孤独は、死の恐怖だった。でも、今は言える「#だからひとりが好き」

「パリピ/ぼっち」と互いを指差しあうことに、多分意味はないだろう。みんな、多かれ少なかれ、誰かとのつながりの中で生きている。

ハフポストの新しい企画「#だからひとりが好き」は、ひとりという選択を肯定したいという思いで始まった。

しかし私は、この言葉は、もしかしたら誰かを傷つけるメッセージかもしれないという恐れも抱いている。

だって、かつての自分を振り返ってみると、「ひとりが好き」というメッセージは、限られた人にしか発することができない言葉のようにも思えるからだ。

それは、中学生だった頃の私には決して口に出せない言葉だった。

孤独は死の恐怖だった、あの頃

私は中学生のとき、学校に行っていなかった時期がある。

当時の私にとって、孤独は本当に怖かった。

最終的に転校が決まるまでの1年間、多くの時間を家で過ごし、とにかく本ばかり読む生活を送っていた。いま自分がいるところから、なるべく遠い遠い世界に没入しようと必死だったのを覚えている。

あの時、「こんなに嫌な思いをしてまで、学校に通う必要はない」と決めたのは自分だった。でも、学校というヒエラルキーの外の世界で生きたことがない13歳にとって、それはとても大きな決断だ。

それは、縹渺(ひょうびょう)たる不安と絶望の中に身を投げたも同じ。中学校という狭い世界を出て、ひとりになった瞬間、私と社会をつなげるものが何もなくなってしまったように感じた。

今まで築いたいろいろなつながりから、自分の存在がなかったことにされる痛みに身を切られながら過ごした1年間。私だけが、どこか深い水の底に沈んで取り残されてしまったみたいだった。

「このままずっとひとりぼっちなんじゃないか」とひとり恐れる一方で、もう外に踏み出していく勇気も持てない。本当に、孤独との戦いだった。

もちろん、今思い返すと、現実はそこまで絶望的ではなかった。

私にも、本当は、学校の外の世界がちゃんとあって、心配してくれる家族も周りの人たちも大勢いた。その人たちが当時支えてくれたからこそ、今また自分は、社会の中にいてもいいんだと思えている。

でも、その渦中にいるときはそんな余裕もない。ただひたすらに、自分が社会そのものから脱落してしまったのだと思い込んでいた。

そうやって「自分は本当に孤独だ」と感じてしまっている時、たぶん人は「ひとりが好き」なんて口にすることはできない。

本当は孤独が辛いのに「ひとりが好き」と言ってしまったら、自分の存在を誰かに認めてもらうのすら諦めることになるからだ。

「人はひとりでは生きていけない」とはよく言われている。でも、実際にそうであるなら、自分が完全に孤立した状態を受け入れることは、それはすなわち死だ。

どんなにひとりが好きだろうと、誰もが誰かの力を借りて生きているのは本当だし、だからこそ、「ひとりが怖くない」と言えるのは「本当は孤独じゃない」ことの裏返しだと私は学んだ。

大学生になった今の私は、もう違う。ひとりで過ごすのはまったく怖くないし、ラーメンも旅行もディズニーも、一人でどこにだって行ける。

それは、今の私には、待っててくれている家族や理解してくれる友達がいると知っているからだ。

もしかしたら周りから「ぼっち」とか「根暗」とか思われているかもしれないけれど、それも全然気にかけていない。孤独を味わったからこそ、私を支えてくれる人はちゃんといるんだと知ることができた。

パリピが「つながり」を求めるのは、リアルな「人との関わり」を感じたいから?

でも、だからといって「パリピ」や「ウェイ」と呼ばれるような人たちが、自分と正反対の存在だとも私は感じない。

彼らのように"誰かと一緒にいること"に至上の価値を置いている人たちは、むしろ、かつての私のように孤独だからなのかもしれないと思う。

あまり考えたくないけれど、それは、機械化が進んだことで、徐々に「人とのつながり」が手の届きにくいものになっていることとも関係しているのではないだろうか。

自分にぴったりのファッションアイテムを探すのも、今ではお店にいって店員さんとやりとりするよりもネットで検索する方がよほど安上がりなことが多い。

友達と会話をするのだって、「リアル」のコミュニティに属していたら、時間や交通費やカフェ代をかけないといけないけれど、Twitter上だったら、そんなことをしなくても同じ話で十分盛り上がれる。

インターネットを介すことによって、人付き合いにかかるコストが減るケースは、格段に増えているのではないか。

また、同じSNSでも、会話をメインにしたTwitterに対して、写真などがメインのFacebookやInstagramには、「リアル」で誰かと一緒に行動しているライフイベントがあふれている。

そんな投稿をしている彼ら、いわゆる"パリピ"や"リア充"たちが「見せびらかしている」というやっかみの視線に晒されながらもそれを続けるのは、リアルな「人との関わり」が貴重なものになっていることの裏返しなのではないだろうか?

以前のように、それが当たり前のものだったら、わざわざ投稿することもきっとないからだ。

"パリピ"の中にいる人の方が、本当は孤独かもしれない

私にも、「パリピ」とか「婚活」とか「キラキラ系Instagram」とかを見て、そちらが主流のように見えて、疎外されたように感じる瞬間がある。

けれど、"不良"少年たちの実像が、しばしば、家や学校に居場所をなくして仕方なく繁華街にいるだけであることが伝えられるように、もし彼らの中にも誰かとのつながりを求めている「はみ出し者」がいるとしたら、一体どうだろうか。

孤独を恐れた過去の私や、今「ひとり」に見えて周囲に支えられている私と、根本的に何が違うのだろう、と思う。

社会的に排除されている人が、本当は「パリピ」の中にいてもおかしくない。

そして、一見「パリピ」に見えている彼らの中に孤独を抱えてつながりを求めている人がいるとしたら、むしろ「ひとり」でいられる人の方がよほど、環境や社会の変化に適応できているとも言える。

だから、「パリピ/ぼっち」と互いを指差しあうことに、多分意味はないだろう。

みんな、多かれ少なかれ、誰かとのつながりの中で生きている。

ひとりじゃない。 #だからひとりが好き。

だから私は、今日から始まる「#だからひとりが好き」というカテゴリに、期待感と恐れの両方を感じている。

それは、「結果的に誰かを排除することに繋がってしまうのではないか」という個人的なフラッシュバックでもある。

「ひとり」になるのが怖かったら、決して「ひとり」が好きとはいえない。

そして、そういう人たちに向けてむやみに「ひとり」を強要するのは、してはいけないことだと思う。

少なくとも、中学生の頃の私に「ひとり」を強要したら、彼女はきっと追い詰められてしまっていただろうから。

しかしそれと同時に、いつかは誰もが「ひとり」を楽しめればいいな、とも強く願っている。

世の中には、いま自分が孤独で辛いと感じてしまっている人もきっとたくさんいるだろう。

精神的に追い詰められている人も、セーフティネットぎりぎりのところで声をあげられないまま立ちすくんでいる人もいると思う。自分を振り返っても、そうだった。

既にある「つながり」に気づけていない人は、その存在に気づいて焦りを取り除ければいいし、本当に社会的な助けを求めている人は、1秒でも早くその状態から抜け出せるようにしたい。

逆説的だけど、私はこの「#だからひとりが好き」カテゴリを通して、やんわりとした、でも確かな「つながり」が広がっていく社会を目指したいと思う。

「ひとりじゃないから、ひとりでも大丈夫」と胸を張って言えるようなコンテンツが、このページからたくさん飛び立って人々の間のクッションになる。そんな役割を少しでも果たせるのであれば、ハフポストに関わる「ひとり」として、それ以上に嬉しいことはない。



ハフポスト日本版は、自立した個人の生きかたを特集する企画『#だからひとりが好き』を始めました。

学校や職場などでみんなと一緒でなければいけないという同調圧力に悩んだり、過度にみんなとつながろうとして疲弊したり...。繋がることが奨励され、ひとりで過ごす人は「ぼっち」「非リア」などという言葉とともに、否定的なイメージで語られる風潮もあります。

企画ではみんなと過ごすことと同様に、ひとりで過ごす大切さ(と楽しさ)を伝えていきます。

読者との双方向コミュニケーションを通して「ひとりを肯定する社会」について、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。

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