PLANETSチャンネルにて好評毎月連載中の 稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』 の前月配信分を、月イチでハフィントン・ポストに定期配信していきます。
※この連載の最新回(第4回「"つながるのその先"は存在するか」(1月7日配信))はPLANETSチャンネルに入会すると読むことができます。
前回連載では「現代のネットカルチャーの成り立ちを考えるために、その前史として『電話ユーザーたちのコミュニケーション』を考えるべき」という問題提起がなされました。今回は、80-90年代に一世を風靡した「ダイヤルQ2」「伝言ダイヤル」を振り返りつつ、富田英典・吉見俊哉らによる「電話コミュニケーション」批評の可能性と限界を考えます。
※本記事は前後編です。前編はこちらから。
吉見俊哉:「音声」のまなざし――1.盛り場としての「伝言ダイヤル」
『博覧会の政治学』『都市のドラマトゥルギー』などの著作で猥雑な都市空間の光景を描き出し、日本におけるカルチュラルスタディーズの第一人者と言われる、現東京大学副学長・吉見俊哉。しかし、そんな彼が若い頃に小劇場ブームの渦中にいたことはあまり知られていない。脚本家の宮藤官九郎らが所属する大人計画より一世代上にあたり、野田秀樹の「夢の遊民社」等とともに小劇場の一大ブームを担った、如月小春の小劇団「劇団綺畸」に所属していたのだ。
そんな吉見の描く都市論は、一言でいえば「ステージなき劇場」としての都市である。そこには演者/観客を二分するステージは存在せず、誰もが見る/見られる関係の二重性を同時に体験する場となる。小劇場とは既存の演劇に対して、小さく濃密な空間でアマチュアを担い手として演じられた一大運動であった。それは限りなく演者と観客が近い場所にいる表現の場であり、都市論から博覧会へと興味を広げていく吉見の研究史は、そんな小劇場の精神を小屋の外へと空間的に拡張していく歴史でもあった。
若き日の吉見が「電話論」に関わったとき、やはり彼は「小劇場」を電話ユーザーの中に見出そうとした。「電話論」の古典『メディアとしての電話』で吉見が担当した二章と四章には、電話に即興的な演劇空間を見出そうとする吉見の強い意思があふれている。特に前回にも紹介した、電話が公共圏から家庭内の親密圏へと侵入していく過程を描写した第二章に続く第四章で、その意思はより顕著になる。
まず第四章の冒頭で、吉見は電話ユーザーの研究を行った鈴木和成の先行研究を元に、対面的なリアリティの場では確保されているコミュニケーションの前提が、電話では崩壊してしまうことを指摘する。吉見が注目するのは、「他者の眼差し」である。
対面的な場のリアリティと回線の中のリアリティを隔てているのは、一方が現実、他方が虚構ということではなく、それぞれの現実構成のフレイムの違いであり、ここにおいて決定的に重要なのは後者における他者の眼差しの不在なのである。
(『メディアとしての電話』p146)
この、回線の中では他者性が欠落した状態の「対面的なリアリティ」が存在するとした認識は、おそらく富田が「親密性」の議論において、都市との対比で述べたのと同じことを指摘している。だが、吉見はそこから電話の中で人間がいかに「身体性」を獲得して、社会的次元を持つかについて議論を進めてゆく。
そこで吉見が注目したのは、伝言ダイヤルのユーザーたちが用いていたジャーゴンだった。ここから吉見は、富田がツーショットを基軸に描き出した領域とはおそらくは原理的に異なる<マス>の領域――すなわち、二者関係でツーショットのナンパ師たちが行っていたコミュニケーションによる相互調整が効かないような、複数形の「他者」たちの領域へと踏み出していく。
彼らの電話回線内での様々な振る舞いは、ある意味で、もともと都市の単身者たちが、盛り場をはじめとする匿名性の場のなかで営んできた関係、磯村英一の古典的な言い回しを借りるなら、「<マス>の場のなかでの<なじみ>の関係」という性格を帯びている。(略)それぞれの「本名」を捨て、ハンドルネームという「仮名」を思い思いに使いながら、見知らぬ相手と行きずりの、しかし親密な関係を楽しんでいくのである。
(同書p162)
吉見俊哉:「音声」のまなざし――2.見知らぬ他者がもたらす空間化と演劇性
そもそも「伝言ダイヤル」とはどんな存在なのか。簡単に言えば、特定の番号とパスワードを決めておけば、それを知っている人が共有で使える留守番電話のようなものである。メッセージは、10件まで登録できて、それを超えると古い内容から消されていく。
このサービスを元々、NTTはビジネス用途での目的で構想したという。しかし、80年代の電話ユーザーたちは、1234や0000などの誰もが思いつく番号とパスワードのスペースを、共有の伝言掲示板として勝手に使い始めてしまった。一説には、驚くべきことにリリースされた年には既に始まっていたという。そこでは、全く見知らぬ者同士が、この伝言ダイヤルを通じて「伝言界」と呼ばれる奇妙なコミュニケーション空間を作り上げていた。
吉見は、この「伝言界」においていかに人間がリアリティを見出し、自らの振る舞いを作り出すのかを考察した。それは、バーチャルな「小劇場」の舞台に、いかにして人間は上がるのかを考えることに他ならない。吉見は「伝言ダイヤル」の先行研究から、彼らの発話に以下の四つの特徴を抽出する。
1)発言の冒頭で名前(現在でいうところのHNと時刻を述べる)
2)身体的なメタファーの多用(踏まれる、蹴られる、あがる、覗く...etc.)
3)空間的なメタファーの多用(受付、部屋、スペース、増築...etc.)
4)間接話法的な発語スタイル(「~ということ」の多用)
まず注目したいのは3)である。吉見は個々の伝言ダイヤルが「部屋」と呼ばれ、参加者の呼びかけを「受付」と呼んだり、新たな伝言スペースを付け加える際に「増築」と呼ばれることを指摘する。
この空間的なメタファーを多用する言語感覚は、後のインターネットにおける同様のコミュニケーションアーキテクチャの用法にも通じている。例えば、チャットやBBSが、しばしば「〇〇部屋」と名付けられていたのを覚えている人は多いだろう。1)にあるような名乗りと日付けの発話にしても、同様だ。HNと日付スタンプが記載されるのはチャットやBBS(に限らずネットのコミュニケーションアーキテクチャ)の標準仕様である。その意味で、実は「伝言界」とは後世に普及したアーキテクチャを、ユーザーが「運用」の水準で対応することによって無理矢理に叶えていた世界であったとも言えるだろう。
2)についても、同様のことがいえる。例えば、吉見は複数の通話者が同時に伝言を吹き込んだために、伝言の録音に失敗することを「けられる」と呼んでいた事例を上げているが、現在でもニコニコ生放送が混雑して入れない際などに「蹴られた」と言い回されることがある。吉見は、こうしたジャーゴンを踏まえて、以下のように「伝言界」の人々の意識を描写する。
彼らは、そこでやはり同じように回線のなかを彷徨っている別の<声としての身体>に踏まれたり、蹴られたりしながら、部屋にあがり、覗きつづけているのである。(略)このようにして、伝言界全体としては、様々な種類の部屋が無数に連なり、高層建築もあれば誰も住んでいない一階建てもあるといった見えない迷路状の都市のような存在として経験されていくことになるのである。
(『メディアとしての電話』p172)
後のインターネットでは、特に黎明期においてこの都市としての認知はより具体化された。例えば、個人サイトは「ホームページ=家」と名付けられ、そうした家たちの集合体を提供していた中には自らを「都市」のメタファーで名づける事業者たちも見られた。中には、ジオシティーズのようにURLをジャンルによる「区画」で区切った事業者までいた。前回に紹介したオフィスから家庭へ、家庭から個室へと移動していく電話の歴史の記述を『メディアとしての電話』で担当したのは吉見だが、ここでの空間のメタファーが、むしろ個室から都市へと逆向きに想像力が巻き戻っていく過程としてあったのは、興味深いことである。
だが注目すべきなのは、ここで単に声が次々に入力されていくというだけの継起的な事象が、部屋から都市のような空間へと遠隔化されていく視覚的メタファーで捉え直されているという事態そのものである。思想寄りのインターネット論に通じた読者は、ここからインターネットを「サイバースペース」として捉える認識についての言説を思い出すだろう。私が思うに、その連想は正しい。だが、これはインターネットが普及する遥か昔に、もちろんカリフォルニアン・イデオロギーなど知る由もないであろう「出会い厨」のような人々が、電話の中で自然に形成していった慣習である。故に、これはある種のコミュニケーションが行われた際に、むしろ人間が必然的に抱く認識の形式であることが示唆される。
そこで注目したいのが、4)の間接話法的な言い回しである。例えば、吉見は以下のような発話をその典型例として紹介する。
はいまたXということでね只今一〇時と五八ぷーん。で、Aさんをはさみましたということでね。えーそうそう忘れてましたのよ。Bちゃんわすれてましたということでね。Cちゃんどうもおはようさんということでねー。(略)そうですよ二三日なんとか休もうじゃないかっていうのをめー(※原文ママ)、目標でやっているんだけどね。ウンなかなか大変よいうことで。取りあえず年内の追い込みですわいうことをお伝えしておいて......
(ニ〇代後半、男、自営業)
(同書p172)
これが対面における会話とは違うのは「ということ」という文語的な言い回しの頻発である。それを吉見は「間接話法的」と呼び、それが伝言ダイヤルに部屋の中でかけているリアルな自分と、「伝言界」の中に形成されたバーチャルな自分の間にあるリアリティの分裂から生じたものとする。そして、別の場所で行ったこうした分析に対して社会学者の大澤真幸が与えた論を、吉見は自らの分析をより高度に抽象化された次元で正確に言い当てたものとする。
「電話という電気・電子メディアとの接触は、個体の身体の内にある違和を生み落とす。この内的な他者性が十分に強化されれば、それ自身固有の独立した身体性を帯びるに違いない」。そして、このように電子的に媒介された違和的な自己の自立化により、「自己の自己に対する断裂」が深まって、「自分自身のこと」が、外部の他者(としての自己)が伝聞したこととして話されるよりほかないような状況が生じるのである。
(著者註・ここでの鍵括弧での引用は「電話の快楽」大澤真幸(『Inter Communication 1号』所収)にもとづく)
(同書p174-175)
つまりは、伝言ダイヤルでは、「電話ユーザー」たちは自分が発話する際に、常に「他者の眼差し」の立場を意識しながら、いやむしろ「他者の眼差し」そのものとなって話しているのである。これが、先に述べた富田のインティメイト・ストレンジャーの関係性とは全く異なることに注意しよう。富田においては「親密」さを帯びて登場したストレンジャー=他者が、ここでは自らを絶えず間接話法的な言い回しに誘うほどに「違和」を与えるようなストレンジャー=他者なのだ。
この両者の差は、おそらくは富田はツーショットを、対して吉見は伝言ダイヤルを元にした分析を中核に据えて、ともに電話に対する理論を導こうとしたことに起因する。それは、おそらくは「外部性としての他者」がそのアーキテクチャに織り込まれていたか否かにある。ツーショットでは、確かに通話の相手はストレンジャーではあるが、それはツーショットのナンパ師たちが鮮やかに示していたように、その場の対話の持ってゆき方次第で融和可能な他者でしかない。
しかし、伝言ダイヤルでは、発話の際には相手から反応は帰ってこず、また次にどういう録音メッセージで反応がかぶさってくるのかはまったくもって未知なのである。そのような未来から到来してくる他者たちの群れを想定することは、ツーショットのような現在の時間に閉じた一対一の対話における他者とは、異なる他者性を帯びてくるだろう。
そして極めて示唆的なことに、そのような未来からの「他者の眼差し」への意識と同時に、1)~3)の特徴――すなわち(クロノス的な)時間と空間の相における場の把握、そして(HNとしてだが)固有名と仮想的な身体が産出されるのである。しかも、そのとき、おそらく未来の時間から到来する他者の群れは、あたかも同じ時間を共有する空間に存在する「群衆」であるかのように把握されている。その空間化された「他者の眼差し」としての「群衆」を受け入れたとき、人間は演劇的な自己演出を始めるのだ。
例えば、「ナンパして実際に会ってみたら容姿にがっかりするので会いたくない」というユーザーの声に注目して、吉見は「回線のなかだけで自己完結するような異性間の関係が演じられる」と主張する。あるいは、主に女性ユーザーが通話相手と対面することを躊躇することに注目する。吉見はそこから「回線内部の出会いの方に、実際に会うこと以上のリアリティを感じてしまう通話者たちが確実に存在していた」と議論を導くのであるが、私にはこの辺は男女問題の機微にまつわる「照れ」の発言以上のものとは思えない。実際、「容姿にがっかりするので会いたくない」と述べていた男性ユーザーは、調査に答えて実際に出会いを行っていたと告白している(それに対して、吉見は「その結末は本論の関心外のことである」と述べている)。
吉見俊哉:「音声」のまなざし――3.20世紀初頭の"ニコ生主"たち
私たちは今や、自らと通話相手とが融け合うような富田のインティメイト・ストレンジャーとしての他者とは異なる、未知なる群れとしての他者の素描に辿り着いている。先にも引用したように、確かに吉見は「対面的なリアリティ」と回線のなかのリアリティの差異は「他者の眼差し」があるか否かであるとしていた。だが、その先で吉見が企図した議論は明らかにそれが回線上でも浮上せざるを得ないというロジックの構築である。故に、その匿名性に注目しながらも、吉見は富田とは全く別の結論を引き出してしまうのである。
このように電子的に構成された回線のなかの自己が、それ自体のうちに単身者的な身体性を帯びているように思われることを強調しておきたい。この電子的な単身者性は、伝言ダイヤルのような電話サービスがはからずも内包してしまった匿名性と無関係ではないのである。
(同書p175)
そして、この単身者という言葉が、まさに都市の<盛り場>に集うような若者たちのイメージとして登場したことを思い出そう。富田には最終的に都市と対立する場として把握された電話が、吉見には都市そのものとなる。富田にとっての電話には身体がなかった。しかし吉見にとっての電話には身体性がある。そこで「他者の眼差し」に各々の単身者が晒されながら発話を続けるバーチャルな都市空間の成立とは、まさに見る/見られるの二重性を体験する「ステージなき劇場」――すなわち「小劇場」の極限としての形式が、電話でもまた成立することに他ならない。吉見がそのことを夢見ていたのは、むしろ「電話」に留まらずに、音声を巡る各種ビジネスの19世紀後半から20世紀初頭における国際的な成立過程にまつわる歴史を書いた労作『声の「資本主義」 電話・ラジオ・蓄音機の社会史』(1995・講談社)で顕著に見て取れる。
吉見はこの本の中で、電話・ラジオ・蓄音機などの音声ビジネスの黎明期に、事業者とユーザーの間で起きていた思惑の激突を描いている。例えば、それらのデバイスを販売する事業者側は当初、離れた場所に一対一でメッセージを送り届ける事務用の「通信」の機械としての用途での普及を有望と考えていた。それに対して、ユーザー側は多くの場合、強引に一対多の娯楽的な「放送」の機械としての利用を仕掛けてゆく。少なくとも、吉見はそのようなユーザーを好んで描く。しかも、そうしたユーザーたちの多くは「専門家」ではない、アマチュアのユーザーたちであった。
例えば、1895年に無線電信装置を発明したイタリアのマルコーニは当初、無線技術をあくまでも一対一の「通信」の装置として発明し、またその方向で普及させることを考えた。しかし、その普及につれてアマチュア無線家たちはすぐさま、そんな事業者の意図を裏切る欲望を込めてゆく。ユーザーたちは、むしろ一対多の「放送」としての無線技術の利用を望んだのだ。
その中で、一種のカリスマとして脚光を浴びたのが米国のド・フォレストというユーザーである。おそらくは一種の香具師であったと思われる彼は、しかし渡仏してエッフェル塔から試験的に無線による音楽放送を披露したり、1915年からはアイビー・リーグのフットボール中継を行うなど、様々な先進的な取り組みを行った。その後も、白人の中産階級の少年たちを中心に、全米の各地で小さなラジオクラブが流行・乱立し、相互の交流も盛んであったという記録が残っている。20世紀の初頭に訪れた、そんなアマチュア無線家たちの楽園を、吉見は甘美に描き出す。
一九一七年にアメリカが第一次世界大戦に参戦するまでの約一〇年間、この国の空には無数の若きラジオマニアたちの電波が行き交い、それらが重層的なネットワークを構成していた。遠く離れた顔を合わせたことのない者どうしが電波で語り合えることが魅力となって、若者たちはつぎつぎに無線ラジオの世界に没入していったのである。彼らは、学校でラジオについての最新情報を交換し、無線雑誌を読みふけり、無線用品店に集い、互いにどれだけたくさんの、そしてまたどれだけ遠くの電波と交信できたかを競っていた。
(『声の資本主義』)
そして、この光景を私たちは知っている。彼らは、いわば20世紀初頭のニコ生主であり、CAS主である。それと同時に、ツイッタラーであり、ブロガーであり、HPの管理人である。そして、「伝言界」の人々であり、きっと「小劇場ブーム」を担ったアマチュアの演者たちである。吉見は「電話論」から始まった音声文化の探求の果てに、20世紀初頭に小劇場としての"インターネット"を発見したのである。
もちろん、吉見がこのあとに描いているように、彼らの創意工夫に満ちた無線技術の使い方は、やがて放送としての無線利用がビジネスと結びつき、また一方的な受信機としてのラジオが大衆に普及してゆくこと、すなわち「マスメディア」の誕生で脇に追いやられていくことになる。そのことを私たちは、今後まさに吉見の文章を手引きにしながら、現代のインターネットを巡る問題として考えていく機会があるはずだ(例えば、増井俊之氏が指摘するような、スマホの大衆的な普及力と表裏一体の受動性は、アマチュア無線におけるラジオの登場を思わせる)。
いずれにせよ、「小劇場」として音声を捉える吉見の論は、最終的にこのようなアクチュアルなビジョンにまで大きく発展する可能性を秘めている。そして、この連載もまた、まさにこの吉見的な発想での、ビジネスモデルの最適化を企む事業者の意図を常に裏切ってゆく、ユーザー文化のダイナミズムに力点を置いて記述するものになるだろう。
次回について:最後の電話ユーザー ――「オナニスト」(浅羽通明)
しかし、その前に、私たちは再び「電話論」に戻ろう。
最後に残された、もう一つの電話ユーザーの描像について考えておく必要があるからだ。それは、個人の欲望の中のみで完結する電話ユーザーである。富田のツーショットが他者との一対一の関係性に完結するユーザーであり、吉見の伝言ダイヤルが「他者の眼差し」の中で一対多の関係性に晒されていたユーザーだとすれば、このユーザーはそもそも他者と関係を持たない。あるいは、自らの即物的な欲望をそのまま満たす場面においてのみ他者を利用する。この最後の描像で、電話ユーザーの分類を巡るMECE(一者-二者関係-三者以上の関係)はひとまず完結する。
そのことを次回、私は消費社会と「おたく」を論じる物書きとして登場した浅羽通明の著作を手引きに考えてゆく。例えば、80年代の浅羽は、吉見俊哉や大澤真幸が、自分の声を他者として捉えていると分析した「伝言界」の住人たちを、むしろ「自分の他者性を希薄化させている」と真逆に把握して、退行的に消費社会を生きる「オナニズム」として唾棄した(「音声のイミテーション・パラダイス」『天使の王国』所収)。
これは富田がQ2ユーザーに「ナルシスト」を見出したこととも違っている。ナルシストは自己愛の鏡として他者を利用するが、オナニストはただ射精するためだけに他者を利用する。それは全く異なることである。だが、そのように伝言ダイヤルを罵倒した浅羽は10年の時を経て、2001年の著作『「携帯電話的人間」とはなにか』で、突如としてモバイル端末となった電話、すなわちケータイに希望を見出すのである。そこで浅羽は何を発見して――そして、どこで決定的に躓いたのか。次回はそのことを考える。
最後に一つ言うと、この問題は現代のインターネットにも通じている。例えば、事業者がKPIの設定で想定しているユーザーは、実はこの最後の自己完結的な人物像を無自覚に前提としていることが多い。SNSやCGMサービスですら、そうである。ましてやECサイトや検索エンジンのような、係数管理を高度に発達させ(ることが可能になっ)たサービスでは、それはことに顕著である。いま浅羽通明の躓きと可能性について考えることは――吉見や富田の「電話論」がそうであるように――インターネットの現在を考えることに他ならない。
(次回に続く)