2017年10月から、NPO法人アーダコーダでは3人のインターンを迎えて逗子こども哲学教室を開催してきた。それももう半年が過ぎ、この3月で全員がインターン期間を終了する。インターンといっても、実際には教室が開催されるのは月に1回だから、活動としては合計6回だけ。ただし、こども哲学教室の「心の準備」は並大抵のことではない。
そもそも、こども哲学にはこれが正しいやりかた、という正解がない。安心して話せることができる関係を築くことに重きを置いている学校関係のこども哲学があれば、意見を持つことや考えることを大事にする幼児教室のようなこども哲学もある。さらに状況や環境と出会うことで身体的に思考すること、それを友達と伝えあうことすらこども哲学だということもある。
幼児が哲学をするということは、どういうことなのか。まずそこから考えなくてはならない。教室の方針から決めなくてはならないということは、活動の内容にも責任をともなう。こどもと哲学をしたこともないのに、方針を決めて、いざ実施し、思い通りにいくはずもない。
思い通りにいくはずがないとわかっていても、なぜか思い通りにいかないと、「結局、こども哲学ってなんなんだ」「うまくいったのか、いってないのかすらわからない」という憤りが心の中に沸き起こる。いったいこども哲学ってなんなんだ!
そうこうしている間に、インターンの期間は過ぎていき、あっという間にあと2回、あと1回などとカウントダウンがはじまる。こども哲学はなんだかよくわからないままだけど、「私がやりたい実践はこういう感じ」「この子たちと楽しく過ごせてよかった」とどこか開き直ったような気持ちになる。
インターンの気分をわかったような筆ぶりで書いているが、これは私自身のこの数年間の歩みそのものでもある。
哲学という、よく定義さえわからない言葉があるがゆえに、子どもはなんだって哲学しているような気もする。子どもにとって楽しいことは、どれもこれも、過去の偉大な教育者や保育者が実践してきたことのような気もしてしまう。
哲学というのはこういうことですよ、と規定するのは簡単だが、それもまた私にとっての哲学にすぎないのであって、人によって定義が違っていいし、そうした定義を何度も自分の中で反芻する。
答えを求める人にはつらいインターンだし、答えを出せる人には楽しいインターンになる。そんなインターンから新たな視点を得て、私自身も子どもと哲学することに対して、ますます自由に取り組めるようになっていると感じる。
哲学するということの定義を、子どもたちと考えることすら「こども哲学」なのだとしたら、その自由度は高く、活動は多様で、かつ実践者にとって常に楽しいものであるべきだ。シチズンシップ教育として政治的意図を持って取り組む人もいていいし、純粋に子どもたちの疑問を聞くのが大好きな人がいてもいい。
子どもたちの安全だけは確保する最低限の思いやりと知識をもって、それぞれの「こども哲学」が広がっていけばと願っている。