その子はもう長い間、神経芽細胞腫という小児がんと共にあった。
5歳で発症し、現在17歳。何度も再発を繰り返し今も病床にあった。
なんと人生の3分の2がこの病気との闘いだった。
学校にもなかなか行けない彼は、病床で図鑑を見ていることが多かった。
中でもサボテンに興味を持ち、それは彼の友達の代わりだったのかもしれない。
やがて彼は、サボテン博士になってしまった。
彼には特にお気に入りのサボテンがあった。名はキンシャチというサボテンだった。
そのキンシャチの日本で最も大きなものが、伊豆シャボテン動物公園にあった。
それにずっと会いたかった、、、。
しかし、病気の調子も悪く、その夢はなかなか叶わずにいた。
多くの人は十代の頃、好きな人ができたり、友達といろいろ出かけたりを当たり前にする。
彼はその当たり前のようなことを、少しだけでもできたのだろうか?
もしかすると、普通の十代がするそれらを全てひとつにまとめたものが、彼にとってはそのサボテンだったのではないかと思うのは、少し違うかな?
彼のお父さんはお医者さんだ。小児科ではないけれど。
私は今まで何度も、医者の子どもが病で亡くなるのをみてきた。
きっと、自分には手が出せない無念さを今も抱えているのだろう。
ジャパンハートには"すまいるスマイル・プロジェクト"という企画がある。その企画は、今や多くの人たちに利用され、日本中の小児がん専門機関や医師たちの協力を仰げるようになった。
「好きなときに好きな場所へ」をコンセプトに、小児がんの子どもとその家族に生涯に残る思い出をつくってもらおうと始めた企画だ。ディズニーランド、キッザニアをはじめ、様々な場所に子どもたちを連れ出している。看護師や医師の付き添いはもちろんのこと、毎回多くのボランティアスタッフの献身的協力によってサポートされ、また、拠点病院とも必ず連携している。
このサボテン博士も、その企画に応募してきてくれたのだ。
病状がどんどん進んでいく中、遂に、伊豆のシャボテン動物公園でキンシャチとの出会いを果たせたのだ。
そのときの様子をボランティアスタッフから聞き、本当によかったと、幸せな気持ちになった。
お父さんは黙って子どもの車椅子を、ずっと押していたそうだ。
ただそれを聞いただけで、その父親の心が伝わってくるようだった。
帰る前、サボテン博士はお土産を買いに行った。
お母さんがある写真をみて、サボテン博士に「この花、素敵ねぇ!」と言ったサボテンの花があったらしい。
サボテン博士は今まで貯めてきたお小遣いを使って、そのサボテンをお母さんへのプレゼントとして買ったそうだ。
しかしサボテン博士の買ったサボテンには、お母さんが「素敵!」と言った花は咲いていなかった。
なぜか花の咲いていないサボテンを買ったそうだ。
それには彼の命をかけた願いがあったのだ。
"お母さん!このサボテンの花が咲く頃までは僕は生きているから!"
幸せな一日を過ごしたサボテン博士とその家族は、やがてもとの病院に帰っていった。
数日前、ミャンマーで手術していた時のことだった。
私はいつになく手術に難儀していた。診断名と違い、複雑でなかなか上手く前に進まなかった。うんざりした気持ちで、血だらけになった手術着を一旦着替えに戻ったとき、その知らせが届いた。
彼が亡くなったという、日本からの知らせだった。
私はその瞬間、自分が生きて今、こうして難儀できる幸せを感じ、思い知らされた。
私はなんと幸せなのだと、生きているだけでも十分幸せなのだと。
失いかけた自分のエネルギーが再び充電されていくのを感じた。
最近よく思うことがある。
こころや肉体はこの時空に閉じ込められているけれど、人の魂は時空を越えて存在するのではないかと。
彼の魂は、自分が亡くなる時期を知っていたのではないかと思う。
だからあのぎりぎりの時期に、あの場所を尋ねることができたのではないかと。
ある人が死んだ後も、あるいは生きている今も、どうしてあのタイミングであのことが起こったのだろうかと、不思議に思うことがある。偶然にしては出来すぎているし、偶然で起こる確率などありえないと。
だからきっと、それは偶然じゃないのだと。
私たちの魂は時空を越えてちゃんと知っているのだ。最近、そう信じるようになった。
きっと彼の魂も、お父さん、お母さん、そして二人の弟たちと最期にあそこを訪れるタイミングを決めていたんだと思う。
サボテン博士は二人のボランティアスタッフに、お土産にはこのサボテンがいい、と小さな鉢に入ったサボテンをすすめてくれた。
彼が亡くなったその日は天気がよく、すごく気持ちがいい日で、地方のボランティアスタッフは別々の場所で、同じ日に、偶然にもそのサボテンを初めて外に出し、太陽に当てたそうだ。
きっと彼が、今日は天気が良いからサボテンを太陽に当てたほうが良い、と伝えたのだろう。
そのサボテンは、花を咲かせ、今も彼の思い出と共に生きている。