッドの上で点滴を受けていると妻の淑美さんが駆け付けた。とても心配そうな顔をしている。

やがて医師がやってきて同じことを言う。

"慢性骨髄性白血病の疑い"

直ぐに入院すると思っていた藤田さんが医師に入院の手続きを聞くと「もう年末で病院も休みに入ります。とりあえず自宅に帰ってください。そして年が明けたら最初の日にまた来てください。この年末年始はどう過ごされても大丈夫です」そう言われて自宅に戻った。

それからの7日間、どうやって過ごしたのか記憶がない。

まったく心が浮かない年末年始を過ごしていた。

2015年1月5日

九州病院・血液内科で、骨髄穿刺(こつずいせんし)を受けた。

注射針を背骨に刺して骨髄を抜き取る注射で、失神するかと思うほど気持ちの悪いものだった。

2週間後に検査結果が出て、担当医から「慢性骨髄性白血病の慢性期(C.P)でまちがいないです」そう伝えられた。

"疑い"から"確定"になった瞬間だ。

ただ直ぐに悪くなるものではないので入院するタイミングは藤田さんが決めていいという。

さらに「スプリセル(分子標的薬)」は点滴で身体に入れる抗がん剤ではなく、口から飲み込む錠剤の薬と説明された。

いろんなことが藤田さんの持つがん治療のイメージと違っている。

これを受けて会社の上司に報告。

それからは仕事の引継ぎの段取りがなされ入院は、かなり先の3月3日と決まる。

一方、これまで病気のことを伏せていた母親にも伝えた。

すると母親からは「こんな身体に産んでごめんね」と藤田さんのがんの責任は自分にあるかのように言っていた。

母親が不憫(ふびん)で仕方がなくなる。

■ 治療開始

そして迎えた入院の日、2015年3月3日。

この入院は分子標的薬「スプリセル」の効果と副作用を診るために行われた。

「スプリセル」を服用した初日「ああ自分は本当にがん患者になったんだな」と改めて感じた。

治療の結果、"効果があり、副作用が少ない"

素晴らしい結果から予定を早めて2週間で退院となる。

分子標的薬はよく効いた。白血球の数値は正常に戻り、治療開始以降みてきた指標も順調に下がる。

藤田さんがイメージしていたがん患者の闘病とは異なり、手術をしない、抗がん剤で髪の毛は抜けない、そんな自分の治療を不思議に思っていた。

また「白血病」という"がん"なのに普通の生活を送れることに表現のしようのないありがたさと幸福感を感じた。

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4月から復職し、また普通に会社に行き仕事をする生活を取り戻したが、周囲には自分が慢性骨髄性白血病の患者であることを伏せておいた。

家族以外の他人に同情されたり、哀れみの目で見られるのが嫌だったからだ。

薬のおかげでがんの進行が抑えられ、結果的に毎日会社で仕事ができる自分だが、がん患者には変わりない。

いつか"がん"が薬に耐性を持ち、効かなくなり日が来るかもしれない。

だからいつまで経っても不安はぬぐえない。

いろんな気持ちがごっちゃ混ぜになり心が整理できていないいま、自らの病気を積極的に周囲に打ち明けるなんてできなかった。

だから周囲から「がん患者」と理解されないのがつらくもあった。

一方で、隠しているからまた自分がつらくなる。

そんな毎日が1年も続いた。

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■ 河口君との再会

2016年3月。

がん治療を始めて1年が経ったころ、愛車のオートバイBMW R100RS(1000cc)に乗って、八幡東区にある河内貯水池に行った。  

気分転換をしたかったのだ。

そこでバイクを止めて遠くを見ていると自転車をこいでくる一人の男の人に目が行った。

だんだん近づいてくるその人の顔を見ると幼なじみの河口純一君だった。

ビックリして声をかけると彼も驚いている。

15年ぶりの再会だった。

すぐに打ち解け話しがはずみ、河口君の方から中学卒業以来集まっていない同窓会をやろうよと誘われる。幹事を一緒にやってほしいとのことだった。

自分の身体のこともあり気が進まないので断るのだが、強く誘われる。

余りに熱心に誘われるので、つい言ってしまった。

「俺、実は"がん"なんだ...」

一瞬の静寂(せいじゃく)のあと、河口君からいろいろ質問されるので詳しく説明した。

「あーあ、ついに言ってしまった」

隠し続けてきた"がん"を明かしたことで「しまった」という気持ちが半分、「ほっとした」気持ちが半分、何とも言えない不思議な感じだった。

結局、2017年1月2日に行う中学同窓会の役員をすることになりそのためのFacebook非公開グループの中でも「自分ががんを患っている」事実を明かす。

意外にも多くの仲間たちからコメントを返され、想像していたような腫れ物に触るような扱いはなく昔と変わらずに接してくれた。

それが嬉しくて藤田さんの気持ちはますます軽くなっていった。

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(がんの事実を初めて明かした河口純一君と)

■ 全力で生きるモチベーション

2016年4月。

「藤田君、ちょっといいか...」

職場の上司に呼ばれた。

なんだろう?と思い席につくと、プラントを新規建設する部門の仕事を任せたいという。

「抜擢(ばってき)された!」

がん患者であるにもかかわらず「病人」とか「制約のある人」といった見方ではなく、自分の仕事ぶりと仕事に対する姿勢を評価してくれた。

それが嬉しくてたまらなかった。

また9月にはそれまで自分が温めていたやりたいことを始めてみた。

自らが着てみたいと思うワイシャツをデザインし、材料も調達し奥さんが縫製して仕立てる。

出来上がったワイシャツを着て街を歩いていると何とも気分がいいのだ。

飲食店に入ったとき、友人でもある店のオーナーから「かっこいいワイシャツだね。俺にも作ってよ」

そう言われさらにうれしくなった。

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(自信作の藤田さん手作りシャツ)

「がん」を言い訳にしてやらないではなく、後悔したくないからやる人になっている。

なにごとにも積極的なのだ。

がんは自分に人生を全力で生きるモチベーションと、「人に感謝する気持ち」を改めて教えてくれた。

薬の副作用はつらいけど、こんな病気、自分の大切な人ではなく僕でよかったと思っている。

前向きにとらえ積極的に生きている藤田さんだ。

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自分が「がん」であることを周囲に明かすか、明かさないか。

それは個人の選択だが、取材した藤田さんの場合、河口君に明かしたことで、様々な変化が起きていきました。

人の運命が変わる時とは、ちょっとした勇気を出した時なのだなと改めて感じます。

藤田誠二さんの全記事(1~9話)とインタビュー記事はこちらです。

また、他の28名のがん経験者の方々のストーリー記事はこちらです。

大久保淳一