NPO法人アーダコーダでは今年、インターン生を受け入れて、幼児や小学生たちと一緒に哲学をする手法の開発に取り組んでいる。
「こども哲学はこうあるべきだ」という形式ばったものにならないよう、インターンの皆さんが新鮮な視点で改善を続けている。
こうしたほうがいい、ということは僕からは何も言わず、教室の運営も、哲学対話の方法も、全てインターンの皆さんに任せている。
11月のこども哲学教室は、2名のインターン生がファシリテーターとなって、幼児および小学生とすばらしい対話に取り組んだ。
遊びと生活の中にある対話
幼児クラスでは、会場となっている古民家の周辺を子どもたちが「探検」した。円になって座る対話をせず、ひたすら1時間遊びきった。
小学生クラスでは、自己紹介から「好きなもの」「嫌いなもの」について話す自然な対話になり、そこに幼児が混じっての談笑となった。
こうした対話は幼児では「遊び」を中心とする対話、小学生では「生活」を中心とする対話と呼ぶこともできる。
幼児は古民家の周りを探検しているうちに、ゴミを集めるという遊びに集中していった。まさに場との対話、出会うモノとの対話。
言葉で語り合わなくても、「ゴミ」という概念を遊びの中で交換する。真・善・美のような価値について、本物で対話することができた。
小学生ははじめてのファシリテーターについて知りたいし、自己紹介を通じて相互理解を深め、安心できる関係を作った。
生活の中にある自然な対話、必然性を持った対話こそがこどもにとっても、おとなにとっても主体性を持ちやすい。
この日の活動を終えた子どもたちの表情は、大人の誘導する遊びではない自分のしたいことができたという満足感で溢れていた。
こども哲学における大人の役割とは何か
さて、遊びの中の対話や、生活の中の対話こそが、大人もこどもも主体的に取り組める真の対話だとすれば、大人の役割とはなんだろう。
こどもたちはすでに遊びや生活の中で「哲学」しているなら、究極的に言って、こどもだけで対話すればよいのだろうか。
こどもの哲学対話における、大人の役割とは何かを考えると、大きく分けて2つあるように思う。
ひとつは安心、安全を確保すること。どんなことを言うと相手が傷つくのか、あるいは何をするとケガをするのかについて、こどもたちが知らないこともある。
もうひとつは、「その問いは面白い」という感覚を共有することではないだろうか。哲学とは「よい問い」を見つけることだろうと私は思う。
どんな問いに対しても「これが正解かな」とこどもたちは意見を持つことができる。しかし、「答えが1つとは限らない問い」であるかどうかの判断は難しい。
よく考えてみると実は面白い、という問いは日常の中にゴロゴロと転がって溢れかえっているが、それに気付けるかどうかは別問題。
ただし「きみが言ったこと、面白いね」といった発言を評価するような目線ではなく、問いがこどもの側で浮かび上がるような状況が理想だ。
こどもたちが遊びの中で、あるいは生活の中で交わす会話を、対話にすることができるかどうかは、大人のかかわり次第なのではないか。
子どもたちはすでに「哲学者」なのだからと、大人が関わることを放棄するのであれば、ただの遊び、ただのおしゃべりでしかない。
こどもたちが自ら「問い」を見つけたかのように、遊びや活動をデザインするファシリテーターの感性を明文化できればと思う。