【従軍慰安婦と河野談話をめぐるABC 】
- (1)慰安婦問題は「とりあえず謝っておけばどうにかなるだろう」から始まった
- (2) 河野談話はどこで「連合国の戦後処理」を含む問題へとすり替わったのか
- (3)「強制連行の有無」は今でも重要な論点なのか
ここまで、2回の連載で述べてきたことをまとめてみよう。最初の連載で述べたのは、河野談話に至るまでの日本政府の対応には数多くの問題点が存在する、ということだった。日本政府の一連の対応を見る限り、この談話に至るまでの道筋は既に、1992年1月の段階でほぼ決まっており、また、同じ時期に韓国政府もまたそれまでの「慰安婦問題もまた日韓基本条約にて解決済み」と言う姿勢を変更して、何らかの形での補償を求める姿勢へと転じている。その意味において、調査結果が正しかったか否かを離れて、その後の調査は、既に大枠が決定していた解決策へ向けての、「つじつま合わせ」と言われても仕方がない部分を有していた。
そしてだからこそ、その結果として出された河野談話は当初から議論の対象となる運命にあった。この談話が議論の対象とならざるを得なかった理由は、これが最終的に出されたタイミングにもあった。河野談話が出されたのは1993年8月4日。既に前月に行われた総選挙にて自民党が過半数獲得に失敗し、新たに非自民勢力による細川内閣が発足することが事実上決まっていた段階のことであった。河野談話公表の場は、同時に官房長官としての河野の最後の記者会見の場でもあった。既に完全に「死に体」であった政権によって出されたことにより、談話の正当性は大きく傷つけられた、わけである。
第二に、このような様々な問題にもかかわらず、河野談話はその文言を変えることが著しく困難なものとなっている。
その最大の理由は、この談話が当初議論の対象となっていた朝鮮半島から動員された慰安婦のみならず、他の地域から動員された慰安婦をも対象とするものとなっているからである。とりわけこのことは、河野談話が出される段階での最大の焦点であった、慰安婦の動員過程における強制性について、朝鮮半島からの動員についての強制性については元慰安婦自身の証言以外の決定的な文献史料を見つけ出すことが出来なかった一方で、中国や旧オランダ領東インドなど、他地域においては動員過程の強制性が明らかな事例が発見されることにより、決定的な意味をもつこととなった。
重要だったのは、それが当時の日本政府の意図した結果であったか否かにかかわらず、こうして調査対象が拡大された結果として、河野談話における最大の焦点であった慰安婦の動員過程における強制性が明らかな事例、が確保されたことである。実際、旧オランダ領東インドにおけるスマラン事件が河野談話の「強制性」の前提になっていることは、当時の外務省関係者が明確に述べている。
さて、それから20年以上の月日が経った今日、依然としてこの河野談話を巡る議論が続いている。しかし、このような議論は、実際、「今」の段階でどのような意味を持っているのだろうか。最後にこの点について考えてみることにしよう。
まず繰り返し述べているように、河野談話に至る過程で最も大きな議論の対象となったのは、慰安婦の動員過程における強制性の有無だった。だからこそ、現在においても日本における河野談話を巡る議論の大半は、この部分に集中する形で行われている。しかし、ここで考えなければいけないことがある。そもそもこの慰安婦の動員過程における強制性、という問題は、本当に慰安婦問題を考える上で、最大の重要性を持っているのだろうか。
その点を理解してもらうためには、論より証拠、次のアニメーションを見てもらうのがよいかだろう。これは韓国で最も影響のある元従軍慰安婦支援団体、挺身隊対策協議会ら関係者が作った「少女物語」という元慰安婦の生涯を再現したアニメーションである。ちなみに、このアニメーションは同団体が運営する「戦争と女性人権博物館」においても放映されている。
少女物語(英語副題版)
注目したいのは、このアニメーションにて再現されている「少女」が慰安婦として動員される過程である。ここでは、経済的苦境に直面した「少女」が、村長から「千人針工場」に働きに行くと説明されて連れて行かれたのが慰安所だった、という話になっている。つまり、この「少女」は官憲に直接連行されたわけではなく、民間人によって「だまされて」連れて行かれた、という設定になっている。
もちろん、ここでのポイントは、この話が真実か否か、ではない。重要なのは、韓国最大の元慰安婦支援団体やその関係者が、代表的な元慰安婦の事例としてわざわざアニメーションまで作って世界に紹介している事例が、多くの日本人が想像するようなむき出しの「強制連行」の事例ではないことなのである。
このことが意味するのは、もはや、挺身隊対策協議会に率いられるような元慰安婦支援活動を行う人々が、多くの日本人が重視するような慰安婦の動員過程における強制連行――秦郁彦の用語を用いれば「狭義の強制連行」――の有無を最大の争点だと考えていない、ということである。
その理由は幾つかある。第一は個々の慰安婦の動員過程を巡る状況については、そもそも文献などによる立証が極めて困難だからである。
河野談話に至る過程でも明確になったように、朝鮮半島からの慰安婦の動員に関して、当時の官憲が物理的な暴力を行使してこれを行ったことを示す文献史料はいまだ発見されていない。また、個々の元慰安婦の証言を検証するためには、最低限、文献でなくても、これをクロスチェックするための異なる人物による証言など、何らかの元慰安婦自身の証言を検証するための史料が必要であるが、第2次世界大戦終戦から70年近くが経過した現在、それらを新たに集め直すことは容易ではない。
しかし、第二に、そして何よりも重要な理由は、そもそも慰安婦問題に関わる日本政府の責任を追及しようとする人々にとって、動員過程における強制性の証明は、唯一不可欠の方法ではないことである。
そもそも河野談話当時、慰安婦の強制連行の有無が焦点になったのは、この問題が浮上する直前の海部政権期において、労働者の「強制動員」が日韓間の懸案事項の一つとして議論されていたのを受けたものに過ぎなかった。言い換えるなら、慰安婦問題における日本政府の責任を追及する人々にとって、動員過程の「強制性」の立証は一つのオプションにしか過ぎないのである。なぜなら、仮に動員過程において日本政府による不法行為が存在しなくても、慰安婦を巡るその他の部分において何らかの日本政府による不法行為が存在すれば、元慰安婦らはこれを盾に日本政府の責任を追及することができるからである。
だからこそ、今日、慰安婦支援活動に従事する人々は、動員過程の強制性以上に、慰安所における慰安婦を巡る人権状況など、より証明が明確な部分に重点を置いてその運動を展開していることになる。だからこそ、先に紹介した「戦争と女性人権博物館」でも、慰安婦の動員過程における展示が極めて小さな部分に止められる一方で、慰安所における慰安婦たちの劣悪な人権状況が、大きなスペースを取って説明されている。
第三に、さらに言えば、今日、慰安婦問題に関わる人々は、必ずしも当時の法律に照らした上での日本政府の「不法行為」のみを問題としているわけではない。むしろ、彼らが問題としているのは、日本に支配されていた時代の朝鮮半島社会そのものの「不当性」なのである。
例えば、同じ「戦争と女性人権博物館」には、女性が「身売り」せねばならなかったような、当時の朝鮮半島における劣悪な経済状況や女性を巡る人権環境が、慰安婦を生み出した原因である、と説明されている。
だからこそ、今日の慰安婦問題を巡る運動においては、時に日本では興味本位に議論されるような「慰安婦がどれほどの経済的対価を得ていたか」などということも、重要な問題としては扱われることはない。例えば、同じ博物館には、当時の慰安所における「料金表」が掲げられているが、もちろん、それは何かしら経済的見返りを得ていたことを示すことで、日本政府や日本軍を免罪しようとするものではない。むしろ、それは「女性が自らの性を売り物にすることを強制されるような非人道的な状況に置かれていた」ことを示す、重要な史料としてその場に展示されているのである。
いずれにせよ、重要なことは、この20余年の間に、我が国の内外における慰安婦を巡る議論は大きく変化していることである。もちろん、河野談話は当時の日本政府による苦心の産物であり、そこには慰安婦の動員過程における強制性のみならず、多様な論点が含まれている。
しかし、そのことはこの談話が慰安婦問題を解決する上での絶対無比の処方箋であることや、あるいは全く正反対に、これを打破することに成功すれば、慰安婦問題における大きな突破口が開けるような性格のものではない。にもかかわらず、我々は時に、この河野談話の、しかもそのごく一部にしか過ぎない慰安婦の動員過程における強制性について議論することで、あたかも慰安婦問題そのものを議論しているかのような錯覚に陥っている。
重要なのは、「慰安婦の動員過程の強制性の有無についてのみ議論すること」でもなければ、「河野談話について議論すること」でもない。そろそろ20年以上も前の議論の縛りから離れて「慰安婦問題そのもの」や、日本の「過去のそのもの」について真正面から議論すべき時に来ている、と思うのだが、いかがだろうか。