「ゴルフの祭典」と呼ばれるマスターズは、毎年4月に開催されるシーズン最初のメジャー大会。全米オープンなど他のメジャー大会は開催コースが毎年、変わるのに対し、マスターズだけは常に同じ舞台で開催される。
その舞台とは、世界でも屈指のエクスクルーシブなプライベートクラブとして知られるジョージア州の「オーガスタ・ナショナルGC」。世界中のゴルファーが憧れるその名門クラブの指揮を執ってきたビリー・ペイン会長が、8月23日に突然、辞意を表明した。
それは、世界のゴルフ界に衝撃が走ったほどのビッグニュースだったが、日本ではあまり報じられていない。しかし、ペイン会長の尽力と功績がどれほど多大であったかを私は是非とも日本の方々へ知っていただきたくて、ここにペンを執った。
日本のゴルフ界とは無縁の話だなんて、どうか思わないでいただきたい。そもそも、ペイン会長がオーガスタを率いていなかったら、ひょっとしたら松山英樹の歩みも今とはまったく異なるものになっていたかもしれないのだから――。
門戸が開かれる予感
オーガスタが創設されたのは1933年のこと。ペイン会長は2006年に6代目会長に就任し、それから11年目に、その職を辞することになる。10月16日をもって正式に会長の座から退き、後任は元USGA(全米ゴルフ協会)会長のフレッド・リドレー氏が務める。
ペイン会長は現在69歳。引退するには若すぎると周囲は一様に首を傾げているが、オーガスタから出された声明には、ペイン会長のこんな言葉が記されていた。
「オーガスタの会長を務めることは、私の想像を超えるほどの素晴らしい経験でした。1人の人間が長く独占するのではなく、新しい誰かの新しいアイディアやビジョンを取り入れ、活かしていくことがオーガスタの創設者やゴルフというゲームの未来のために望まれる。私がここで退くことが取るべき道であると思っています」
振り返れば、この11年間、ペイン会長はまさに「新しいアイディアやビジョン」を次々に取り入れ、活かし続けてきた。
あれは2007年のマスターズ練習日のある朝のこと。ペイン会長がメディアセンターに姿を現わし、世界中からやってきていた記者やカメラマン1人1人に挨拶をして回っていた。日本人の私のところにも近寄ってきて「オーガスタ会長に就任したビリー・ペインです。このマスターズとオーガスタをよろしくお願いしますね」と笑顔で握手を求めてきた。
長い間、オーガスタはスノッブで排他的だと思われ続けてきた中で、一介の外国人メディアにも丁寧に挨拶をして回るペイン会長の行動は、とても新鮮で好印象。その姿に、オーガスタの変化と門戸が開かれる予感を感じたメディアは多かった。
そう、ペイン会長はまさに門戸を開き、さまざまなチャンスや可能性を広げることに全精力を投入していった。
次々と「変革」を
全米アマチュア選手権や全英アマチュア選手権の優勝者がマスターズに出られるのだから、同様のチャンスをアジアや他地域のアマチュアにも与えることで、優れた選手が世界へ羽ばたく道がもっと開けるのではないか、ゴルフがもっと盛んになるのではないか。
そうやって2009年に創設された大会が、松山英樹が優勝したアジア・アマチュア選手権(現アジア・パシフィック・アマチュア選手権)だった。2010年の第2回大会を制した松山は、その資格で翌2011年4月のマスターズに初出場。東日本大震災直後というタイミングに東北福祉大在学中の松山は出場を迷ったが、被災地からの後押しで決断し、ローアマ(アマチュアの最高位)に輝いた。松山は翌年も同大会を連覇し、2012年にもマスターズに出場。しかし最終日に「80」と崩れて悔し涙をこぼし、その悔しさを糧に努力と鍛錬を続けてきたからこそ、世界1位、2位を争う今の松山がある。
「メンバーは男性オンリー」という長年の掟をついに変更し、2012年に元米国務長官のコンドリーザ・ライス氏と投資家のダーラ・ムーア氏を初の女性メンバーとして受け入れたことは世界中を驚かせ、女人禁制を貫いてきた英国などのプライベートクラブにも多大なる影響をもたらし、ゴルフ界の男女差別改善に先鞭を付けた。
子供たちによるドライブ・チップ&パット・チャンピオンシップを創設してマスターズウィーク開幕直前に開催し始めたことは、世界中の子供たちやその周辺の大人たちのゴルフへの興味の喚起につながっている。
オーガスタの敷地内に新しいコーポレートテントやアーメンコーナー(最大の難所と言われ、選手はみな祈るしかないという意味の別称)に続く小道を再整備して、ギャラリーの便宜を図った。
今年のマスターズからは完成されたばかりの最新設備を備えたプレスビルディングを初使用。私たちメディアの取材環境は格段に向上した。
隣接するオーガスタCCの敷地(の一部)の買収にようやく成功し、長年の懸案だったアーメンコーナーの13番(パー5)の伸長の目途が着いたのは、今年8月上旬のこと。
それからわずか2週間後に、ペイン会長は引退を表明した。
弁護士時代からの悲願
オーガスタには、オーガスタならではの独自の決まりがいくつかある。いかなるときも走ってはいけない。リーダーボードは頑なに手動を貫いている。携帯電話はコース上では使用はもちろん所持することも厳禁。これはメディアにも徹底されている(プレスビルディング内のみ許可)。
カメラマンを含めたメディアの誰一人、ロープの内側に入って取材ができないのは、他のメジャー大会や欧米ツアーの全大会の中でマスターズだけである(中継局のTVクルーは許可)。
オーガスタのスタッフから聞いた情報であっても、その肉声をそのまま引用することは禁止されている。そんな状況ゆえ、オーガスタ会長の詳細を取材することは限りなく不可能に近い。
そんな中、ペイン会長の弁護士時代から30年もの付き合いが続いているという『USAトゥデイ』のクリスティーン・ブレナン記者による貴重な記事を発見。とても興味深い記事だったので、その内容の一部を紹介させていただこうと思う。
ブレナン記者がペイン会長と知り合ったのは1987年のこと。当時ペイン氏は40歳。ジョージア州アトランタで弁護士をしていた。1984年ロサンゼルス五輪が終わったばかりだったが、ペイン弁護士は1996年五輪をアトランタで開くことを切望して活動しており、ブレナン記者は当時『ワシントン・ポスト』の五輪担当記者として、ペイン弁護士にほぼ密着して取材していたそうだ。
その当時からペイン弁護士は「ゴルフを五輪競技へ復活させよう」「開催コースは是非ともオーガスタで」と考えていたという。それは、まだペイン氏がオーガスタのメンバーでも会長でもなかった時代だが、オーガスタのメンバーが男性オンリーであることはペイン弁護士ももちろん知っていた。
男女差別のある場所で五輪競技は開催できないという理由で「オーガスタでゴルフを」の提案はIOC(国際オリンピック委員会)から却下され、「ゴルフを五輪競技へ」の提案も決着を見ることなく先送りになった。
しかし、ペイン弁護士はひるむことなく、次の一手に出た。まずは女性の能力や素晴らしさを世界にアピールすることが何より先決と考え、どうしたら米国の女子選手がより多くのメダルを獲得できるかをあらゆる方向から検討。さまざまな分野のプロフェッショナルと協力し、実行していった。
その努力が実り、ペイン弁護士が組織委員長を務めた1996年アトランタ五輪では、米国女子選手がサッカー、ソフトボール、バスケットボール、体操、水泳など多種目において次々に表彰台に立った。
ペイン氏が2006年にオーガスタ会長に就任して以降、この11年間で着手し、実行してきた先述の数々の変革は、ペイン会長が弁護士時代から抱き続けてきた壮大な夢の延長線上にあったことを、このブレナン記者の記事によって初めて知り得た人は、きっと多かったはずだ。
託された夢
ペイン会長が退いた後、7代目としてその職を引き継ぐ後任のフレッド・リドレー氏は、1975年の全米アマチュア選手権を制した元トップアマで、1976年から3年連続でマスターズに出場した経験を持っている。
マスターズの元出場選手がオーガスタ会長になるのは、リドレー氏が初となるそうだ。もちろん、リドレー氏にはプレーヤーとしての経験に加えて、ゴルフ界を率いるリーダーとしての経験も備わっている。
2004年から2005年までUSGA会長を務め、2007年からはペイン会長の下でマスターズ委員会の競技委員長としてメジャー大会の戦いの場を整備し、牽引してきた。
2013年マスターズでタイガー・ウッズのドロップの仕方が物議を醸した際、失格ではなく2罰打という裁定を下したのが、競技委員長だったリドレー氏だった。
「私の良き友人であるフレッド・リドレーをオーガスタとマスターズの未来のための会長と呼ぶことを私は誇りに思う」
後任に託したペイン会長の夢が、これからもさらに大きく開花し、実っていくことを信じてやまない。
舩越園子 在米ゴルフジャーナリスト。1993年に渡米し、米ツアー選手や関係者たちと直に接しながらの取材を重ねてきた唯一の日本人ゴルフジャーナリスト。長年の取材実績と独特の表現力で、ユニークなアングルから米国ゴルフの本質を語る。ツアー選手たちからの信頼も厚く、人間模様や心情から選手像を浮かび上がらせる人物の取材、独特の表現方法に定評がある。『 がんと命とセックスと医者』(幻冬舎ルネッサンス)、『タイガー・ウッズの不可能を可能にする「5ステップ・ドリル.』(講談社)、『転身!―デパガからゴルフジャーナリストへ』(文芸社)、『ペイン!―20世紀最後のプロゴルファー』(ゴルフダイジェスト社)、『ザ・タイガーマジック』(同)、『ザ タイガー・ウッズ ウェイ』(同)など著書多数。