わが内なる「痴民」と「智民」

産業社会での「市民(ブルジョア)革命」に匹敵する「智民革命」は、すでに少なくとも部分的に実現している。

ニュースサイトの運営者体験をもとに書かれた中川淳一郎さんの『ウェブはバカと暇人のもの――現場からのネット敗北宣言』がネットの世界を震撼させたのは2009年のことだった。ところがその3年後には、市議選への出馬を決意してわずか10日で当選にこぎつけた横田いたるさんの、仲間ネットワークをベースにしたネット選挙の成功例をもとに、湯川鶴章さんが「ネットは実名で前向きな人のものに」なったと論じた。*

それからさらに1年半、ネットの世界はますます分化と分裂の傾向を強めているように見える。

情報社会を構成する人々のことは、「ネットのユーザーとしての市民」と言う意味で「ネティズン(網民)」と呼ばれることがある。私は、ネットを巧みに使いこなしてコミュニケーションやコラボレーションを行う人々という意味で「知民」という呼び方もありだと思っている。

産業社会を構成する人々のことは、都市にやってきて商取引に媒介された生産や消費活動にもっぱら従事する人々という意味で「市民(ブルジョワジー) 」と呼ばれてきた。ところが産業化の進展とともに、市民の間での「階級」の分裂と階級間の対立が顕著になっていった。

カール・マルクスのような人物は、そこに階級間の闘争関係を見出して、「階級闘争史観」を唱えた。情報社会についてもそのような見方は成り立つのだろうか。マルクス的にいえば、産業社会での階級分裂は、富裕者としての「ブルジョワジー」と無産者としての「プロレタリアート」への分裂ということになる。情報社会で言うならば、知識や情報を自ら創造し所有できる人々と、借り物の知識や情報に頼って暮らすしかない人々との分裂ということになるだろうか。もしそうだとすれば、前者は「智民」と、後者は「痴民」と呼び分けてみたくなる。

どちらのグループも、ネット(やクラウド)への「完全接続性」を持ち、スマホやタブレットのような情報通信機器を自由に使いこなせるという意味では、「知民」と総称できる。それは、産業社会の「ブルジョワジー」と「プロレタリアート」のいずれもが、都市生活者であり、市場取引に参加できるという意味で「市民」と総称できたのと同様である。

マルクスは、産業社会の階級分裂は、一握りの「ブルジョワジー」と圧倒的多数の「プロレタリアート」とのあいだの分裂となり、いずれは「プロレタリア革命」によって「ブルジョワジー」が打倒されるはずだと考えた。しかし産業社会の現実は、少なくとも比較的近年までは、そして少なくとも産業化の先発国の中では、これら2つの階級の間に相対的な多数を占める「中産階級」ないし「中間大衆」を生み出す方向に進んでいた。

しかしその後この傾向は逆転して、階級間の格差の拡大が再び、それも加速的に進み始めている。それが「金融資本主義化」に象徴される産業社会自体の進化の帰結なのか、それとも新たに加わった「情報技術化」のせいなのか、明らかではない。もしも後者の影響がより強いとすれば、「知民」の間での階級分裂は、かつての「市民」のそれよりもはるかに急速で苛烈なものとなる可能性がある。

ただしここで次の点に注意しておこう。ニコ・メレが『ビッグの終焉』で指摘しているように、今日の情報社会では、彼のいう「コンピューター・ナード」――私にいわせると彼らは「智民」の一形態である――への権力移行はすでに起こっている。

つまり、産業社会での「市民(ブルジョア)革命」に匹敵する「智民革命」は、すでに少なくとも部分的に実現している。その限りでは、次の政治革命課題は産業社会における「プロレタリア革命」に匹敵する「痴民革命」だ――もちろんこんな言葉を使う人は誰もいないだろうが――という展望は、あり得るだろう。

しかし私はこのような見方にはくみしない。私の見るところでは、「痴民性」と「智民性」は、一人一人の「知民」――私自身も含めて――がそれぞれ何がしかの程度併せ持っている2つの対蹠的属性に他ならない。

それはカーネマンのいう思考の「システム1 」と「システム2」によく似ている。前者にはバイアスがかかっていて、系統的にエラーを引き起こすので後者の熟慮によってチェックされ訂正されなくてはならない。だが、それは決して容易なことではない。私たちは皆、自分自身の中に、ともすれば暴走しがちな、だまされやすい「バカ」を抱え込んでいる。

しかも厄介なことに、わが内なるこの「敵」を根絶することは決してできないだろう。いやそれは「敵」どころか、不可欠の相棒なのである。自分の中にいる「痴民」と「智民」を巧みに協調させていくと同時に、誰しも同じ課題を抱えていることを理解し合いたいものだ。

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