6月初旬に旧ユーゴスラビア諸国を訪問しました。いつか訪れたいと思っていましたが、念願叶ってセルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、モンテネグロへ行ってきました。
ユーゴスラビア連邦は解体される前まで「七つの国境、六つの国、五つの民族、四つの言葉、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」といわれるように多様な人々が共生する国だったんですね。
ユーゴスラビアの指導者ヨシップ・ブロズ・チトーが描いたユーゴスラビアの夢は、なぜ儚くも分裂主義に陥り、崩れ去ってしまったのか。
短い滞在時間で答えを見つけ出すことなど出来るはずもありませんでしたが、比較的長く滞在したボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボでは、今年子ども戦争記憶博物館をオープンさせる若き起業家ヤスミンコ・ハリロビッチさんにインタビューしました。
「子ども戦争博物館」を設立するヤスミンコ・ハリロビッチさんインタビュー
ボスニア紛争時子ども達が体験したようなことを世界の誰もがしなくていいように
18歳で初めてのサラエボの私的ガイド的な本を出版して、とても人気の本になりました。
その後若手アーティストの文化と芸術をプロモーションするUrban Associationを設立して9年になり、現在ではボスニア・ヘルツェゴビナを代表する文化的NGOとなっており、メンバーはパートタイムを含めて20から30人います。
私たちはサラエボで毎年1月に開催される最大の写真展を運営しています。出版部門もあり、私が書いた2つ目本は市長の公式プレゼントに採用されています。
そして3冊目は日本でも出版された『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995』です。この本に関連して「子ども戦争博物館」の設立を準備しています。
去年から10人の人類学者、心理学者や歴史学者と共に準備しており、すでにボスニア紛争当事子どもだった人々から3,000アイテムと3,000の体験談を集めています。
この5月に10日間限定の展示を行ったところ、サラエボで最も訪問者の多い展示プロジェクトの一つになりました。全てのローカルメディアに加えてBBCなどの国際報道機関でも紹介され大成功でした。
博物館のオープンに加えて、研究情報センターもオープンします。早ければ10月には開設することになります。
この6年間、戦争時の子どもたちの体験についてのプロジェクトを行ってきましたが、このプロジェクトは私の人生を完全に変えたと断言できます。
最初にこの「戦場で育った子どもたち」プロジェクトを始めた動機は、戦争時に当事好きだった女性が殺されたという個人的な体験です。当事私は7歳で彼女は11歳でした。彼女のために何かをしようという個人的な体験が出発点でした。
もう一つは何百ものボスニア紛争に関する本が出版されましたが、子どもたちの体験に特化したものはありませんでした。子どもたちは戦争を始める決定に関与しないのにもかかわらず、大変辛い体験をしています。彼らの体験を伝えたいと思ったことが2つ目の動機でした。
そして始めたのがボスニア紛争当時の子どもの頃の戦争体験をインターネットで集めるプロジェクトです。ツイッターのように短い160文字以内の体験談を募集したところ、1,000人もの体験談が集まりました。
その後、これらを本にすることにしたのですが、その過程で彼らから写真や日記や物が集まってきたのです。それでこれらを体験談と共に展示する博物館のアイデアが生まれたんです。人々は体験を物と結びつけて記憶するということに気づきました。
去年2月から準備を始めていますが、とても忙しく大変ですが、一生でこれほど大切なプロジェクトには出会えないだろうと思って取り組んでいます。
サラエボ市内では銃弾の傷跡がある建物をまだ数多く見かける
本を出版し始めた頃は、こんな気持ちではありませんでした。しかし、本が人々の人生を変え始め、やがては私の人生も変えたんです。
例えば戦争後にカナダに移住した当事女の子だった女性が体験談を寄せてくれ、本が出版された時に注文してくれました。
その後、彼女の母親からお礼の連絡が入りました。この本のおかげで娘が当時の体験についてどんな考え方を持っていたのかを知り、戦争後20年経って娘と初めて当時の話をするようになったというんです。
もう1人は戦争中に、足を撃たれて治療のためにドイツに行った後、その後クロアチアに移住したサラエボ生まれの当事女の子だった女性です。彼女も体験談を寄せてくれました。
彼女はトラウマから、ボスニアに来ることがあっても決してサラエボには寄ろうとしませんでした。それが、本の出版イベントに来ないかと誘うと、そのイベントに参加するために18年ぶりにボスニアにやって来たのです。
彼女の家族から、彼女が故郷に帰れたことについて感謝されました。それ以来、彼女は事あるごとにボスニアに来るようになりました。
欧州議会で体験談を寄せてくれた方のビデオメッセージを上映する機会があった時、彼女はメッセージを寄せてくれた一人でしたが、「このプロジェクトのおかげで、もうどこかをさまよう必要がなくなった」と言ったのです。
このように、誰かの人生を変える事の出来るこのプロジェクトは、自分の経営する会社や投資先などよりも100倍重要になり、私の人生の99%を占めるほど私も変えたんです。
まずはサラエボで博物館を開館させた後に、他の国でも設立したいと考えています。戦争時の子どもたちの体験は、どの大陸のどの国であっても共通点があるため、受け入れられると思うからです。
私は「子ども戦争博物館」が国際的な平和構築団体へと進化するポテンシャルを感じています。博物館が、現在戦争で傷ついている子どもたちに世界が気づいてもらうことと、戦争を体験した子どもたちがトラウマを乗り越えるためのプラットフォームとして機能するからです。
サラエボの土産屋では銃弾のペンやオブジェが売られている
私自身の日常にトラウマの影響があるかというと、ありません。しかし健康に影響があるかというと分からないというのが答えです。というのも、健康に問題があるからです。これが子どもの頃の戦争体験と関係があるのかは分かりませんが、当時、劣悪な環境で暮らしていたんです。
私はボスニアの都サラエボで生まれ育ちました。戦争になった時は4歳で、8歳の時に戦争が終わりました。
戦争が始まって最初の3週間は親戚の家に避難しましたが、食べ物がなくて空腹続きでした。そこよりも、サラエボ中心部にあった政府関係の仕事をしている父のオフィスの方が安全だし、戦争もすぐに終わるだろうからと、私たち家族3人と親戚2人の5人で一緒にそのオフィスで暮らすことになりました。
しかし結局、トイレもないこのオフィスで15ヶ月も暮らすことになりました。建物の一階でしたし、周りにたくさんの建物があったので安全でしたが、オフィス前の道で友達が殺されたので、本当に安全ではなかったのでしょう。
しかし幸運だったことは、オフィスの入っている建物に軍もいたので食べ物に困らなかったということと、父が戦争として戦わなくて済み、家族と一緒に居れたことです。
私の妹は戦争が終結した頃に生まれました。多くの人々が家族を失う中、私たちは新しい家族が増えたという意味では幸運だったのです。例えばテレビのニュースを見て、初恋の女性が殺されたことを思い出し2日間泣いたこともありますが、この悲劇によってトラウマを抱えているかというと、そうではありません。
私はトラウマを克服する方法は誰かに経験を話すことと、誰かの経験を聞くことが有効だと思っています。話し、聞くことでトラウマを克服できると保証はできませんが、最低限の手段だとこれまでの経験から思っています。
●インタビューを終えて
ハリロビッチさんの話を聞きながら、何度も膝を打って、なるほど、そうか!と感心しました。
個人的な体験から戦争時の子ども達の体験に着眼し、それらを集合知と言える規模で集めて教訓とすることと、当事者達がトラウマを克服するためのプラットフォームとするアイデアになるほどと。
ユーゴスラビアが崩壊し、民族主義が台頭。いくつもの国に分裂してできた国の一つのボスニア・ヘルツェゴビナでは、現在3つの民族を代表して3人の大統領がいます。
それぞれに互いの主張があり、緊張関係にあるようですが、子どもの頃の体験ならどの民族に属していようが聞きやすい。
サラエボに設立する「子ども戦争博物館」は、民族の垣根を越えて、相互理解を深めるための出発点にもなるのでしょう。
「話し合う機会は大切です。相手も自分たちと同じように苦しんでいることを知れば、相手を受け入れられるようになります。結局のところ、隣人を愛せなければ、自分も幸せになれないのです。博物館が全ての問題を解決出来ないことは知っていますが、それでも解決のために貢献したいのです」
素晴らしい若き活動家に出会えて幸運でした。