EU諸国も巻き込んだカタルーニャ「異常事態」--大野ゆり子

スペインの「国内問題」では済まされない状況にいたっている。
Juan Medina / Reuters

カルレス・プチデモン・カタルーニャ前州首相のベルギーでの逮捕、保釈の報は、ふたたび欧州メディアの第1面を飾り、「カタルーニャ危機」がヨーロッパに投じた余波は当分収まりそうにない。元来、どういう行動に出るか側近にも予測不能といわれるプチデモン氏は、独立を支持した有権者を置いて卑怯にも逃げ出したのか。それとも何か狙いを持っているのか。いろいろな憶測が飛び交う中、1つだけ確実に成功したことは、「カタルーニャ問題はスペインの内政問題」という態度を続けてきたEU(欧州連合)諸国を、EUの中心ベルギー・ブリュッセルから無理やりに「傍聴席」に引きずり込んだことである。

この2カ月、カタルーニャというスペイン北東部で起きた独立問題は、同じように国内で独立を目指している地方を持つEU諸国にとっては、喉にささった小骨のような面倒なもので、傷が大きくならないうちに、はやくスペインに取り除いて欲しいと願っていただろう。フランスはコルシカを抱え、イタリアはロンバルディア、ベネト地方の問題があり、そしてベルギーは何より、フランダース地方(オランダ語圏)の独立問題を抱えている。これについては後日改めてお伝えする。

新聞記者であったプチデモン氏は、このあたりのヨーロッパ事情を熟知し、ベルギーでも自在にフランス語、オランダ語、英語を操って、逮捕ぎりぎりまで発信し続けた。目指しているのは、12月21日の州議会選挙を意識し、「民主主義を守っていないのはスペインである」とヨーロッパにアピールすることだ。

彼の「執念」とも思えるメディア戦略と狙いの背景は、どこから来ているのだろうか。

独立の「原体験」

10月27日午後3時27分、カタルーニャ州議会はスペインからの一方的独立宣言を可決、「カタルーニャ共和国」を世に誕生させた。しかし同じ日の午後8時26分、スペインのマリアノ・ラホイ・ブレイ首相は、(最後まで使うべきではないという意味で)「核兵器オプション」と呼ばれていた憲法155条を、上院の支持を得て発動した。それに基づいてプチデモン首相を罷免し、州議会を解散、カタルーニャ州の自治権を一部停止した。産声を上げたばかりのカタルーニャ共和国は、わずか4時間59分で消滅したのである。

プチデモン氏の「独立」原体験は、26年前に遡る。1991年6月25日、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国からスロベニア共和国、クロアチア共和国が独立宣言をした時、スロベニア共和国首都リュブリャナにいたのが、プチデモン氏だった。筆者はちょうど同じ日を、クロアチアの首都ザグレブで迎えた。あっという間に泥沼の戦争へと突入していったクロアチアに対し、スロベニアはユーゴ軍との戦闘をたった10日間で決着させて、独立の道を歩んでいった。クロアチア、スロベニアとも「ユーゴスラビアの先進国」であったが、独立をめぐるプロセスとその後の戦争からの復興の進み方にはあまりにも大きな違いがあり、スロベニアは、2004年にEU加盟国となる。

地方紙の記者であったプチデモン氏はこの様子に熱狂し、つぶさに取材したという。

そこから「スロベニア型独立モデル」が、常に彼の念頭に置かれた。共産主義が終焉を迎えていたユーゴスラビアの時代の流れ、ユーゴスラビアも当初のスロベニアもEU加盟国ではなかったこと、スロベニア民族が、歴史的にもむしろオーストリアとのつながりが強く、ストイックで西欧的な価値観があったことなど、このモデルはすぐにカタルーニャに当てはまるわけではない。

しかし、プチデモン氏が注目したのが、国際世論を味方につけたスロベニアのメディア戦略だったという。「悪役ユーゴスラビアに対して、凛と立ち向かう新生国家スロベニア」というイメージを世界に発信し、鮮やかに独立を遂げたスロベニアは、彼の目指すカタルーニャ独立モデルの「原体験」となったという。

「反逆罪」で身柄拘束

スペイン政府は現在、ソラヤ・サエンス・デ・サンタマリーア・アントン・スペイン副首相をカタルーニャ州首相の職務代行に充て、直接統治に乗り出している。

首相を解任された2日後、プチデモン氏は地元サッカーチーム「ジローナ」が強豪「レアル・マドリッド」を見事なタイミングで破ったことに大喜びし、「世界の強豪相手にジローナが勝利したことは1つのお手本で、いろいろな状況で参考になる」と含みを持つツイートをした。そして密かに陸路で仏マルセイユに行き、そこからベルギーの首都ブリュッセルに飛んでいた。

その後10月31日、前閣僚らの一部と、事実上の亡命政権の樹立ととれる記者会見をして、ふたたび国際メディアの注目を浴びたのである。

しかし11月2日には、カタルーニャ州政府の前閣僚8人が、反逆、治安妨害、背任罪などの容疑でスペイン司法当局に身柄を拘束された。さらに同日、裁判所への出頭を拒否してベルギーに残ったプチデモン氏や他の前閣僚4人に対し、司法当局は裁判所に逮捕状を請求した。スペインでは反逆罪は最高30年の禁固刑に処される可能性がある。

そして11月5日の逮捕状発付を受け、スペイン司法当局からの要請を受けたベルギーの検察はプチデモン氏らの身柄をいったん拘束。が、現在は、ベルギーの司法当局がスペインに送還するか否かを決めるまで保釈され、ベルギー国内にとどまっている。ベルギーがスペインに同氏の身柄を引き渡すには、手続き上、60日以上を要する見込みで、そうすると12月21日の州議会選挙時には、プチデモン氏は収監されぬままベルギーに滞在している可能性がある。

ベルギーのテレビ・インタビューに登場し、その点について問われたプチデモン氏は、流暢なフランス語で、「グローバリゼーション時代の今、ブリュッセルからでも十分に選挙活動はできる」と答え、自らの出馬を表明している。

ベルギーが望む望まないにかかわらず、この件はすでにスペインの「国内問題」という他人事では済まされない状況にまでいたっており、むしろ、ベルギーの「国内問題」をも揺るがしているのである。

EU内でも割れる評価

プチデモン氏がカタルーニャを離れたことに対して、国際世論の評価は必ずしも好意的なものばかりではない。

ベルギーのヒー・フェアホーフシュタット元首相は、プチデモン氏を、逃亡するタンタン(ベルギーの人気漫画の主人公)に模した風刺画がEUで出回っていると、フェイスブックに載せた。コメントには、「タンタンはいつでも冒険の解決策をみつけているが、かたやプチデモンはカタルーニャをカオスと荒廃の中に残している」と書いている。

「(プチデモン氏の行動は情けなくて)涙が出る」と嘆くのは、独『フランクフルター・アルゲマイネ』紙のコラムだ。カタルーニャの地元紙『ラ・ヴァンガルディア』のディレクターもコラムで、強制送還をされるような事態を避け、マドリッドに出頭して意見陳述をしたほうが賢明な判断であったのに、と指摘している。

しかし自治権停止によって下火になるはずだったカタルーニャ問題が、再び国際問題のトップニュースとして報じられ、EU内で様々な反応を呼び起こしたことは確かだ。

自分の仲間である前閣僚らの逮捕の報が入ると、プチデモン氏はビデオメッセージで「民主主義に対する深刻な攻撃」とスペイン政府を非難した。

これに対して英国政府は、「スペイン憲法を尊重し、統一を維持する法の支配を望む」と、スペイン政府を支持する姿勢を示している。一方、独立問題が他人事ではないスコットランドのニコラ・スタージョン首相は、カタルーニャ前閣僚逮捕の報にいち早くツイッターを更新。「カタルーニャについてどういう意見があろうとも、選挙で選ばれたリーダーを収監することは間違っており、すべての民主主義者から非難されるべきだ」と、スペイン政府の対応を非難した。

ベルギーも副首相が、「彼らは何も悪いことをしていない」と、プチデモン氏に同情的な発言を行い、スペインとの外交問題に緊張を生みかねない状況である。

州を分断した「溝」

1978年に施行された民主憲法制定以来、自治権が認められたカタルーニャで、スペインの直接統治という異常事態が始まった。予想されていた現場での抵抗もなく、市民生活のレベルでは一見「ノーマルな」1週間が過ぎた。しかし独立に賛成、反対とカタルーニャ社会を完全に分断してしまった溝、そしてカタルーニャとスペインを分断してしまった溝をどうやって埋めていくのか、現状では何も見えていない。

カタルーニャ独立旗、スペインの国旗が翻る街頭での市民の対立は消えたが、舞台は12月21日の州議会選挙という「第2ラウンド」に移り、リングの横にEU諸国を座らせながら、新たなカウントダウンを迎えている。

大野ゆり子 エッセイスト。上智大学卒業。独カールスルーエ大学で修士号取得(美術史、ドイツ現代史)。読売新聞記者、新潮社編集者として「フォーサイト」創刊に立ち会ったのち、指揮者大野和士氏と結婚。クロアチア、イタリア、ドイツ、ベルギー、フランスの各国で生活し、現在、ブリュッセルとバルセロナに拠点を置く。

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(2017年11月7日「
」より転載)

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