ムハンマドの風刺画を掲載したフランスの出版社シャルリー・エブドがイスラーム原理主義の過激組織アルカーイダの指示を受けたテロリストによって襲撃され、雑誌編集長や警官を含む12名が死亡した事件は世界じゅうに衝撃を与えました。フランス全土で370万人が「私はシャルリー」の標語を掲げて街頭に出たことでも、その衝撃の大きさがわかります。
この事件は同時に、「表現の自由」をめぐる議論を巻き起こしました。イスラーム諸国の政治家や宗教指導者たちが、テロを強く非難しながらも、ムハンマドの風刺画がムスリムの反欧米感情を煽っていると反発しているからです。
当たり前の話ですが、表現の自由は無制限に許されるわけではありません。オバマ大統領にバナナを持たせた風刺画が掲載できないのはアメリカが圧力をかけているからではなく、人種差別を助長するような表現に「自由」は与えられないからです。
ひとびとが不快に思う表現にも自ずと限界はあります。過去に欧米のメディアが日本の被爆者や原発事故の被災者を風刺したことがありますが、たいていはいちどの抗議で謝罪や弁明に追い込まれ、同様の表現が執拗に繰り返されることはありません。商業出版はお金を払ってくれる読者がいなければ成立しないのですから、シャルリーの編集者や風刺漫画家たちも社会の良識から大きく逸脱することはできず、表現の許容範囲を常に意識していたことは間違いありません。
それなら彼らはなぜ、ムハンマドの風刺画を掲載しつづけたのでしょうか。それは、「ムスリム(イスラーム信者)の感情に配慮する必要などない」と考えたからでしょう。今回の事件で問題とされたのは「表現の自由」という抽象的な理念ではなく、「ムハンマドを風刺する自由」なのです。
ただしこのことを、「キリスト教社会のイスラームへの差別」と短絡するのは間違いです。シャルリーは政治的には左派の出版社で、宗教的な背景はありませんでした。
イスラームだけがなぜ、風刺の対象にされるのでしょう。
ヨーロッパに暮らすムスリムの多くは、現地の社会と同化・共存しています。彼ら世俗化したムスリムは、人権や自由・平等といった市民社会の価値を受け入れ、コーランを現代に適応するよう読み替えています。
しかしその一方で、イスラーム社会のなかにはコーランを字義どおり解釈して、女性に全身を覆うブルカを強制し、働くことを認めず、自由恋愛を許さないひとたちがいます。シャルリーは市民社会の理念と敵対する彼らに対し、自分たちの不快感を理由に「表現の自由」を抑圧する権利はないと主張したのです。テロ事件後に「(ムハンマドを風刺する)表現の自由を守れ」の大合唱が起きたのは、市民革命発祥の地であるフランスだけでなく、ヨーロッパ全土でこうした考え方が広く支持されていることを示しています。
ヨーロッパの移民問題は、民族や人種の対立というよりも、市民社会の理念を受け入れない宗教との対立だと見なさるようになりました。現代社会の根幹がリベラルデモクラシー(自由な社会と民主政)である以上、変わるべきは宗教ということになりますが、それはとても困難な道なのでしょう。
(2015年2月2日「橘玲公式サイト」より転載)