都会で暮らし、遠方の親を看取るということ。母の病気の発覚と、家族の戦い。

父が入院することになった2009年11月からちょうど4年後の2013年11月、今度は母に大腸ガンが見つかりました。

※前編の更新からずいぶんと時間がかかり申し訳ありません。父、そして母の思いを受けて書き始めた記事でしたが、想像以上に周りからの反響があり、自分自身でも言語化することでこのことと改めて向き合うためのエネルギーが必要で、時間を要してしまいました。

【父の病気発見から4年後、今度は母に病気が見つかる】

父を不本意な形で見送った後悔を胸に抱きつつも、母は持ち前の前向きさと明るさで、父のいない日々を過ごしていました。姉弟は実家から離れそれぞれ別々で暮らしていましたが、父が亡くなってから3人の孫に恵まれ、非常にアクティブだった母は子育てのサポートによく来てくれました。

父の死を乗り越えることは容易ではなかったと思いますが、元々地域社会での子育て、介護、障がいがある方のサポートなどを仕事としてやってきた流れもあり、仕事をやめてからもボランティアにも積極的に関わっていて、こんな元気な60代がいるのかと家族ながら思っていました。

しかし、そういった日々も突然終わりを告げます。父が入院することになった2009年11月からちょうど4年後の2013年11月、今度は母に大腸ガンが見つかりました。

東京で仕事をしていた自分の携帯に母からメールで連絡が来たのをよく覚えています。「落ち着いて聞いてほしいんだけど、たまたま近所で検査を受けたら、見つかった」と。

しかしこの時はまだ、見つかっても手術でとれば大丈夫だろうという楽観的な気持ちもあり、念のためということで僕と弟で付き添って地元の大きな病院に行って検査を受けたところ、「既に遠隔転移をしているステージ4」です、と医師から言われました。

唖然とするしかない状況の中で、母は冷静に余命について医師に聞いていたのを覚えています。さらに、この時、医師があまりに重たい事実を平然と患者の気持ちを考えずに伝えてきたことについて、「医師は患者の気持ちを考えなくてはならない」と自分より年下でまだ若い医師に対して注意をしていたのを印象的に覚えています。自分が病気になってなお、あくまで医療のあり方についての客観的な見方も忘れてはいませんでした。

しかし、そんな母の強さとは対照的に、僕自身はこのことが受け止めきれず、病院から帰ってきて他の家族に結果を報告する時に、腰が抜けたようになってうまく話せませんでした。

奇しくも、この日は僕の誕生日でした。誕生日に、母の末期ガンを宣告される。今思い出してもヘビーな体験でした。

【覚悟と、優先順位と、行動】

しかし、父の時にあまりの展開の早さについていけなかったという後悔を持っていた自分たちは姉弟で話し合い、次のことを決めました。もう病気の好きなようにはさせない、と。

1. 大事な時、母がそばにいてほしいという時には、たとえ何があってもそばにいること

2. 母がトライしたいと思ったものは、治療でも、治療以外でも、とにかく何でもトライできるようにサポートすること

3. 母のたっての希望である「最期は家で」ということを必ず実現すること

覚悟が決まれば、優先順位が決まります。優先順位が決まれば、行動が決まります。

しばらく落ち込んではいたものの、その後は気持ちを持ち直して、母が元々付き合いのあった医療者を訪ねて遠くまで行って一緒に話を聞いたり、それぞれで調べた体に良さそうなものを日々の生活に取り入れたり、前向きに取り組んでいきました。

幸いに母は体調に特に変化がなかったこともあり、ひとり暮らしという形態は変わりませんでしたが、新幹線で姉のいる地域に行ってそのエリアの病院で治療を受けることになり、治療中は姉の家に滞在するという二拠点居住ならぬ二拠点治療を始めました。

もちろん、母の心理的負担、不安は想像もつかないほどだったと思いますし、それをずっと近くで見ていた姉や姉の家族の負担も凄まじかったと思います。

しかし、それでも母は前向きにアクティブであり続け、治療が休みの日は車を運転して近くの温泉に入りに行ったりしていましたし、僕らが病院に付き添った帰りには一緒に名所を観光したりもしました。

時間を無駄にできないからこそ、ただ落ち込んでいるのではなく、できることをやろう、楽しむことを忘れないようにしよう。誰もはっきりとは口にしませんでしたが、そういう気持ちをみんなが持って一体となって過ごしていたと思います。

ガンがわかった翌年のGWにはみんなで石垣島に行って、母はシュノーケリングに挑戦して「ガン患者になってもシュノーケリングができた」とすごく喜んでいました。

ガン自体で体調が悪くなることはなく、抗がん剤の影響で手足の感覚の異常、足の裏の腫れ、口内炎などが出て来てつらそうではありましたが、それでもアクティブさを失うことなく、「もしかしたらこのまましばらく大丈夫なんじゃないかな」と思うほどでした。

また、母はすごく限られた人にしか病気のことを明かしておらず、亡くなってからたくさんの人に「全く病気しているように見えなかった」と言われたほどだったので、実際「元気な(言葉は変ですが)患者」だったのだと思います。

当時の母。ステージ4のガンがわかった翌日にも近所の紅葉の名所を巡るなど、心を強く持っていました。

そんな強い母に対して、いったいどんな顔をして写真にうつればいいかわからない、表情のない自分。

【やはり甘くなかったガン】

父の時は、発見してわずか3ヶ月程度で亡くなり、そのあまりの進みぶりには、本当に為す術がないという感覚でしたが、母の場合は見つかってからも体調の変化がしばらくなく、ガンと一緒に生きていけるのではないかというかすかな希望を感じていました。

しかし、病気はそんなに甘いものではなく、確実に母の身体をむしばんでいました。

ガン発見からそろそろ2年が経つかな、というくらいのタイミングで一度母が上京してきて、僕と弟の仕事場を嬉しそうに見学し、歌舞伎座で歌舞伎を見て満足そうに地元に帰っていった後に、骨に転移が見つかり、急速に体調が悪化していきました。

まず目が異常なほど腫れるようになり、それに伴い視界が制限され、運動能力が落ちていきました。また、長時間に渡って意識を失い、親戚が家を訪ねてくれたタイミングで倒れているのを発見される、ということもありました。

さらに追い打ちをかけたのが、強烈な吐き気でした。何を食べても、吐いてしまいます。今思えばこれらは脳の機能のどこかがガンに侵されていたことの結果だったと思うのですが、その時は大きな病院に行って診てもらっても「目が腫れるのと吐き気は薬のアレルギーではないか」「今使っている抗がん剤はそこまで強いものではないから体調が悪いのは一時的なもので回復を待ちましょう」といったようなことを医師から言われていました。

しかし、目の腫れ、吐き気、運動能力の低下、それによる体力の低下、さらにろれつが回らなくなり、たった数週間の間に、もはや一人で病院に行くことはおろか、検査台に乗って医師の言うことを理解し、自分の身体をコントロールすることすらできない、という状態になってしまいました。

父の時もあまりに早い状況の進行ぶりにびっくりしましたが、母の時はそれまでガンになっても何も表面上は問題なさそうに見えた分、さらに衝撃を受けました。

昨日までできていたことが、今日できなくなる。

ほんの2ヶ月まで一人で新幹線に乗って県外の病院にかかったり、東京への旅行をこなしていた母が、県内の移動はおろか、一人で家の周りを歩くことも困難になり、家の中を歩くことも困難になり、入浴やトイレでの排泄も困難になり、一人で立つことも困難になり、一人で食事をすることも困難になる。

これが、2ヶ月の間に起こりました。覚悟はしていたとは言え、凄まじい衰弱の度合いでした。

【家族として何をすべきなのか、何ができるのか】

そんな母の状況の進行に対して、僕たち家族が心がけていたことを、振り返ってまとめて整理してみました。

1. 母が必要だと思った時、いつでもそばにいる 

母の病気がわかった時、僕たち子どもがそれまでのように離れて暮らすのではなく、看病のために実家に戻るということも当然検討しましたし、実際周囲からは「なぜそうしてあげないんだ」という風に言われたこともありました。

ですが、母はあくまで「普段通りの生活をできるだけ長く続けたい」という希望を持っていて、その中には「自分の住み慣れた家で、自分の力で生活を送りたい」という強い思いがありました。

これまでバリバリ働いて、自分の力で生きてきた母の誇りを、病気が奪うことはできない。言葉は変ですが、「さすがうちの母だ」と頼もしく感じることもありました。

もちろん、それでも弱気になること、悩むこと、考えないといけないこと、そういう瞬間はあるので、そこは母の希望に応じて、姉弟がそれぞれ自分の都合に合わせて実家に帰ったり、あるいは自分たちの家に泊まってもらったりして、そばにいるように心がけました。

2. 医師との面談、診療に付き添う 

病院に行くのは誰でも不安ですが、特にガンの場合、症状や抗がん剤の副作用が患者によって違いますし、残された時間をどういう風に過ごすべきかという考え方、標準治療以外をどう捉えるか、という点も医師によって違います。

そういう複雑な状況の中で、医師の言うことを正確に理解し、メモなどで記録し、必要に応じて質問し、自分の考えを伝える、これを患者一人一人に割り振られた極めて短い時間の中で患者一人で行うのはとてもむずかしいです。

家族がサポートしてあげるだけで本人の安心感が全然違いますし、さらに医師に患者の立場で意見を言うのはとても難しい(セカンドオピニオンについて聞くということすらも、目の前の医師を信用してないと思われそうで患者から言い出しづらいという現実があると思います。)ので、患者本人ではなく家族があえて何も知らないふりして聞いてみる、という風に役割分担ができることも大きいと思います。

3. 母の体調に合わせて、とにかく普段通り心地よく暮らせるようにサポートする 

母が病気になってから、色々なものを買いました。浄水器、にんじんジュースをつくるジューサー、抗がん剤の副作用による手足の違和感を防ぐために手を温めるお湯のスプレー、足湯が簡単にできる機械、そして徐々になくなる体力に合わせて操作がしやすい折りたたみ式のベッドなどなど。

僕らが何かを判断するということは基本的にはせず、母が毎日の生活を楽に暮らせるように心がけました。この母の生活のための買い物は全てが印象的ですが、中でも増えてきた薬を入れるためのボックスでかわいいキルト製のものを買いたいと言った時には、雑貨屋を見て回ったりして、そういう細々としたことが生活の張り合いになる、生きる力につながるんだと思いました。

もちろん、買ったもの全てが役に立つわけではありませんでしたし、本当に病気に何が良かったのかは、今でもわかりません。

しかし、母としては自分の子どもたちがこうやって自分の望みを叶えようとしてくれている、本人の意志を尊重してサポートしてくれている、ということを感じることができて、安心して過ごすことができたのではないかと思っています。

最後となる後編では、 離れて母をサポートするということ、そして家で最期を迎えるということについて書きたいと思います。

※この記事の元となった、父の死に対して母が後悔をし、病院からカルテを取り寄せ、自分が記録をとっていたノートと全ての要素を時系列で照らし合わせ、いかに患者主体の医療、そして患者・家族が納得できる最期が可能になるべきか、という点をまとめた書籍「死に場所は誰が決めるの?」。自分が書いた書籍の刊行を待たず、母は旅立ちました。

最後となる後編では、 離れて母をサポートするということ、そして家で最期を迎えるということについて書きたいと思います。

(2017年7月10日 TRAVELING CLASSROOM より転載)

注目記事