2015年10月、この月は、国際社会が人道援助の原則など、もはや存在しないと認めた月として歴史に残るかもしれない。
10月3日の早朝、世界はアフガニスタン・クンドゥーズ州にある国境なき医師団(MSF)の病院が爆撃を受けたというニュースで目を覚ました。
10人の患者が犠牲となり、その中には生きたままベッドで焼かれた人もいた。病院で献身的に働いていたMSFのスタッフ13人も命を奪われた。MSFはすぐさま、米国とアフガニスタン当局に連絡し爆撃を止めるよう要請したが、それが聞き入れられることはなかった。他に7人の遺体が見つかったが、爆撃で激しく損傷しており身元はわからないままだ。
米軍による残虐行為が行われたこの日は、MSFの44年に及ぶ緊急医療援助の歴史で、最も暗い1日のひとつとなった。医療施設が武力の標的となることは許されることではないが、紛争地で活動する援助団体にとっては決して目新しいことではない。だがMSFにとって、これほど多くの人命が一度の爆撃で失われたことは前例がない。
戦争にもルールがある
そして今回の悲劇は1件の誤爆事件として片付けることはできない。これは地域で唯一の医療施設に対する攻撃だっただけではなく、国際人道法――つまりジュネーブ条約が定める、紛争地においてもMSFのような医療・人道援助団体の活動を可能にする原則――に対する重大な違反なのだ。
我々が国連欧州本部での会見で「もう限界だ」と声明を発したのは、戦争にも最低限のルールがあり、それなしには医療援助が必要な人びとと、援助を提供する者たちの安全が確保されないからだ。医療施設に対する攻撃は、「コラテラル・ダメージ(巻き添え被害)」を伴った「過失」だったとして謝罪すればよいというものではない。
MSFは、事件の原因究明のため「国際事実調査委員会(IHFFC)」による第三者調査に同意するよう米国政府に要請、それを後押しするため全世界で署名活動を行っている。すでに、日本を含む各国から50万筆以上の署名が寄せられた。
10月の後半には、また別の病院も攻撃を受けた。10月26日夜、イエメン北部サアダ州でMSFの支援している病院が、サウジアラビア主導の連合軍による空爆を受け全壊した。イエメンは内戦状態にあるが国際社会の関心は高くはない。
医薬品の入手を妨げる最悪の協定
アフガニスタンでの事件の衝撃は、こうして悲劇そのものからはるか遠くにまでその影響を及ぼした。しかし同じ週の後半、何百万にものぼる世界の人びとの健康に悪影響を及ぼす、より狡猾な脅威が現われた。
10月5日、環太平洋パートナーシップ(TPP)協定交渉が合意に達した。この種の貿易協定では過去20年で最大だ。新聞紙面では自動車や乳製品に関する大筋合意が大きく取り上げられたが、その向こうには安価な医薬品の入手を妨げる最悪の協定が見えていた。
3年間の非公開協議を経て日本は、より長期にわたって新薬に高価格を課し、ワクチンから抗がん剤、多発硬化症治療薬にいたる全ての医薬品に、不要な独占の延長を許すと合意した12ヵ国の1つとなった。結果が危機をはらんでいるのは明白だ。途上国の患者は、安価な後発薬が手に入るようになるまで、これまで以上に長く待たされることになる。新薬で治療できたにもかかわらず、そこまで長く待てない人もでてくるだろう。MSFは今も、ミャンマーからモザンビークまで、安価で品質の保証された後発薬に頼って、数十万人の患者をそのHIVと結核プログラムで治療している。
MSFは原則として国際的な貿易協定に異を唱えることはない。ただTPPを前例に、より有害な国際条項が生まれ、必須医薬品の普及がさらに阻害される恐れがあると懸念している。しかし時はまだ遅くはない。よりバランスのとれた、正しい未来を人道援助へもたらすチャンスは残されている。
クンドゥーズの悲劇は決して忘れられることはなく、独立した原因調査は国際社会に幅広く支持された。日本を含むTPP参加国の国民と政治家は、国際保健とは名ばかりの、患者のニーズを全く考慮しないこの貿易協定を注意深く精査し、却下できる機会をまだ持っている。
MSFは困難を伴い、危険かつ絶望的な環境で活動することにも慣れている。この10月は新たな課題を我々の前につきつけたが、克服不可能なものではないと信じている。
◆国境なき医師団日本
国際NGO
国境なき医師団(MSF)は、紛争や災害、貧困などによって命の危機に直面している人びとに医療を届ける国際的な民間の医療・人道援助団体。「独立・中立・公平」を原則とし、人種や政治、宗教にかかわらず援助を提供する。医師や看護師をはじめとする海外派遣スタッフと現地スタッフの合計約3万8000人が、世界の約60ヵ国・地域で活動している。1999年、ノーベル平和賞受賞。
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