『彼女は頭が悪いから』ブックトークに参加して見えた「東大」という記号の根深さ

「東大という記号から逃れられないのであれば、誰がその記号を押し付けて、利用して、得しているのかを考えることが重要」

東大で開催された、姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』ブックトークに参加しました。正直、あまりにもモヤモヤする展開で、まるでこの空間自体が「彼女は頭が悪いから」のテーマを再現しているようでした。

今回のブックトークでは、2016年に起きた東大生による強制わいせつ事件に着想を得た小説『彼女は頭が悪いから』の内容から、以下のような内容を話す場だと告知されていたので足を運びました。(以下、告知文章より引用)

・性の尊厳、セクシュアル・コンセントとは?(性暴力事件の再発防止のために何が必要か)

・「学歴社会」と性差別について

・「東大」というブランドとの付き合い方、向き合い方

感想としては、もっと上記の内容に沿った話をしてほしかったです。イベントを企画された林香里教授が開会の挨拶で、

「東大にとって、ジェンダーや性暴力の話題に関して外の空気に触れることは大事。どうしてこういうことが起こるのか? 一部のモンスターが起こすのか? 東大への社会からの過剰な期待や眼差し、そこから生まれるプライドが関係しているのでは? といったことを、この場で考えたい」とおっしゃっており、

司会の小島慶子さんもトークの冒頭でイベントの趣旨として、

「2016年に起きた事件には『東京大学』という記号が深く関与しているのではないか。性暴力を行使する加害者の側の意識、例えば『自分は力がある(お金がある、男性である、高学歴であるなど)のだから、こうすることが咎められない立場なのだ』と考えることがある」

また、「東大はこの社会のエリートであり、勝ち組である、という記号化された学校名であって、今回の性暴力事件の背景の様々な要素のなかのひとつとして注目された。なぜ東大ということがこれだけ記号化されるのか、社会は東大と性暴力事件というものをどう消費したのか、なぜ被害者の女性が叩かれたのかを明らかにしていきたい」

ということを話されていて期待していましたが、まず、登壇者のひとりである東大でジェンダー論を教えられている教授がはじめからお怒りの様子で(おそらく姫野さんや姫野さんの作品に書かれていることに対して)、姫野さんも最初に「控室で挨拶しても怒ってはって......」と話されるくらいでした。会場にもそのピリピリした雰囲気が伝わってきました。

そして話を振られて最初におっしゃったのが、「授業で学生に本を読んでもらって感想を言ってもらったので、それを紹介します」という以下の内容。

「この小説は具体的な事件に入る前に、被害者加害者の描写が続くが、東大生の描写にリアリティを持って読めなかった。今の時代はラブレターを書かないし、東大の女子は1割ではなく2割だし、三鷹寮は広くない」

「また、加害者として描かれている東大生に挫折感や屈折している感じがないのに違和感を感じる。実際の東大生は、東大入学時に高揚感があっても、入ってすぐにテストなどがあって普通はついていけなくて苦労する。女子学生からは『集団としての東大を不当に貶める目的の小説にしか見えなかった』という感想があった」

まとめると、「小説中の東大や東大生の描写が事実と違う」「リアリティがなさすぎて読めなかった」「東大生も苦労をしているし、挫折を経験している」ことを学生たちは感想で述べていたという話でした。

その後のトークでは「この小説に出てくる東大生が、挫折をしている『屈折の醜さ』が表現されないのが、読んでいて違和感を感じる部分だから、挫折をしているという設定があればよかった」という指摘が教授からありました。

それに対して、文藝春秋のノンフィクション出版部担当局次長である島田真さんが以下のコメントをされていました。

「小説とリアリティの問題が指摘されているが、小説家の人はひとつの身体しかなく、その業界や世界の空気すべてを知り、作り上げるのは難しい。文学小説は、自分の状況に合わせて、想像力を働かせて読むもの。もし私の出身大学が舞台で小説になったら、『この詳細部分が違う』と読むのではなく、想像力を使って自分事として小説を読む。この小説にリアリティを感じながら読むには、挫折という要素が必要だという話だけど、これは挫折した東大生と、主体性のない女の子の恋愛小説ではないので、『挫折』という要素はいらなかったと思う」

ちなみに、姫野さんはこの本を東大の方向けではなく、一般書籍として出したとトークの冒頭で述べられました。書籍が商品として売られる以上、一般の人が読んでストーリーを追えるようにする工夫が必要だと考えて書いたそう。

質疑応答で話された東大の先生(お名前をメモし忘れてしまいました)からは以下のコメントが。

「小説を正しい、正しくないという基準で読むのは違うと思うので、この本を読んでそういう感想を持った人は、小説をもっと読んだほうが良い。もっと大きな真実が見えるはず。2016年の事件で5人の東大生が、集団レイプで逮捕されたことは紛れもない事実で、このことは正しい。この本は、『なぜこういうことが起きたのか?』を考えるための色んなヒントを与えてくれる」

また、教員という立場からの意見としてという前置きをした上で、最後に以下を述べられました。

「加害者は在学生3万人中の、5人だけだったからいいわけではない。絶対にひとりの加害者も出さないことを学生と教職員に考えさせてくれる小説だと思って読んだ。これは、日本全体で考えた時も同じ。そして私は教員として、本の最後に出てくる、被害者である美咲の教員のような存在であるかを問いたい。私たち教員は、『自分はそういう教員になれているのか?そのためにできることは?』というのを話し合うべき」

トークの中で私が特に刺さったのは、司会の小島慶子さんによる以下の指摘。

「大事な話をしている途中で、『今この数字が違ったよね、そんな馬鹿な人の話は聞けないね』と人の口を封じたり、正しくないから教えてあげるよ、というスタンスになったり、人間をランク付けする眼差しになったり、という状況にさらされることがある」

最後に紹介したいのは、イベントを企画された東大の林香里教授の言葉。前半でやり取りされた「世間は東大ブランドのことばかり言ってくるけど、実際に入ったら大変で、東大生にも挫折はある。東大生の挫折と他の人の挫折は違うのか?」という話題に対する答えが秀逸で、論点がずらされていた状況を何度も戻そうとされている意志が伝わってきました。

「東大生の挫折と、他の人の挫折は同じかという議論には意味がない。考えるべきは、『加害者が誰か』ということ。東大という記号から逃れられないのであれば、誰がその記号を押し付けて、利用して、得しているのかを考えることが重要。それは、すごくマスキュリンな東大だと思うし、日本社会にそれは地続きにつながっている。だからそこをもっと議論しても良いのではないか」とおっしゃった上で、次のように述べられていました。

「実際は挫折しているとか、詳細の描写が違うという東大の学生がいるのはよくわかるが、それはその小説に入り込めなかった理由になるのか。もし、東大を貶める小説だという結論だとしても、もっと良くしていこうと働きかける相手は、小説ではない。小説の与えてくれた題材を元に議論をすることが重要で、この小説はきっかけだと思う。だから、東大生が『東大生を誤解するような小説は意味がない』と言うのであれば、そういう記号とは違う自分たちをもっと発信するべき」

「誰がその記号を押し付けて、利用して、得しているのか? 東大生として、そこでこそ知性と想像力を働かせて、自分たちで追求する。違う東大というものを考えてみようというクリエイティビティに変えていく力にしていければ、この小説は東大生のためになる」

また、林教授は「今回、姫野さんの小説を取り上げたのは、『東大』という記号を、脱構築したいという思いもあったから。『強い東大』だけでなく、『弱い東大がある』ということに目を向けてもいい。弱さを認めて、さらに強い東大を作ることが大事」とおっしゃっていました。

私は「すごくマスキュリンな東大だと思う。東大の挫折はずっと社会とつながっている」という林教授の発言にあった「マスキュリン」の意味は、「弱さを認められない男性性」のことを指し、「強くあらねばならない東大」から「内省すること」「弱さを認めること」を通じて「脱構築」し、「そこからまた、強く立ち上がること」が我々には必要だというメッセージではないかと考えました。

林教授はご自身の活動説明を冒頭で話された際に、「普段は大学でメディア研究をして、報道記事や番組のあり方を批判している。どんなに批判されることがつらくても、外から不都合なことを批判されることによって組織の中のダイナミズムを、変化を起こすことができる」ということを述べていたので、まさにご自身がメディアに対して行っていることを、自分が所属されている東大という組織に対しても行おうとされていたのかもしれません。

今回のトークを見ていて個人的に意識したいと思ったのは、「自分の加害性に自覚的になること」。誰しもが加害性を持っていて、気づかないところで人を差別したり、抑圧しているという現実があると思います。力を持っている人こそ、その仕組に気づき、自覚的になり、周囲の人や物事に対する優しさや思いやりを持つことが必要だなと実感しました。

登壇された姫野さんは、途中でお腹が痛くなったと言われて、途中で薬を飲まれたほど。こちらのブログにも書かれていますが、元々具合が悪い中でのご登壇だったようです。確かに、遠目から見てもわかるくらい、始終顔が真っ赤で、大丈夫だろうか。。と心配になりました。

ブックトークというものに、今回初めて参加したのですが、作家と作品への敬意があまり感じられない状況で、しかも話すことが本業ではないので本当に大変だったのではないかと想像します。

最後に、個人的に気になったことを2点。

質疑応答の最後のひとりを選ぶ時、大勢の人が手を挙げていたら、「女子学生以外は下げて」と言われ、その後に「東大生以外は下げて」と言われ、私も挙げていたけど手を下げました。すごく違和感を感じると共に、なんだか屈辱的な気持ちになりました。

そもそも、質問するのに女性であったり、オープンで開催されていたのに東大生で絞る必要あったのでしょうか。最初に当てられた3人は偶然東大関係者だったようですが、最後のひとりを当てる時に「東大生以外は下げて」と言われ、「東大のことについて言うのは、東大関係者しかダメですよ!」と言われてるような心境に。東大の女子学生の意見を聞きたい、という意図だったのかもしれませんが、なんだかもやもやしました。

また、参加者による発言で「東大生だけど実際はモテないし、ずっと彼女がいないから親にゲイだと思われていた」というものがあった時、その場でクスクス、とかではなく、ブワッとした大きい笑いが起きて衝撃でした。「そこ、笑うところ?? え、この空間大丈夫???」と思いました。ジェンダーや性暴力に関心がある人が集まっている場だと思っていたので、なおさら。

ちなみに同時間帯に、東大の駒場キャンパスでクィア理論入門公開連続講座が開催されていたのは皮肉だなと。それに参加するか悩んでいた身としては複雑な思いしか抱けませんでした。

私のまとめは以上になりますが、今回のブックトークには15社が取材に入っていたそうなので、それぞれの媒体がどう報じるかも気になります。そこにも色んな力関係や媒体ごとの価値観が見えるのではないでしょうか。チェックしたいと思います。 

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