福島の子どもたちへ 「自信をもって生きていきなさい」

胸を張って、自信を持って言いましょう。「福島の子です。関東の方々の電気のために私たちが犠牲になってあげたのです」と。

昨今、福島から自主避難した子どもたちが虐めにあっていたという問題が浮上しています。

これは今に始まったことではなく、震災直後のあの忌わしい東京電力福島第一原子力発電事故直後から、それは数えあげたらきりがないほどの実例があります。

私も、たくさんの若いママたちや子どもたちからの相談や愚痴を聴かせてもらいました。

震災直後に、任意の市民団体「ベテランママの会」を立ち上げたのは、そういった弱者の声を拾い集めることからのスタートでした。http://veteran-mama.com/

私も避難所にいる時には、大津波から逃れて来た高齢の男性や女性の悲壮な体験談を聴かせていただくことが多く、あの時の臨場感たっぷりの壮絶な体験談は、今思い起こしても心が苦しくなる実話ばかりです。

その後、一番多く寄せられましたのが、福島から避難した方々の差別や虐めについての相談でした。

「被災者とバカにされた」

「福島ナンバーの車に、釘のようなもので傷つけられた」

「車に生卵をぶつけられた」

「放射能移るんじゃない?とばい菌のように扱われた」と言うのは、報道と同じです。

ひどいものは、「放射能や子どもの健康不安に苛まれているよりもと思い、一家で決心して関東へ着の身着のまま避難して来ました。子どもたちを学校へ行かせてやることができるようになり、ようやく少しの落ち着きを取り戻したと思っていたのに、今朝、玄関前に、人糞が置かれていた・・・」というものもあります。

泣きながら電話されてきた若いお母さんに、私は「それは犯罪だから、警察に訴えていいのよ」と言いました。顔も知らない福島出身の若いお母さんの屈辱的な思いを、しばらくの間、電話で伺ったことが思い出されます。ご近所の皆様も、放射能汚染されたであろう福島県民が、自分の近くにやってきたと、恐怖以外の何ものでもなかったのでしょう。逆の立場なら、私も同情しながらも恐怖心や警戒心が芽生えたかもしれないと、避難先の方々の気持ちを想像したりもしました。

あの方々は、今どうしていらっしゃるのか・・・その後の消息はわかっていませんが、お元気でいらっしゃることを望んでいます。

福島県民の心の闇は、あの原発事故から始まりました。

まぎれもなく、あの日からすべてが始まりました。

放射能や放射線を知らないから、不安が余計に、心に負担を加担させると、私はそのように考えました。避難所にいる時に、テレビが支援で持ち込まれ、「直ちに健康に被害はない」がリフレインされても、私たち自身も不安が拭えない日々が続きました。

傾聴を続けてきた「ベテランママの会」が次に行い始めたのが、東京大学医科学研究所から、毎週、南相馬市立総合病院に来てくださっていた坪倉正治先生と放射線勉強会をスタートさせたことです。冊子も作成いたしました。

それもこれも、不安でたまらない人々から、少しでもストレスを緩和させてあげたくての思いでした。

また、東京の大学にデビューした若者たちが、福島出身ということで揶揄され、傷つき、たくさんの悩みや相談が寄せられました。せっかく入学した大学に通学できなくなった学生さんもいます。

最初は喫茶店などでお話しを伺っていましたが、じっくり話を聴く事が出来て、泣ける場所があったらいいのに・・との思いで、「番來舎」を立ちあげました。

この「番來舎」立ち上げには、実に3年半の年月を要します。

「福島の人に貸したら、マンションの価値が下がる」と言われたこともあります。

「福島の人たちが出入りしたら、放射能落としていくんじゃないか」と不安な声をぶつけられた事もあります。ようやく3年半かかって、福島出身でも気にしないオーナーさんとの出会いがあり、「番來舎」は駒場東大前にサロンとして構えることができたのです。

そこでは、福島出身のお母さんや学生の悩みを聴いて上げたり、福島に関わる先生方の講演会を開催したりしています。悩める方々は気軽にお訪ねください。いつも常駐しているわけではありませんので、ご連絡をいただいて日程調整しましょう。

私自身も避難所にいるとき、体調を崩し、都内に出た折に病院に受診することが度々ありました。福島県南相馬市の保険証を提示しますと、受付嬢は、ハッとした顔で私を一瞥し、慌てふためいたようにドクターのところに顔色を変えて飛んでいくというのが、何度か病院で受けた私の洗礼です。

別室に通され、患者さんが順番を待つ待合室は通らず、裏から入るように指示されたとき、たくさんのお母さんが泣いて訴えてきた「差別」「ばい菌扱い」はこのことか、とわが身で体験させてもらいました。何度も聴かされていた話でしたので、むしろ私にも来たかという新鮮な印象でした。

放射能は移りません。

知らない人には、そう教えてあげましょう。

福島の子どもたちは、正しい知識を身につけ、知らない人には正しいことを教えてあげましょう。

私は最近の講演で、「除染した汚染土や草木が入っているフレコンバッグは、東京電力の電気を使っている関東の人たちの物で、われわれ福島県が1000万袋もお預かりしてあげている」と話して来ます。

ポリエチレンの袋に入れられたそれは、福島県内11万4700箇所の仮置き場にとりあえず置かれています。中間処理施設はたったの2%しか契約できておらず、最終処分場の話も決まっていません。予想では、2200万㎥にもなり、東京ドームで換算すると18杯分と言われています。

福島は関東のために電気を作り、それを送り、そして原発事故後は、それで出た汚染土をお預かりしてあげているのです。何も恥じることはありません。

むしろ感謝してもらうべきです。

いろいろな考えや事情があっての避難生活だと思います。

故郷を追われ、やむなく住まいを変えたストレスは、それは体験したものにしか理解できない話です。ある日突然、今までの普通の暮らしを奪われた我々の胸中を想像しろと言っても、それは土台無理な話です。

ただひとつだけ言えることは、福島の子どもたちは恥じてはいけないということです。

むしろ胸を張って、自信を持って言いましょう。

「福島の子です。関東の方々の電気のために私たちが犠牲になってあげたのです。」と。

私は、自分の子どもが小さかったら、どう教育していただろうかと考えることが時折ありますが、なんと言われても、やはり正しいことを教え、自分の言葉で故郷を語れるように育てたであろうと思います。

「自信を持って生きていきなさい」私から悩める福島の子どもたちへのメッセージといたします。

(2016年12月27日「MRIC by 医療ガバナンス学会」より転載)

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