バングラデシュは、1971年に独立以来、唯一の公用語(公共語でもある)ベンガル語(またはバングラ語)を持つ国として知られているが、今バングラデシュとして知られている地域は、何世紀にもわたって、多言語地域として存在していた。
歴史の初期に、この国には、様々な言語話者共同体即ちオーストロ•アジア(ムンダ)系、チベット•ビルマ系、ドラビダ系の言語話者が各地域に分布していた。この地域に長い間続いていた多言語状況は、次の時代に二段階の外来民族の移住によって大きく変わった。
最初は、紀元頃までにアーリア言語話者共同体の移住があった。第二段としては、10世紀の初頭から英領インド期までに、中央アジア諸国から様々な民族即ちアフガン、アラビア、ペルシャ、トルコ系民族のイスラーム教徒が移住してきた。
アーリア人が話す言語は、インド•アーリア系言語(通称サンスクリット語の一種)だったが、その方言の一種であるプラークリット語(自然に形成された言語の意味)が、先住民族の各言語と接触を行うようになった。移住してきたインド•アーリア系民族言語が支配的となり、先住民族の言語と接触が行われた結果、そのプラークリット語が編成され、先ずアパブランシャ語(崩れた・下品な言語)が形成された。それはさらに変遷してインド諸語の一種としてベンガル語が生まれた。
この変遷の過程のなかで先住民族の言語のほとんどはが姿を消した。ベンガル語の変遷は、さらにイスラーム教徒による征服の時代から英領インド時代まで続いた。イスラーム教徒による征服とともに、幾重にもわたって、中央アジア各地から様々な言語話者がこの地域に移住してきた。
中世においては、それまで南アジア亜大陸の宗教的且つ学問的な言語であったサンスクリット語の代わりに、ペルシア語が公共語として導入された。長い間このような社会言語的な変革の中で言語接触が頻繁に行われた結果、原始ベンガル語が形成された。現代ベンガル語の変遷は、次の通りである。
サンスクリット語>方言サンスクリット語>プラークリット語>アパブランシャ語>原始ベンガル語>現代ベンガル語
イスラーム教徒による支配期には、中央アジアからアラビア語、アフガン語、ペルシャ語やトルコ語のような様々な言語話者とともに、南アジア他の地域からも様々な言語即ちオリヤー語、ボジュプリー語、マルワリー語、カシミール語の話者が移住して来た。その結果として、ベンガル語の変遷課程の各段階に地域毎に様々な多言語状況が生まれた。
英領インド期にも、その移住の流れは止まらず、南アジアの各地域からオリヤー語、ボジュプリー語、マルワリ語、カシミール語、ネパール語、テルグ語などの話者が移住してきた。そして多言語状況がさらに拡大した。
当時の英領インド政権は、1835年に公共語としてペルシャ語の代わりに英語を導入した。この地域の多言語的状況は、1947年に英領インドからの分離独立によるパキスタンの誕生後、東パキスタン時代に更に変わった。なぜなら、ヒンドゥー教徒の多くはインドに移住し、インドから多くのイスラーム教徒と西パキスタンからの移民が流入し、人口構成を変えたからである。各時代の言語状況とその変遷の動向を位下に述べる。
1)初期(7世紀まで):対象とする地域(バングラデシュと西ベンガル州)には7世紀まで、言語間の接触は殆ど行われておらず、オーストロ・アジア系とチベット•ビルマ系、およびドラビダ系の少数民族が少なからず居住していた。その後、アーリア系の民族が南アジア西北部から移住してきて、ヒンドゥー教、仏教といった宗教の説教手段としてサンスクリット語の方言プラークリット語の使用が始まった。それを契機として、この地域において言語間の接触が始まった。
2)中世初期(750-1204年):この時期、インド•アーリア系民族が先住民族に統合し始めた。一方、インド•アーリア語話者の移民の流れは続いていた。そして先住民の言語と支配的なインド・アーリア、即ちプラークリット語との間に接触が始まった。そして仏教とヒンドゥー教の普及に伴ってプラークリット語は、アパブランシャ語(崩れた・乱れた言語)と言われるまでに変化が進んだ。
3)中世後期(1204年〜1576年):イスラーム教徒の征服に伴い、アフガン系、アラビア系、ペルシャ系、パタン系、トルコ系のイスラーム教徒がこの地域に移住して来た。そして先住民の人々と様々なイスラーム教徒の間で異族間の結婚が行われ融合が進んだ。その結果サンスクリット語から派生したアパブランシャ語と、イスラーム教徒が持ち込んできた新たな言語であるペルシャ語およびアラビア語との言語接触が行わた。これによってベンガル語の形成に向けて、アパブランシャ語がさらに変遷していった。
4)ムガル時代(1576~1757年):ムガル時代に入り、中央アジアからのアラビア系、ペルシャ系、アフガン系、トルコ系の移民が増え、先住民との融合が進んだ。この時期には、より多くの中央アジアの民族がこの流れに加わった。さらに、中央アジアのみならず、南アジアの近隣地域からオリヤー語、ボジュプリー語、マルワリ語話者も、移住して来た。この時期には、イスラーム教の説教言語としてアラビア語とペルシャ語が重要になった。こうした様々な言語話者の移動によって、アパブランシャ語が、アラビア語とペルシャ語と接触し、濃縮していった。イスラーム教徒による支配の下で、ベンガル語が変遷し文学的言語の手段として普及していった。
5)英領インド時代(1757~1947 年):亜大陸の近隣地域から他のインド語話者が、より多く、この地域に移住してきた。支配者である英語話者もそれに加わったそして教育の媒介語としての英語は、ベンガル語の形成に影響を与えた。その結果、当時英領インドの首都であったカルカッタの社会的•文化的環境において、標準ベンガル語が発展していった。この期に近隣地域の様々な先住民族の人々は、彼らのリンガ・フランカとしてベンガル語を受け入れるようになった。
6)パキスタン時代(1947~1971 年):この時期には、権力者であった全英語話者人口は、祖国イギリスに戻ったが、イスラーム教国家パキスタン誕生を契機としてインド北部からウルドゥー語とビハール語話者のイスラーム教徒が多く入ってきた。そして同じ国になったことによって、西パキスタンからもパンジャビ語、パタン語話者が入ってきた。他方、ボジュプリー語、マルワリ語、カシミール語、ネパール語、テルグ語話者のヒンドゥ-教徒は、この国を去ってインドに移動した。この時代は、言語政策遂行の過渡期として特徴づけられる。英領インド時代にカルカッタで標準化されたベンガル語は、東パキスタンの公用語の一つとして位置づけられた。
昔存在していた多言語的言語状況は、六つの言語状況段階を超え、バングラデシュの現在の言語状況が形成された。そして昔の多言語的状況から現在の単一言語状況に形成されるまで二千の年月がかかった。