両親を訴える。僕を産んだ罪でーー。
わずか12歳の少年は法廷で、まっすぐ前を向いて口を開く。
そんな衝撃的なシーンから始まる映画がある。2018年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門で審査員賞とエキュメニカル審査員賞を受賞した『存在のない子供たち』(7月20日日本公開)だ。
舞台は、日本から遥か遠く離れた中東レバノン。しかし映画が扱うテーマは、子どもの貧困や虐待。途上国のみならず、先進国の日本にも存在する現実だ。
映画は、監督のナディーン・ラバキーさんが3年間にわたって貧困地域に足を運び、リサーチした内容を元に制作された。監督はそこでどんな現実を目の当たりにし、それをどのように作品に落とし込んだのか。
映画の公開に先立って、7月上旬に来日したラバキー監督をインタビューした。
「あなたは今、生きていて幸せ?」「ノー」
主人公のゼインは、貧困家庭に生まれ、十分な衣食住や教育の機会も与えられず、親の愛にも餓えた12歳の少年。
《大人たちに聞いてほしい 世話できないなら産むな 僕の思い出は けなされたことやホースやベルトで叩かれたことだけ 一番優しい言葉は”出ていけ クソガキ” ひどい暮らしだよ何の価値もない》
ゼインはそんな怒りと失望から、自分を産んだ罪で両親を訴える。
「自分を産んだ罪で両親を訴える」というエキセントリックなアイデアはなぜ生まれたのか。
ラバキー監督は3年間に及ぶリサーチ期間で、貧困地域、拘置所、少年院、シェルターなどを訪れ、親にネグレクトされたり虐待を受けたりした子どもたちと対話をしてきた。
私は子どもたちに出会うと、いつもある質問をしていました。
「あなたは今、生きていて幸せ?」と。
そうすると、99パーセントの子どもはこう答えるの。
「ノー」
「生まれてこなければよかった」「私を愛してくれないのに、どうして両親が私を産んだのかわからない」と。
自分の年齢や誕生日すら知らない子どもたちもいた。彼らは、これまで誰からも『お誕生日おめでとう』と祝福されたことがなかった。「今まで愛を感じたことがなく、自分の人生に何の価値も見出せない」そんな子どもが存在する現実に心を打たれた。
「自分を産んだ罪で両親を訴える」というアイデアは、そんな子どもたちとの出会いから「パズルのピースがピタリとはまるように」心に突然浮かんできたもの、と監督は言う。
「確かにアイデア自体は非現実的かもしれない。でも私には、このアイデアが子どもたちの心の底の『怒り』を象徴するもののように思えるんです」監督はそう話す。
虐待する母親「私が彼女たちと同じ状況にいたら…」
映画『存在のない子供たち』は、悲惨な状況に置かれる子どもたちの現実をまっすぐに描き出す。しかしだからといって、無責任な大人を「悪者」として一方的に非難することはしない。
象徴的なのは、ゼインに訴えられ法廷に現れたゼインの母親が泣き叫びながら、自らの苦しさを裁判官にこんな言葉で訴える場面。
《(私たちが)どんな暮らしをしているか考えたことある?一度もないでしょ この先もないわ》
親もまた、貧困から抜け出せない「犠牲者」の一人として映し出すことで、問題の本質を問う。
実はゼインの母親のこの言葉は、ラバキー監督自身が「母親たち」から突き付けられたものでもあったという。
監督はこう語る。
私はリサーチのために、貧困家庭を訪れることがよくありました。そこでは、時に衝撃的な光景を目にすることがありました。
たとえば、1人で家に放置されて、お腹が空いたのか粉ミルクをそのまま頰張る3、4歳の子ども。雨の降るなか服もろくに着ないでバルコニーや屋根の上に締め出される子ども。
私はそんな光景に遭遇するたびに、母親に怒りを感じ、彼らを非難しました。
「どんな親がこんなひどいことできるの?」「母親は一体どこへ行ったの?」と。
「自分は彼女たちに比べれば、まっとうな母親だ」そんなことを思ったりもしました。
でも彼女たちの話を落ち着いて聞くと、私はだんだんと気付かされるのです。
「私には彼女たちをジャッジする資格はない」ということに。
なぜなら私はこれまで、食べ物がなかったことも、靴を買えなかったことも、学校や病院に行けなかったことも、虐待を受けたこともないのだから。
もし私が彼女たちと同じ状況にいたら、果たして彼女たちのようにならないと言い切れるだろうかってね。
「彼女は、いい母親」「彼女は、悪い母親」そんなこと誰が言えるかしら。
人生は、そんなにシンプルなものではなく、もっと複雑で困難なものなのです。
ラバキー監督は、貧困下に生まれた子どもがなかなか貧困から抜け出せない「貧困の連鎖」を指摘する。そして「連鎖するのは、貧困だけではない」と言う。「子ども時代に愛されなかった」という経験も、親から子への引き継がれると。
監督は、すべての子どもたちが持っている「愛される権利」を訴えた。
この世界の多くの問題の根源には、愛されなかった子供時代があるのではないかと思うのです。平和な社会にしたいと思ったら、私たちはまず『子どもたちに何を与えなければならないか』を考えなければなりません。
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日本でも父親や母親からの虐待で子どもが死亡する痛ましい事件が相次いでいる。
厚労省の発表によると、2016年度に虐待によって命を落とした子ども(18歳以下)は49人(心中以外)。また2017年度、全国の児童相談所が受けた虐待相談対応件数は13万3778件に及ぶという。
虐待のニュースが報道されるたびに、私たちは加害者に怒りを覚え、時に痛烈に非難する。しかし、そこで議論が止まってしまってはいけない。もう一歩踏み込んで、虐待の背景を検証すべきではないか。
「私たちは時に問題がとても大きいことに気付くと、どこから取り掛かったらいいかわからず、まるでそれが存在しないかのように振る舞う。だから、『目を背けてはいけない』という自分への戒めのためにも、この映画を作りました。目を背けてしまったら、それは共犯と同じだから」
ラバキー監督の言葉が、私たちの社会にも重くのしかかる。